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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第三章 あなたを追いかけて

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第60話 その断崖は、立ち入り禁止につき

 週が明け、祝日を挟んでの水曜日。

 季節はいよいよ4月の終わり。

 大型連休(ゴールデンウィーク)を目前に控え、校内はどこか浮足立った空気に包まれている。だが、一部の男子生徒たちの瞳だけは、休日への期待とは別のギラついた飢餓感を帯びていた。


 原因は、間違いなく俺の隣に並んで歩く九条さんにある。


 最近の彼女は、かつて人を寄せ付けなかった『氷の城壁』が嘘のように、その表情を和らげることが増えた……ように、周囲には見えるらしい。

 でもそれは、誰にでも愛想を振りまくようになったわけではなくて。

 周囲に対する鉄壁さは一切変わっておらず。ただ単純に、俺の傍にいる時だけ雪解けのような綻びを見せているに過ぎない。


「馬鹿言ってろ。お前のせいだよ。お前といる時だけ九条さん、よく笑うだろ。だから周りが勝手に焦ってんだよ」

 これが親友、健太の言葉だった。

 あいつに言わせれば、俺は突如現れた規格外の登山者みたいなものらしい。

 

 そう言われてもな。

 俺には自分から山に挑んだ自覚はさらさらなくて。むしろ、頂上にいた彼女の方が自らロープを下ろしてくれたようなものなんだけど……。

 

 だが、周囲はそうは見ない。

 誰もが登頂不可能だと諦めて、遠巻きに眺めていた極北の『孤高の大氷壁』。その上に咲く一輪の花目掛けて、スイスイと登っていく男が現れたとしたら?  

 麓で見上げていた連中は、

「もしかして、あの断崖は登れるんじゃないか?」

「誰かに先を越されるくらいなら!」

 とパニックになり、我先にと無謀なアタックを開始する。

 

 つまり、決して誰にもなびかなかった『高嶺の花』が、特定の男の前でだけ蕾を綻ばせているという事実は、全男子生徒たちに希望ではなく、強烈な焦燥感を与えてしまったわけだ。


『おい、見たか? 九条さん、あいつといる時だけあんなに笑うんだぜ』

『マジかよ……まさか、あの難攻不落の彼女が落ちかけている?』

『せめて気持ちだけでも伝えないと、一生後悔する』

 

 誰の手にも届かない。

 だからこそ、彼らは偶像として距離を保ち、平穏を保てていた。諦めることが出来た。それが、九条 葵という名の憧憬。

 だが、その氷壁に『男の影』が差した瞬間、均衡は崩れ去る。

「誰も行けない場所」ではなくなった途端、静観は生々しい欲望と焦りへ変わり、偶像は『攻略対象』へと変わる。

 

 誰かのものになってしまう前に──

 まだ間に合ううちに、想いを告げなければ──

 嗚呼、急げ。急がないと、本当に手の届かない場所へ連れ去られてしまうぞ。


 そんな焦燥感が、悲痛な決意が、連休前の校内を慌ただしく駆け巡っていた。

 

 正門から続く通りには、鮮やかなイチョウ並木が続いている。

 若緑色のトンネルをくぐるように、多くの生徒たちが登校していく中を、俺と九条さんも並んで歩いていた。

 周囲からの視線が、気持ちいつもより鋭い。


「──九条さん、ちょっといいかな」


 並木を抜け、校舎前のロータリーに差し掛かったとき。

 前方から歩いてきた一人の男子生徒が、逃げ道を塞ぐように俺たちの前に立ちはだかっていた。


「何でしょうか?」


 足を止めた九条さんの声は、俺と話していた時の柔らかな声音とは打って変わって、零度まで冷え切っていた。

 まさに『美しき白氷の断崖』そのもの。


 立ちはだかったのは、背の高い上級生。

 整った顔立ちに、知的な風貌。ネクタイの色が示す『三年生』という余裕をかなぐり捨て、彼は俺を一瞬だけ鋭く睨みつけると、覚悟を決めた瞳で九条さんへと向き直った。


「突然ごめん。……単刀直入に言うよ」

 先輩は焦りを隠すように朗々とした声で告げた。これ以上好きにさせるものか。

 隣にいる俺という存在を、力ずくで排除しようとする気迫を込めて。


「九条 葵さん。……君が好きだ。僕と付き合ってほしい」

 

 朝のロータリーに、激しいどよめきが走る。

 それは、焦燥に駆られた男子生徒たちによる、なりふり構わぬ『総反撃』の狼煙。


 直後、凍りつくような静寂が場を支配する。

 数十の視線が、彼女の薄紅色の唇に注がれていく。

 誰がこの牙城を崩すのかという密かな期待と、それでも誰のものにもならないでくれという悲痛なる願い。

 相反する二つがない交ぜになった、重苦しい沈黙が満ちてゆく。

 

 先輩は自信ありげに、あるいは祈るように手を差し出していた。

 対して、九条さんは。眉一つ動かさず、涼やかな瞳で先輩を直視すると、深く、丁寧にお辞儀をした。

 粛々と淑やかに。


「私のために勇気を出してくださったこと、そのお気持ち大変嬉しく思います」

 凛とした、通りの良い美しい声だった。

 その完璧な礼儀作法に、先輩の頬が微かに緩む。脈ありか、と期待したのだろう。


「じ、じゃあ……」

 だが、そうはならない。

 次の瞬間。

 彼女が顔を上げたのと同時に、その場は極寒の冬へと逆戻りした。

 全てが凍てついてゆく。


「ですが──ごめんなさい。そのお気持ちには、お応えできません」

 

 そこに迷いなど、一切ない。

 検討の余地すらない、断固たる拒絶が突きつけられた。

 差し出された先輩の手が、行き場をなくして空中で虚しく彷徨う。


「な、なぜだ……? 僕じゃ、不服なのか?」

「不服かどうかの問題ではありません。そもそも、私は先輩のことを何も知らないのです」

「なら……これから知ってくれればいい! 時間はいくらでも作る」

 先輩が必死に食い下がる。

 だが、彼女は冷ややかな瞳のまま、静かに首を横に振るだけ。


「いいえ。たとえどれだけの時間を費やしたとしても、私の答えが変わることはありません」

「そんなっ……」

「ですから、これ以上は──お互いの大切な時間を、無駄にしてしまいます」


 これ以上ない、完璧なるトドメだった。

 あれはキツイ。もし自分が言われたらと思うと、見の竦む思いがする。

『お互いの時間の無駄』

 その言葉は、貴方に割く時間は一秒たりともないという、死刑宣告にも等しい。

 合理的で、正論で、それゆえに慈悲がない。


 彼女は一歩下がり、流れるような所作でもう一度深く一礼した。

「──では先輩、失礼いたします」

「あ、あぁ……」

 先輩は呆然と立ち尽くし、力なく頷くことしかできなかった。


「ま、マジかよ……」

「嘘だろ……あの佐伯先輩でも駄目なのかよ……」


 誰かの震えるような呟きが、静まり返ったロータリーに木霊する。

 学年有数のハイスペック男子ですら、門前払い。検討にも値しない。その事実は、逆転を夢見ていた男子生徒たちの心をへし折るのに十分すぎた。


 静かな声で締めくくると、彼女は先輩に背を向け、迷わず俺の方へと歩いてくる。

 一歩下がって事の成り行きを見守っていた、俺の目の前まで。

 

 彼女は特に謝るでもなく、取り繕うでもなく。

 まるで、ようやく本来あるべき場所に戻ってこられた、とでも言うように、ホッとした顔で俺を見つめた。

 その瞳には、先ほどの冷徹さはもう欠片もなくて、いつもの穏やかな光だけがゆらゆらと揺れている。

 

 俺は自然と、彼女を迎え入れていた。

 そして周囲には聞こえない、二人だけの距離と声量で。柔らかく告げる。

「おかえり」と。

 

 その言葉に、彼女は花が咲くように微笑んだ。

 誰にも見せない、世界で俺だけへの笑顔で。

 

「ただいま、蒼くん」

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