第60話 その断崖は、立ち入り禁止につき
週が明け、祝日を挟んでの水曜日。
季節はいよいよ4月の終わり。
大型連休を目前に控え、校内はどこか浮足立った空気に包まれている。だが、一部の男子生徒たちの瞳だけは、休日への期待とは別のギラついた飢餓感を帯びていた。
原因は、間違いなく俺の隣に並んで歩く九条さんにある。
最近の彼女は、かつて人を寄せ付けなかった『氷の城壁』が嘘のように、その表情を和らげることが増えた……ように、周囲には見えるらしい。
でもそれは、誰にでも愛想を振りまくようになったわけではなくて。
周囲に対する鉄壁さは一切変わっておらず。ただ単純に、俺の傍にいる時だけ雪解けのような綻びを見せているに過ぎない。
「馬鹿言ってろ。お前のせいだよ。お前といる時だけ九条さん、よく笑うだろ。だから周りが勝手に焦ってんだよ」
これが親友、健太の言葉だった。
あいつに言わせれば、俺は突如現れた規格外の登山者みたいなものらしい。
そう言われてもな。
俺には自分から山に挑んだ自覚はさらさらなくて。むしろ、頂上にいた彼女の方が自らロープを下ろしてくれたようなものなんだけど……。
だが、周囲はそうは見ない。
誰もが登頂不可能だと諦めて、遠巻きに眺めていた極北の『孤高の大氷壁』。その上に咲く一輪の花目掛けて、スイスイと登っていく男が現れたとしたら?
麓で見上げていた連中は、
「もしかして、あの断崖は登れるんじゃないか?」
「誰かに先を越されるくらいなら!」
とパニックになり、我先にと無謀なアタックを開始する。
つまり、決して誰にもなびかなかった『高嶺の花』が、特定の男の前でだけ蕾を綻ばせているという事実は、全男子生徒たちに希望ではなく、強烈な焦燥感を与えてしまったわけだ。
『おい、見たか? 九条さん、あいつといる時だけあんなに笑うんだぜ』
『マジかよ……まさか、あの難攻不落の彼女が落ちかけている?』
『せめて気持ちだけでも伝えないと、一生後悔する』
誰の手にも届かない。
だからこそ、彼らは偶像として距離を保ち、平穏を保てていた。諦めることが出来た。それが、九条 葵という名の憧憬。
だが、その氷壁に『男の影』が差した瞬間、均衡は崩れ去る。
「誰も行けない場所」ではなくなった途端、静観は生々しい欲望と焦りへ変わり、偶像は『攻略対象』へと変わる。
誰かのものになってしまう前に──
まだ間に合ううちに、想いを告げなければ──
嗚呼、急げ。急がないと、本当に手の届かない場所へ連れ去られてしまうぞ。
そんな焦燥感が、悲痛な決意が、連休前の校内を慌ただしく駆け巡っていた。
正門から続く通りには、鮮やかなイチョウ並木が続いている。
若緑色のトンネルをくぐるように、多くの生徒たちが登校していく中を、俺と九条さんも並んで歩いていた。
周囲からの視線が、気持ちいつもより鋭い。
「──九条さん、ちょっといいかな」
並木を抜け、校舎前のロータリーに差し掛かったとき。
前方から歩いてきた一人の男子生徒が、逃げ道を塞ぐように俺たちの前に立ちはだかっていた。
「何でしょうか?」
足を止めた九条さんの声は、俺と話していた時の柔らかな声音とは打って変わって、零度まで冷え切っていた。
まさに『美しき白氷の断崖』そのもの。
立ちはだかったのは、背の高い上級生。
整った顔立ちに、知的な風貌。ネクタイの色が示す『三年生』という余裕をかなぐり捨て、彼は俺を一瞬だけ鋭く睨みつけると、覚悟を決めた瞳で九条さんへと向き直った。
「突然ごめん。……単刀直入に言うよ」
先輩は焦りを隠すように朗々とした声で告げた。これ以上好きにさせるものか。
隣にいる俺という存在を、力ずくで排除しようとする気迫を込めて。
「九条 葵さん。……君が好きだ。僕と付き合ってほしい」
朝のロータリーに、激しいどよめきが走る。
それは、焦燥に駆られた男子生徒たちによる、なりふり構わぬ『総反撃』の狼煙。
直後、凍りつくような静寂が場を支配する。
数十の視線が、彼女の薄紅色の唇に注がれていく。
誰がこの牙城を崩すのかという密かな期待と、それでも誰のものにもならないでくれという悲痛なる願い。
相反する二つがない交ぜになった、重苦しい沈黙が満ちてゆく。
先輩は自信ありげに、あるいは祈るように手を差し出していた。
対して、九条さんは。眉一つ動かさず、涼やかな瞳で先輩を直視すると、深く、丁寧にお辞儀をした。
粛々と淑やかに。
「私のために勇気を出してくださったこと、そのお気持ち大変嬉しく思います」
凛とした、通りの良い美しい声だった。
その完璧な礼儀作法に、先輩の頬が微かに緩む。脈ありか、と期待したのだろう。
「じ、じゃあ……」
だが、そうはならない。
次の瞬間。
彼女が顔を上げたのと同時に、その場は極寒の冬へと逆戻りした。
全てが凍てついてゆく。
「ですが──ごめんなさい。そのお気持ちには、お応えできません」
そこに迷いなど、一切ない。
検討の余地すらない、断固たる拒絶が突きつけられた。
差し出された先輩の手が、行き場をなくして空中で虚しく彷徨う。
「な、なぜだ……? 僕じゃ、不服なのか?」
「不服かどうかの問題ではありません。そもそも、私は先輩のことを何も知らないのです」
「なら……これから知ってくれればいい! 時間はいくらでも作る」
先輩が必死に食い下がる。
だが、彼女は冷ややかな瞳のまま、静かに首を横に振るだけ。
「いいえ。たとえどれだけの時間を費やしたとしても、私の答えが変わることはありません」
「そんなっ……」
「ですから、これ以上は──お互いの大切な時間を、無駄にしてしまいます」
これ以上ない、完璧なるトドメだった。
あれはキツイ。もし自分が言われたらと思うと、見の竦む思いがする。
『お互いの時間の無駄』
その言葉は、貴方に割く時間は一秒たりともないという、死刑宣告にも等しい。
合理的で、正論で、それゆえに慈悲がない。
彼女は一歩下がり、流れるような所作でもう一度深く一礼した。
「──では先輩、失礼いたします」
「あ、あぁ……」
先輩は呆然と立ち尽くし、力なく頷くことしかできなかった。
「ま、マジかよ……」
「嘘だろ……あの佐伯先輩でも駄目なのかよ……」
誰かの震えるような呟きが、静まり返ったロータリーに木霊する。
学年有数のハイスペック男子ですら、門前払い。検討にも値しない。その事実は、逆転を夢見ていた男子生徒たちの心をへし折るのに十分すぎた。
静かな声で締めくくると、彼女は先輩に背を向け、迷わず俺の方へと歩いてくる。
一歩下がって事の成り行きを見守っていた、俺の目の前まで。
彼女は特に謝るでもなく、取り繕うでもなく。
まるで、ようやく本来あるべき場所に戻ってこられた、とでも言うように、ホッとした顔で俺を見つめた。
その瞳には、先ほどの冷徹さはもう欠片もなくて、いつもの穏やかな光だけがゆらゆらと揺れている。
俺は自然と、彼女を迎え入れていた。
そして周囲には聞こえない、二人だけの距離と声量で。柔らかく告げる。
「おかえり」と。
その言葉に、彼女は花が咲くように微笑んだ。
誰にも見せない、世界で俺だけへの笑顔で。
「ただいま、蒼くん」




