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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第三章 あなたを追いかけて

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第59話 Dear Sou, From Aoi.

 左腕にずしりと重い野菜の袋を提げ、俺たちは夕暮れの街を歩く。

 肘に食い込む重さは、そのまま彼女と俺の「うっかり」の重さであり、これからの生活を支える糧でもある。

 緑ばかりのくせに、不思議と憎めないコイツら。

 今回ばかりは、光合成ができそうなほど青臭い食卓だって、笑って受け入れてやろうじゃないか。

 こ、今回だけだからな。

 

 場所は、二子玉川ライズ・ガレリア。

 駅の改札から真っ直ぐに伸びる、高い吹き抜けと整然とした石畳。

 洗練されたショップが立ち並ぶその華やかな通りを、俺たちは重い野菜の袋を提げて、生活感たっぷりに歩を連ねていた。


 ふと、さっきの買い物の様子を思い出し、口元が緩む。


「九条さんって……当然、俺と同じ年齢だよね?」

「え? それはそうよ。同級生だもの。……でも、どうして急にそんなことを聞くの?」


 彼女は不思議そうに首を傾げる。

 俺は少し笑いを噛み殺しながら、爆弾を投下することにする。たまには俺から仕掛けるのも悪くない。だろ?


「いや、さっき店で袋を持ち上げるとき、『よいしょ』って言ってたからさ。その掛け声、荷物を持つときの吉岡先生と一緒だなと思って」


「──っ!?」

 その瞬間。

 ガレリアの真ん中で、彼女の足がピタリと止まった。


「い、言ってないわ。私が、そんなおばさ……」

「言ってたよ。はっきりと『よいしょ』って」

「う、嘘よ! 言う訳ないもの!」

「言ってたって。結構いい声で。しかも今、吉岡先生のこと『おばさん』って言おうとしたろ」


「ち、違うわ、それは……!」

「へぇー。二十代半ばの吉岡先生がおばさんかぁ。今の言葉、本人に聞かせたら泣くぞ?」

 

「ううっ……そんなつもりじゃ……っ」


 ニヤニヤしながら追い詰めると、彼女はカッと顔を赤くし、ポニーテールをブンと振って抗議してくる。


「も、もう! いじわる! 最近の蒼くん、少しいじわるよ」

「そりゃそうさ、君を揶揄う特権を行使するのは、驚くほど楽しいからね」

「あっ、また……」

 呆れたように吐息をもらす彼女。

 けれど、これはもう、俺にだけ許された特権なのだから使うさ。

 ……そう思っていたのに。

 

「……その特権、やっぱり返してもらおうかしら。そもそもあげた覚えないもの」

「えっ、そんな。今更だよ」

 

 彼女は頬を膨らませて、ぷいっと顔を背けてしまった。

 でも、その瞳も口元も。少しも不機嫌そうじゃない。

 学校では絶対に見せない、俺だけが独占できる等身大の九条 葵。その事実が俺に堪らない優越感を感じさせてくれる。浸らせてくれるんだ。


 そしてやっぱり、そんな拗ねた態度は長くは続かなかった。

 歩き出して数歩もしないうちに、彼女の視線が俺に戻ってくる。

 チラチラと、何度も、何度も。

 おかえり、九条さん(笑)

 

 長いまつ毛を揺らしながら、俺の顔と、野菜袋が食い込んでいる左腕を交互に見つめてくるのだ。


「……九条さん、顔に何かついてる?」

「ち、違うわよ」


 彼女は慌てて前を向くけど、すぐにまた心配そうな視線が飛んでくる。

 本当に、この人は根が優しすぎる。というより、俺のことばかり見すぎだよ。


 やがて、彼女は意を決したように俺の袖をクイと引いた。


「ねえ、水無月くん」

「ん?」

「……一旦、休憩しない?」


 立ち止まり、上目遣いで覗き込んでくる瞳。

「疲れたから」という建前ではなく、明らかに「あなたを休ませたい」という響きを含んだその甘い提案を、断れる男はこの世に存在しないだろう。


「……確かに、ちょっと腕がだるくなってきたかもな」

「ほら、やっぱり!」

 俺がわざとらしく肯定すると、彼女は「ほらご覧なさい」と言いたげに、けれど嬉しそうに俺の袖を引いた。

 本当はまだまだ平気なんだけど。

 まあ、この可愛さに免じて、疲れたということにしておくとしよう

 

 彼女に連れられてエレベーターに乗り、辿り着いたのは──

 ライズの屋上『ルーフガーデン』だった。


 そこは、まさに別世界のよう。

 下の通りの喧騒が嘘のような、静けさ。

 多摩川の方角から吹き抜ける夜風が、火照った頬に心地いい。空はすでに深い群青色に染まり、遠くに見える街の灯りが、まるで宝石箱をひっくり返したように輝いている。


「わあ……とても綺麗ね」

「すごいな。ここに来るの、いつぶりだろう」

「む、もしかして昔、他の女性と来た、とか?」

「俺が? そんな訳ないだろ。つい最近まで、こういうイベント事には興味すらなかったんだ。……そんな愛想のない奴、誰も誘うわけないさ」

 

 苦笑まじりに答えると、彼女はどこか安心したように表情を緩めた。

 つい最近まで、こういう『青春の1ページ』のような行動を、面倒くさいとさえ思っていたのは本当のことだ。

 早くに両親を亡くし、孤独に生きていくことに精一杯だった俺にとって、他人の賑やかさはどこか遠い世界の出来事のようで。眩しすぎた。

 だからどこかで、人生を悟ったような、冷めた視線で世界を見ていた。


 けれど……そんな俺の停滞した時を、彼女は強引に、そして鮮やかに動かしてしまった。

 目の前で、宝石のような夜景を瞳に映して微笑む君の横顔を見ていると、かつての自分が抱いていた諦観が、随分と昔の、見知らぬ誰かの記憶のように思えてくるから不思議だ。


 目の前には、二子玉川の街を一望できる『青空デッキ』が広がっているが、今の時間帯はまだ少し人が多い。

 彼女は周囲を見渡すと、「こっち」と俺の袖をさらに引いた。


「もう少し、奥に行きましょう?」

「はいはい、お姫様」

「ふふ、なにそれ」


 小径を抜け、デッキの開放感と、原っぱの静けさが混じり合う絶妙な場所に、空いているベンチを見つけた。

 ここなら人通りも少ないし、夜景も二人占めできる。


 荷物を下ろして座ると、肘からずしりとした重みが消え、代わりに心地よい疲労感と川からの涼しい風が全身を包み込んだ。

 

「お疲れ様、蒼くん。ここで待っててくれる?」

「え? どこ行くんだ?」

「喉、乾いちゃったから。飲み物を買ってくるわ」

「それなら俺が行くよ」

「だーめ。怪我人は、そこでお留守番よろしくね」


 腰を浮かせかけた俺を、彼女は人差し指一本で制した。

 はは、その毅然とした顔こそ、有無を言わせぬ九条 葵の真骨頂だね。


「すぐそこだから。……いい子にしててね?」

「俺は子供か」

 俺が苦笑して返すと、彼女もまた満足げに目を細める。

「ふふ、そうかも」

「なんだよそれ」

 

 どちらからともなく、笑い声が零れた。

 二人だけの穏やかな笑い声が、夜風に溶けていく。こんな何気ないやり取りが、どうしようもなく心地いい。

 父さんと母さんがいなくなってから、こんなに穏やかで幸せな時間が自分に訪れるなんて、思ってもみなかった。


「じゃあ、行ってくるわね」

「ああ、気を付けて」

 

 彼女は軽やかな足取りでテラスの方へと向かっていく。

 タッタッタッと軽やかな足音。

 走るたびに、高い位置で結われたポニーテールが楽しげに揺れている。


 その背中が見えなくなるまで見送り、俺は大きく息を吐いて夜空を見上げた。

 闇に溶け込む多摩川の水面と、対岸の街明かり。時折遠くで響く電車の音が、心地よいBGMのように耳を掠める。


「──九条、葵か。名前まで綺麗だよな」


 独り言が、夜風に消えた数分後。

「お待たせ、蒼くん」

 鈴が鳴るような声と共に、彼女が戻ってきた。

 その手には、二つのコーヒーボトル。

 

「はい、ブラックでよかったわよね?」

「ああ、ありがとう。……ん?」

 受け取ったボトルのラベルを見て、手が止まる。

 そこには『Aoi_Kujo』と俺の名前ではない文字が印字されていた。

 反対に、彼女が持つボトルを見ると、そこには『Sou_Minazuki』の名が刻まれている。

 

「……あれ? これ、名前が反対じゃないか?」

「ううん、これでいいの」


 彼女はそう言うと、俺の名前が書かれたボトルを、愛おしそうに両の手で包み込んだ。

「記念に、持っておきたいなって思って」

「記念?」

「うん。初めて二人で買い物した、大切な日の記念。……それにね」


 彼女は少し照れくさそうに微笑み、ボトルを夜景にかざした。

 宝石のような光を透かして、澄んだ液体の中に俺の名前が浮かび上がる。


「今日は蒼くんから、いっぱい色々なものをもらえたから。……せめてこのボトルだけでも記念に、持っていたいの。いい……よね」

「じゃあ、俺も持っていようかな」

「ふふ、じゃあお礼にさっきの特権、返してあ・げ・る」

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