第5話 背に宿る悪魔
あの、九条 葵が僕の隣に腰を掛けて、静かに文庫本のページをめくるという、とても不思議な時間、空間? それがしばらく続いていた。
それでも、根本は穏やかなはずだった。
そう、あの悪魔が再び目を覚ますまでは……。
背中の右の肩甲骨あたりに宿ったコイツが憎い。絶妙に手の届かないところが痒くて堪らないんだ。
……我慢だ、死ぬ気で我慢しろ。いいな蒼。
心の中で、必死に念仏のように唱える。
隣には、あの「高嶺の花子さん」がいるんだぞ? それも目と鼻の先に。
我が校の生徒なら、誰もが羨むような空間に違いない。健太ならきっと『購買の焼きそばパン一か月分』さえ差し出すだろう。コーヒー牛乳すら付けるかもしれない。
そんな彼女を隣に置いて、ベッドに背をいやしく擦りつけられると思うか?
答えは否だ!
脳裏に蘇るのは、先ほどの彼女の言葉だよ。
『何かあったら、いつでも、何でも言って』って。
本当に何でもいいのかな?
大体さ、男子相手にそのワードを選ぶセンスってどうなんだよ。刺激が過ぎるでしょうに。……でも、もう、そんなくだらないことを言っていられる状況じゃ、ない。
僕は、とことん追い込まれていたんだ。
「く……九条さん」
「なに?」
文庫本から顔を上げずに、声だけで応える麗しの君。
その態度が殊更難易度を上げているのを、君はわかっているのだろうか。
「……やっぱ、いいや」
くっそ、弱虫な……自分が悲しい。
「何か、して欲しいことがあるなら、言って」
ページをめくる指を止め、彼女は本から顔を上げる。
それから、吸い込まれそうなほど澄んだ切れ長な瞳で、俺を真っ直ぐに見つめてくるから、もう逃げ場すらない。
こうなっては、開き直るしかないよな。
「な、何でもいいんだよね?」
「ええ、何でもよ」
「いや……実はその、背中が痒くて堪らないんだ。気になりだしたら、余計に痒くてさ」
羞恥で燃え上がりそうな顔を背けて、それだけを伝えると、彼女は明らかに拍子抜けしたような表情で、小さく息を吐いた。
「なんだ、そんなこと」
俺のさんざ悩みに、悩み抜いた末のあの時間は、なんだったんだ!
ここは、声を大にして言いたいところでもある。
彼女は、読んでいた文庫本にそっと栞を挟むと、静かに椅子から立ち上がる。そして俺のすぐ傍に立ち、淡々とした口調で尋ねてくる。
「どのあたり?」
「え? あ、えっと……右の、肩甲骨のあたり、かな……」
「ここ?」
その言葉と共に、すらりとした指が、俺の患者衣越しにそっと背中に触れるから。
その瞬間、まるで慣れない場所に電流が走ったかのように、俺の体は硬直してしまう。
「……っ!」
「ここで、あってる?」
「……もう少し、右かな。そう、そこ……!」
誘導する言葉に合わせて動いた彼女の指先が、ついに痒みの震源地を捉え始める。
カリ、カリと、ちょっぴり恥ずかしい音が、二人の間に流れだす。痒みが引いていく幸福感と、それとは全く別の種類の感情が、ごちゃ混ぜになって胸を満たしていくような。
あぁ、でも気持ちいい。
「強さは、このくらいでいい?」
「あ……う、ん……」
その指つきはどこまでも丁寧で、真剣そのものだった。やがて背中の悪魔が完全に沈黙し、彼女が「どういたしまして」と何事もなかったかのようにすっと指を離す。
そうして気づいたんだ。
彼女の顔がすぐそこにあることに。
今まで、どうして気づかなかったんだ。
ふわりと香る、甘い匂いにドギマギする。
少し顔を動かせば、吐息が触れてしまいそうなほどの、絶対的な距離。
顔だけじゃない。制服越しにも分かる、華奢な肩のライン。白くて細い首筋。そして、さっきまで俺の背中にあったはずの、驚くほどしなやかな腕……。
それでも、所詮同級生と侮っていたその姿が、あまりにも生々しい『女性』の身体なのだと突きつけられて、俺の思考は、今度こそ完全に沸騰した。
耳を澄ませば、きっとプシュ~と聞こえたはずさ。
冷静を繕って再び文庫本を開き、静かに読書の世界へと戻っていくように見せるけど。その耳が、真っ赤に染まっているんだよ。
あれは……熱に浮かされた俺の、見間違いなのかな。
そうじゃないと、思いたい。
そんな、言葉にならない思いが頭の中を、巡り巡っていた時だった。
九条さんの時よりも、いくらか遠慮のないノックの音が響いたのは。
「どう、水無月くん。順調かな?」
スライドドアを開けて入ってきたのは、人の良さそうな男性医師で。
その後ろには、若い看護師さんがカートを手に控えている。その瞬間、先ほどまで流れていた甘酸っぱい雰囲気は、跡形もなく消え去った。
椅子に座っていた九条さんが、身を正して立ち上がる。医師は俺の顔色や、ギプスの装着具合などを確認すると、手にした書類に目を落とし、穏やかだけど有無を言わさぬ口調で告げた。
「では、改めて君の怪我の状態を説明しておこうかな。まず、利き腕である右腕の骨折。それから、左手。こちらは小指と薬指の二本を骨折している。肋骨にはヒビが入っているね」
一つ一つ、事実が宣告されていく。
薬指もだったのか。どうりで、左も動かしづらかったはずだ。
「幸い、内臓に損傷はなかった。これは不幸中の幸いだよ。ただ、全治には……そうだな、一か月から、長くて二か月はかかると思っておいてほしい」
一か月から、二か月だって?
その言葉がまるで重い鎖のように、俺の心に絡みついてくる。その間、俺は、この不自由な体のまま、どうやって……。
「退院は、明後日の日曜日にしようか。午前中にはできるだろう。会計については、後ほど受付で聞いておくように」
医師はそこで一度言葉を切ると、カルテ(?)へ目を向け、そのまま真っ直ぐに俺に問いかけてくる。
「ただ、君、失礼だけどご両親はいないよね? この状態で、一人で大丈夫かい?」
最も触れて欲しくない、デリケートな部分でもある。
ただ、医師として当然の問いでもあるよな。生活が出来ない者を、退院はさせられないのかもしれない。ただ、こればかりはどうしようもないのも事実。
一人逡巡する自分を置いて、凛とした声が二人の間に割って入ってきた。
「先生。退院後の彼の生活については、ご心配には及びません」
今まで黙って話を聞いていた九条さんだ。
「私が、責任をもって、彼の面倒を見ますので」
その言葉に、俺はただ呆然とするしかない。理解が追い付かない。
医師は毅然と立つ九条さんと、それからベッドの上で固まっている俺とを、面白そうに見比べている。
「そうは言っても、君は未成年だろう?」
「ですが、必要なら両親の同意書も用意できます」
「そうか、なら、わかったよ」
「いやあ、しかし」
医師は、わざとらしいほどの小声で、こう囁いた。
「彼女かい? すごい美人な子を連れてるね。やるなぁ、君」




