第4話 高嶺の花子さん、どうか見ないで!
右手は分厚いギプスに覆われ、ただの痛い重りでしかない。
左手でなんとかしようにも、小指の骨折が、掴むという単純な動作から繊細な力を奪い去るように効いている。
無理矢理スプーンを握りしめてみても、震えがスープに伝わり、真っ白なシーツに染みを作るだけ。
そうなれば、当然こうなる訳で。
「やって、られるか……」
俺は、朝食を諦めることにした。煩わしいことこのうえない。
憮然とベッドに横たわっていると、今度は背中の、絶妙に手の届かない場所に痒みが走った。気になり始めると、何だか、頭まで痒くなってくるから不思議。
そんな、健常者なら秒で解決できる欲求が、今の俺には、山嶺よりも高く感じられるんだ。ホント笑いごとじゃない。
体をよじろうとするだけで、胸の奥に鋭い痛みが走り、呼吸が浅くなる。
ただ、背中を搔いてもらう。それだけの為に『ナースコール』を押してもよいのだろうか。良いとしても、それはそれで恥ずかしくもある。
コン、コン、と。
控えめなノックの音が、俺の思考を中断する。返事をする間もなく、静かにドアがスライドしてゆく。看護師さん、待ってました。
ナイスタイミングすぎるよ!
でも、そこに立っていたのは、制服姿の九条 葵──紛うことなき我が校一の美人、通称『高嶺の花子』さん、その人だった。
いや、都内一か? なんなら関東一でもいい。
心臓が、やかましい音を立てて暴れ始める。
いつも教室の隅から、あるいは廊下の向こうから、こっそり遠巻きに眺めるだけだった雲の上の存在。なのになんで俺は、よれた病院のパジャマなんだ? そんな馬鹿な思考が一瞬頭を駆け巡るほど、動揺していたのだと思う。
見れば見るほど、丹念に作り上げられた芸術品のような顔が尊い。
長い睫毛に縁取られた、吸い込まれそうなほど澄んだ瞳がヤバイ。何がヤバイって語彙力が崩壊しそうな俺も十分ヤバい。
そして、その瞳が心配そうに、こちらを真っ直ぐに見つめていることに今さら気づく。
これはマズイ。いや、思わず、思考が停止してしまう。
何か言わないと。でも、一体何を?
「水無月くん……こんにちは」
彼女のか細い声で我に返る。
時計を見れば、まだ午後の早い時間だ。彼女は学校を、早退してきたのかもしれないな。その手には、お見舞いの品らしい小さな紙袋が握られている。
彼女が病室に入ってきた。
一歩、また一歩と、ベッドに近づいてくる。
俺の視線は偶然、自分の体の右側、ベッドサイドに吊り下げられた『あるもの』に釘付けになっていた。
おい、き、いろ……だと?
透明のビニール製のバッグ。その中には俺自身の、あまりにも生々しい液体が溜まっていることに今さら気づくなんて!
彼女の視線が、ふと、俺の視線を追うように続くから堪らない。万事休すか。
やめて! 見ないで!
俺は必死に、掛け布の端を左手の動く指で掴み、足で蹴り、それを隠そうとした。けれど、そんな付け焼き刃の抵抗はあまりにも無力で。おまけに胸には激痛が走る始末。
「あいたっ」
ハハ、俺の高校生活はいま、終わった。
完膚なきまでに、砕けて散ったね。二年になったばかりだというのに、もう。
シモを我が校一の、高嶺の花子さんに見られてしまうという大失態だ。俺の顔から急速に血の気が引いていくのがわかった。なんだかもう耳の奥までもが、キーンと鳴り始めている。
羞恥と屈辱で、死んでしまいたかった……。
穴があったら入りたかった。
骨が折れた痛みなど、どうでもいいくらいに。
今すぐ、この場から消えてなくなりたかった。
けど、彼女の反応は、俺の予想とは違っていて。
九条さんは、顔を赤らめるでもなく、慌てて目をそらすでもない。ただ、その美しい貌を深い、深い悲しみと痛みで歪ませたのだ。まるで、自分の胸をナイフで抉られたかのように。
そして、俺の、惨めで幼稚な抵抗に気づくと、彼女は静かに首を横に振る。
「……こんな状況なんだもの。恥じる必要なんて、ないわ」
その声は、ひどく優しかったよ。
まるで恋人のように。
だと言うのに、俺は、何も答えられなかった。
ちっぽけなプライドがこれでもかと、邪魔をしていたのだと思う。何と言われても、恥ずかしいものは。恥ずかしいのだ。
そんな、恥という字で埋めつくされそうな、気恥ずかしい沈黙を破ったのは、彼女の涼やかな声で。
彼女は、自分の通学鞄から一冊のノートを取り出す。
「別に、大したことじゃないのだけど……。今日のノート、取っておいたから。時間があるときに見ておいてね」
そして、躊躇いがちに、こう付け加えた。
「水無月くん、成績もよかったはずだから……。授業に出られないと、困るかなと思って」
「ありがとう。落ち着いたら、見ておくよ」
「うん」
この気持ちは何だ。
いつも遠くから眺めるだけだった高嶺の花が、俺という存在を確かに認識していたと知り、嬉しいのか?
「あと、小園くんが、すごく心配してた。『お見舞い、俺が一番に行く!』って息巻いてたけど、吉岡先生に止められてたわ」
「え、どうして?」
「うるさいから、他の患者の迷惑になるとかじゃない?」
的確で、少しだけドライな彼女のツッコミに、俺は思わず、肋骨の痛みを忘れて噴き出してしまう。
「……っはは、あいつらしいや。っ……いたっ!」
でも、久しぶりに心の底から笑った気がするから、いいか。
俺の笑い声につられたのか、彼女の口元にも、ほんの僅かに柔らかな笑みが浮かんでいる。たったそれだけのことで、張り詰めていた病室の空気が俄かに和らぐ。
彼女は、静かにベッドサイドに備え付けられていたパイプ椅子に腰を下ろした。
そして、流れるような自然な動作で、すらりとした長い脚を組む。無機質なパイプ椅子に制服姿という、よくわからない光景のはずなのに。彼女がやると、どうしてこうも絵になるのか。
まるでファッション誌のワンシーンを切り取ったみたい。
呆然と見惚れていると、彼女は鞄から取り出した文庫本のページを開きながら、少しだけ俯き加減に、はっきりとした声で言う。
「貴方の邪魔しないようにするから。許してくれる? それと、何かあったらいつでも、何でも言って」
ありがたいけどさ、いや、本当にありがたいよ?
でも願いなんて、言えるわけがないよ!




