第3話 見覚えのある制服
身を襲う、破壊の衝撃の大きさよ。
まるで紙切れのように、我が身は宙を舞う。
叩きつけられるアスファルトの、どうしようもなく冷たい硬さ。全身を襲う、骨が軋み砕けるような鈍い絶叫に、死という文字がはっきりと脳裏へ浮かぶ。
遠のいていく意識の中で、人々の喧騒が、まるで深い水の底にいるようにくぐもって聞こえてくる。
ああ、でも。
あの女の子が、変にトラウマにならなければいいけど……。
薄れゆく視界の端で、あの黒いミニバンの後部座席のスライドドアが、静かに開くのが垣間見えた。そこから滑り出るように現れた、すらりと長い脚。
見覚えのある制服のスカート。
それが、俺が見た最後の光景だった。
深い、深い水の底を漂っているみたいで。
不思議とちっとも痛くないんだ。
意識は、浮かんでは沈むことをただ繰り返しているような。時折、水面近くまで浮上すると、断片的な光景と音が、脳を掠めては過ぎ去っていく。
「……バイタル安定しないぞ! 急げ!」
「……先生! 血圧が……!」
「急ぎ、家族に連絡しろ!」
「先生、それが……」
誰かの、切羽詰まった声。
目を開けているのか閉じているのかもわからない視界に、白い光が走り抜ける。
「聞こえる!? しっかりして!」
懸命に呼びかける、知らない女性の声がやかましい。
ああ、うるさいな。少し、静かにしてくれ。
俺はただ、眠りたいだけなんだ。頼むよ。そう願ったのを最後に、俺の意識は再び、どこまでも静かな湖底へと沈んでいった。
次に意識が浮上した時、耳に届く音は妙に不愉快で、規則正しいものに変わっていたことに気づく。
ピッ、ピッ、ピッ……。
自分の心臓の音に同期しているかのような、単調な電子音が続く。
ゆっくりと、鉛のように重い瞼をこじ開けてみる。
最初に目に飛び込んできたのは、染み一つない、殺風景な白い天井だった。
……病院、か。
どうやら、最悪の事態だけは免れたらしい。
消毒液の匂いが、その事実を静かに肯定してくれる。
けれど、すぐに全身が悲鳴を上げた。見ると、右腕が分厚いギプスで固められている。左手にも、小指に添え木が当てられているらしく、動かそうとして、走った鋭い痛みに顔をしかめるしかない。
息を吸い込むたびに、胸の奥までが鈍く軋んだ。
「車に跳ねられたんだ。こうもなるか……」
少しでも状況を把握しようと、ゆっくりと首を巡らせてみる。
というか、まともに動かせそうなのは首か、足しかなかったり。
清潔で、整頓された病室。
窓の外は、もうすっかり夜の闇に染まっている。だが、何かがおかしい。ここは静かすぎるんだ。
大部屋特有の、他の患者の咳払いやナースステーションの喧騒が、一切聞こえてこない。そして、この部屋は、不釣り合いなほどに豪華で広かったんだ。
もしかして特別室……俺が? なんで?
場違いな疑問が頭に浮かんだ、その時だった。
ベッドの傍ら、今まで気づかなかった椅子の上で、誰かがこくりこくりと舟を漕いでいる。俺が身じろぎした気配に気づいたのか、その影がびくりと震えて、ゆっくり顔を上げた。
そこにいたのは、皆が知る『彼女』の姿ではなくて……。
いつも完璧に整えられている艶やかな黒髪は千々に乱れ、陶器のように白い肌は青ざめている。そして何より、あの宝石のように澄んでいたはずの瞳は、真っ赤に染まっていた。
涙を流していたことが、一目瞭然だったんだ。
どうして君が泣く、んだ? しかも、泣き疲れるほどに。
俺たちって、そういう関係だったっけ?
強がってはいても、内心で皮肉を言うのが精一杯。
「えと、もしかして、九条、さん……?」
掠れた声で、それを口にするのがやっとの有様だよ。
俺の声が引き金になってしまったのか、彼女の瞳から、堪えていた雫がぽろりと一筋、零れ落ちてしまう。
え、なんで?
「蒼、くん……っ!」
蒼? どうして君が、俺の名前を。しかも下の名で。
おまけに、その声は妙に震え、罪悪感と安堵がない交ぜになった、悲痛な響きをしているような。
すると、彼女は椅子から滑り落ちるように床へ膝をつくと、まるで祈るように、懺悔するかのように、震える声で深く深く頭を下げ始める。
「ごめんなさい……! 本当に、ごめんなさい……っ!」
混乱する俺の思考を置き去りにして、彼女の嗚咽だけが、静かすぎる病室にいつまでも響いている。
「……どういう、こと……?」
やっとのことで絞り出した声に、彼女はようやく泣き濡れた顔を上げた。
その瞳は、何かを決意したように、真っ直ぐに俺だけを射抜いていて。
「あの車に乗っていたのは、私なの」
衝撃の言葉を吐いた。
その一言が、俺の頭の中で散らばっていた記憶のピースを、一つの残酷な絵として完成させる。
あの、黒いミニバン。
どこか、見覚えのある出で立ち。
最後に見た、記憶に残るスカート。そういうことか。
「スタジオで撮影の予定が入っていたから、マネージャーが迎えに来てくれていて……。父も母も、お詫びの言葉を伝えたくて急ぎ駆け付け、遅くまで待っていたのだけど……ああ、本当にごめんなさい」
矢継ぎ早に紡がれる言葉が、鼓膜を通り過ぎていく。
つまり、こういうこと?
俺を轢いたのは、君が所属する芸能事務所(?)の人間で、その車に九条 葵が乗っていたと。
だから、こんな大げさな個室で。
だから、彼女はこんなにも目を腫らしていて。
それで、見たことも無い一面を自分に、見せている……と。
呆然と事実を飲み込んでいると、彼女は床についた膝を僅かに進めて、懇願するように言葉を続けた。
「私、出来る限り、精一杯、貴方のことを支えるから」
それを聞いた時、てっきり、罪の重さに耐えかねた女性の、悲痛な許しのように俺の耳には届いていて、自分自身そう理解していたけど。
それは、半分間違いだった。
俺は、彼女が本当に言いたかったことの意味を、まだ何も理解してはいなかったのだと知るのは、もう間もなくのこと。
その夜はどうにか頼んで、とにかく九条さんには帰ってもらった。
モデルでもある彼女が、夜更けまで男と二人きりでいるべきではないし、帰りに何かあれば、それこそ目も当てられない。責任なんて取れない。
俺の中の、なけなしの理性がそう判断したから。
彼女は何度も何かを言いたそうにしていたけど、最後には力なく頷き、深々と頭を下げて病室を去っていった。
そして、地獄のような朝が訪れる。
容赦なく差し込む朝日が、俺の意識を現実へと引きずり戻す。それから、運ばれてきた朝食のトレーを見て初めて、自分が置かれた状況の絶望的な本質を理解するに至る。
ただ、牛乳にストローを刺すことさえ、ままならないなんて。
そんな、馬鹿な。
どうやって飲めというんだよ!
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