第2話 その日常は唐突に
どこにでもある、ありふれた朝だった。
焼けたトーストの香りが微かに残るワンルームで、手早く身支度を整え、水無月 蒼は玄関のドアに手をかける。カチャリ、と無機質な鍵の音が、朝の廊下に虚しく響く。
両親を事故で亡くし、はや数年。
祖父母の元を離れ、両親が遺してくれた保険金で一人暮らしの真似事を始めてからは、この静けさにもすっかり慣れてしまっていた。
……寂しくないと言えば嘘になる。けど、自分の境遇を不幸だと嘆く趣味もない。
そうやって感傷に浸るには、日々の生活はあまりに忙しすぎたと言うのも、多分にある。
学業も、炊事も、洗濯も、生活の雑事すべてが自分一人の双肩にかかっている。
誰も代わってはくれない、甘やかしてもくれない。その絶え間ない現実だけが、孤独という名の感傷を忘れさせてくれる、唯一の救いだったのかもしれない。
そんなことを考えながら、重い通学鞄を肩にかけ、俺はいつものように学校へと向かう。一たび教室の扉を開ければ、そこには孤独な一人暮らしの静けさとは一切無縁の、賑やかで少々小うるさい日常が待っていた。
単調で気怠いばかりの授業。かと思えば、吉岡先生が教壇に立つ英語の時間には、その人柄に惹きつけられるように、自然と背筋が伸びていたりもする。
それから、健太との騒がしい昼休みが過ぎれば。
アンニュイに窓の外を眺めては、早くも放課後のことを考えているクラスメイトたちがいて。
そうやって、時計の針はいつもと同じ速度で時を刻んでいく。
昨日と何も変わらない、ありふれた一日になるはずだったのに……。
終礼を終え、担任の、
「気を付けて帰るように」という終わりの声が響くと、教室は活気溢れる喧騒に包まれていく。その解放された空気の中を、健太と共に廊下へと歩み出ていた。
ふと、友人が掲示板の前で歩みを止める。
それは『生徒会役員、募集! 来たれ新二年生!』という、少しだけ堅苦しい明朝体の文字が目に飛び込んできたからだろうと、すぐに分かる。
なぜなら全く同じものを、自分も朝に見たからだ。
「なあ、蒼」
健太が、何かを企む子供のような顔で、肘で軽く脇腹をつついてくる。
「九条さんってさ、生徒会、めちゃくちゃ似合うと思うんだよな~」
その言葉につい、壇上で全校生徒を前に、凛とした態度で演説をする九条さんの姿を、いとも容易く想像してしまう自分がいる。
確かに似合いそうだ。
健太の言う通りかもしれない。
「彼女がもし立候補するなら、俺も、しようかな……。生徒会に入れば、九条さんとお近づきになれる、またとないチャンスじゃね?」
「……お前が受かるわけないだろ」
「そう言うなよ、なぁ蒼、一緒に立候補しようぜ。な?」
「無理だって、俺にはそんな暇はないの知ってるだろ」
現実的な一言に、友人の立候補熱がしゅるしゅると萎んでいく。
「……だよな。バイトや、家のこともあるもんなぁ」
「そういうこと」
健太の「じゃあな」という声に手を上げて応え、俺は一人、昇降口へと向かう。自分の人生は、学校生活の中だけでは完結しないことを知っている。
部活動、友人との他愛ない寄り道。生徒会もそうだろう。
ここにいる誰もが当たり前に持っている放課後の選択肢を、俺は最初から持ち合わせていない。
そんな、どうしようもない事実を噛み締めていた時だった。
「水無月くん」
心地よい、耳慣れた声に呼び止められ、振り返った。
そこに立っていたのは、担任の吉岡先生。とても若くて、いつも穏やかな笑顔を絶やさない先生は、俺の事情を知る数少ない一人だったりする。
彼女は俺たち男子生徒にとって、どこか特別な存在。
何て言えばいいか……、大人でもなく子供でもない俺たちの世界にいる、唯一の自立した『大人の女性』──そんな憧れを、クラスの男子はみな、多かれ少なかれ抱いていると思う。
だのに、授業も分かりやすいときた。
だからこそ、二年連続彼女のクラスという栄冠を勝ち得たのは、本当に有難く嬉しいことなのさ。
ちなみに、例の九条さんとは二年になってからが初めてで、健太が天にも昇りそうなほど舞い上がっていたのを、今もはっきりと覚えている。
「先生、何か?」
「ううん、ちょっとだけ。……最近、顔色が少し悪いみたいだけど、ちゃんと食べてる?」
その言葉は、まるで母か姉のように優しくて、真っ直ぐに胸の内に届くんだ。だからこそ、少しだけ返答に窮した。
「……はい。大丈夫です」
「そう? ならいいんだけど。何か困ったことがあったら、絶対に一人で抱え込んじゃだめ。先生でよければ、いつでも力になるからね」
「ありがとうございます」
と頭を下げる俺に、吉岡先生は、
「じゃあね」と優しく微笑んで、職員室の方へ戻っていった。
その背中を見送りながら、俺は胸の中に温かいものと、同時に少しだけチクリと痛むものが広がるのを感じていた。
心配してくれる人がいる。
その事実に感謝しながらも、心配をかけさせてしまっている自分が、少しだけ情けなかったりもするのだ。大人になり切れていないが故の、ちっぽけなプライド。
下駄箱で革靴に履き替え、一人、校舎を出る。
西日が長く伸ばした自分の影を、ただ黙って踏みしめながら、蒼はいつものように帰路についた。
いつもの交差点。
多くの人が、チカチカと点滅する赤い信号が変わるのを、まだか、まだかと待っている。
その群衆の中に、小さな女の子の手を引く母親の姿が目に入った。女の子は、大事そうにクマのぬいぐるみを両の手で抱えている。その何気ない光景に、蒼はほんの少しだけ、心の奥が温かくなるのを感じていた。
──今はもうない、父と母の温もり。
その、瞬間だった。
「あっ!」
雑踏に小さく響く、少女の悲鳴。
彼女が抱えていたクマのぬいぐるみが、手から滑り落ちた。不運にも、ぬいぐるみはアスファルトの上を数回跳ねて、車道まで転がってしまう。
左右からは、車が途切れることなく流れている。
「私のくまさん……!」
母親が止める間もなかった。
少女は、大切な宝物を追いかける一心で、その小さな手を振りほどき、無邪気に車道へと駆け出してしまう。
危険に晒された幼き身体。
キキキキィッ!!
鼓膜を突き破るような甲高いブレーキ音が鳴る。
黒い大型のミニバンが、滑るようにして少女の小さな体に迫る。そのフロントグリルは、まるで巨大な獣の顎か何かのようだった。
世界が、スローモーションになる。
悲鳴を上げる母親。驚いて立ちすくむ人々。
「危ない!」
思考は霧散し、体が一本の鋭い衝動になる。
蒼は人波をかき分けるように飛び出し、少女の小さな腕を掴むと、そのまま力任せに歩道側へと突き飛ばした。
どん、と尻もちをつく少女の泣き顔が、やけに鮮明に見える。
……間に合って、よかった。
安堵したのも束の間、蒼の視界は、急速に迫る鉄の塊で塗り潰されていく。




