第18話 恋の宣戦布告
純粋な、何の疑いも差し挟まないであろう、真っすぐすぎる瞳。
このどうしようもない羞恥と邪心が、彼女には一切伝わっていないのだろうか?
そんな馬鹿な。
「く、九条さん、そうじゃなくて! ……その、フォーク……」
「フォークが、なに?」
「さっき、それ、使って……くっ」
しどろもどろな、意味を成さない抵抗が続く。
彼女は俺の狼狽ぶりを楽しむかの如く、にわかに熱を帯び始めた瞳で、じっと見つめている。そうして、その潤んだ桜色の唇が、こぼれるような「ふふ」という嬉笑の形を作り出した。
「……間接キス、のことでしょう?」
確信犯だ。
この人は、俺が間接キスを気にしてるって、全部わかった上でこうしている。あるいは、それすらも構わないと、最初から俺という人間を丸ごと全部、受け入れるつもりでいる。
そうだ、そのどちらかなんだ。
俺が声も出せずに固まっていると、彼女は、そのまま俺の全てを肯定するように、こう続けた。もう間違いない。
「私は、平気よ」
──平気だって?
その一言が、あまりにも重すぎやしないか。
もしかして。君は……そんなにも、俺のことを?
口ではそう言っているけど、俺は見逃さなかった。
彼女の、その完璧な美貌が。首筋を上がり耳の付け根まで、ほんのりと赤く染まっているのを。
差し出されたフォークを持つ指先が、微かに、本当に微かに震えているのを。
ああ、この人ですら、これは平気ではないんだ。
俺と同じか、もしかするとそれ以上に、緊張しているのかも。
それでも、俺だから平気だと、そう覚悟を決めて、この手を差し出してくれているのか?
彼女は、決してこの手を引こうとはしない。
俺の拒絶も、狼狽も、邪心も、隠してきた憧憬も、全部わかった上で、真っ直ぐに俺を見つめている。
「やっぱり、いや?」
それは、さっきまでの悪戯っぽい響きじゃない。
ほんの少しだけ不安を滲ませた、僅かに悲しげな声色だった。
ああ、もう、ダメだ。これは抗えない。
理由も、理屈も分からない。ただ、ずっと高嶺の花として憧れてきたこの人が、本気で俺という存在を受け入れようとしている。
俺が長らく踏み続けてきた、言い訳という名のブレーキを、君がその手で壊そうというのなら。
──なら、もう容赦はしない。
いいか。これは俺からの、最後の紳士的な警告だ。
「ずっと君を見ていた。後悔しても、知らないよ?」
彼女は一瞬、驚いたように目を見開いた。
この想いが、このまま成長を続ければどうなるか。
その時、本当に後悔するのは俺ではない──九条葵、君だ。俺は、その恋の宣戦布告を、少しの照れと共に口にする。
心臓が妙にうるさい。だが不思議と、声は震えなかった。
「I have no regrets.(後悔なんてしない)」
え……? 流れるような、滑らかで美しい響き。俺が聞き慣れないその言葉に戸惑っていると、彼女は祈るように、そっと続けた。
「Hopefully, it will last a little longer.(願わくば、少しでも長く続きますように)」
俺には、その言葉の正確な意味は分からない。ただ英語だということしか。
だけど、声のトーンが。彼女の表情が。
それがとんでもなく肯定的な、大切な何かだということだけは、痛いほど伝わってきた。その声に乗せた響きと、見たこともないほど幸せそうな笑顔が、俺の心を掴んで離さない。
だのに、その笑顔の直後。彼女はその幸福を打ち消すかのように、ほんのかすかな声で、別の言葉を紡いだ。
「And one day I'll be abandoned by you.(そして私は、いつかあなたに捨てられるの)」
あまりにも悲しそうに響いた最後が、どうしても気になってしまう。
「今、なんて言ったの」
「ううん、内緒。聞かないで?」
……いつか、君がいま何て言ったのか。俺にも、分かる日が来るのだろうか。
いや、わかりたい、わからねばならない。
君が、その完璧な仮面の下に隠している、言葉の本当の意味を知るために。
俺は心にもう一つ、誓いを立てた。
彼女の言葉を学ぶ、と。
その答えも、彼女の想いも、新しく立てた誓いも全て受け止める覚悟で。
俺は彼女が差し出したフォークを、その震える指先ごと、深く、口に含んだ。
彼女は、もう何も言わない。
ただ、自分の皿のパスタをくるくると巻き取っては、俺の口元へと、そっと差し出すだけ。
俺も、何も答えない。
芽生え始めた何かを、大切に育むように。その行為を受け入れ続けるだけ。
いつか大きな花を咲かせますようにと。
ふと、彼女の皿に目をやると、その中身が、ずいぶんと減ってきていることに気がついた。
「九条さんのが足りなくなってしまうから、もういいよ」
そう口にしてはみたものの、どうせこの小さな抵抗は、彼女の微笑み一つで崩れ去るのだろう。予測通り、彼女は優美に微笑むと、また幾度も、そのフォークを俺の口元へと運んでくれる。
まるで恋人のようなその仕草。
気が付けば、彼女の皿はずいぶんと底が見え始めている。
「いいの。私のが無くなったら、水無月くんのを、少しちょうだい」
そう言って彼女は、今しがた俺の唇に触れた銀の切っ先で。何の迷いも躊躇いもなく、俺の皿からパスタをくるりと巻き取り、その唇へと運んでいく。
「うん、美味しい」
俺の心臓が、ドクンと跳ねた。
──ああ。これはもう、どう取り繕っても。ただの食事では、ないだろう。
「九条さんて、いつもそんなにご飯少ないの?」
問いかけると、彼女は口元をナプキンで押さえてから、透き通るような微笑みを向けた。
「ううん、いつもはもう少しだけ食べるわ。でも、今日はもういいの」
彼女の白い指が、そっと自分の胸元に触れる。
「胸が一杯だから」
その声が、熱を帯びた一本の矢のように、俺の心の最も柔らかい場所を射抜いた。それが、食事による満腹なんかじゃないことは、俺にだってわかる。
目の前の美しい彼女と。
覚悟を決めた俺の、共有され始めた甘美な刻が動き出す。
俺は、熱くなった頬を隠すように、残りのパスタを見つめることしかできない。
九条、葵さん……。
俺は……、僕は。
甘い食事の時間が終わり、部屋の空気は穏やかなティータイムへと移ろいゆく。
俺の前にそっと置かれた、透き通ったガラスのカップ。
湯気と共に立ち上る淡い黄金色の液体は、その色も、香りも、俺の知らないものだった。何もかもが初めての一日だ。
そっと口に含んでみる。
リンゴのような爽やかさと、薬草に似た落ち着いた苦味が混ざり合って、不思議な優しさで喉を滑り落ちていく。
そうして差し出された、あまりに意識の高い飲み物に、思わず小さな笑みを浮かべてしまうから、彼女が気が付いてしまう。
「どうしたの?」
君の真っ直ぐな瞳が眩しくて、俺は照れを隠すように、からかい半分で口を開く。
「さすが九条 葵だよね。いや、意識高いなと思って」
「もう、馬鹿にして」
彼女は口ではそう言いながらも、機嫌を悪くするどころか、ことさら優しく微笑んだ。
その笑みは、まるで、
『水無月くんにだけは、こんな顔を見せてあげる』
とでも言いたげな、特別な響きを帯びていたような。
そう思うのは、自惚れが過ぎるだろうか。
ああ、俺は一生、君には敵いそうにない。
共に暮らして、まだたった一日目だというのに。俺はもう、そう思い始めている。
~あとがき~
第18話、お読みいただきありがとうございます。作者の神崎 水花です。
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