第12話 メッセージアプリ
「ええっ! 相手はまさかの!?」
思わずベッドから飛び起きそうになり、肋骨の激痛に顔を歪める。
「ぐおお、痛てぇぇ」
だが、そんな物理的な痛みなど、次の瞬間に訪れた衝撃でどこかへ吹き飛んでしまった。
九条さんから!?
メッセージ!?
え、しかも何この文章、本当に本人が書いたのかな?
めちゃくちゃ、可愛いじゃないか……。
でも、どういうことだ?
俺の番号を知らないと、このアプリには登録できなかったはずで……。
いや、そんな理屈はどうでもいい。俺は、あの九条 葵と、メッセージアプリで繋がったのか? その事実に、自分が起こした奇跡の大きさを目の当たりにして、じわじわと、違う、沸騰するように嬉しさが込み上げてくる。
そこで、俺は一つの、あまりにも都合の良い可能性に思い至った。
もしかして……。
期待で心臓が爆発してしまいそう。
清水の舞台から飛び降りる覚悟で、まだ空っぽだと思っていた連絡先のアイコンを開く。
そこには、たった一件だけ。
丁寧に登録された、その名前が……。
九条 葵「090-××××ー××××」
「よっしゃあああああっ!!」
骨折の痛みなど、もう存在しない。そんなモノはとっくに消え失せたさ。
歓喜の雄叫びが、音の波となって病室の壁を震わせる。
ここは病室だ? 知るか、そんなこと!
マジか! マジかよ!
健太ァ、聞いて驚け! 学校中の男子が遠くから眺めることしかできなかった、あの高嶺の花の! 『鉄壁』の九条 葵のだぞ!
その彼女の番号が、この真っ赤なスマホにあるだなんて……くぅ!
よくやった、蒼!
俺は今、間違いなく人生の勝者だ! ザ・勝ち組だ。
この『勝利』の前では、全てがどうでもいい塵芥へと変わった。
俺は真紅のスマホを天に掲げ、病室で一人、勝利のガッツポーズをキメるのだ。声にならない声で「……マジかよ」と、何度も呟きながら。
ガラッ、と。
あまりにも唐突で無遠慮な音をたてて、スライドドアが開かれてしまう。
覗くように中を窺うのは、夜勤の看護師さん──このフロアで、なぜか俺のことをとても気にかけてくれている、あの人だった。
そう、その抜群の笑顔と、とても大きい胸で、数多の男性患者の心を密かにざわつかせている酒々井さんで。
その酒々井さんがクリップボードを片手に、俺のことを、なんとも言えない生温かい眼差しで見ている。女子が痛い奴を見つけるとよくする、アノ目だ。
くそっ、よりによって、彼女相手に醜態を晒すだなんて。
じわじわと、首筋まで熱が昇ってくるのが分かる。
そんな俺の姿を見て、彼女はくすりと笑いを堪えるように、クリップボードで口元を隠した。
「水無月くん、何か良いことがあったのかな~?」
その声は、この状況を明らかに楽しんでいる。断言してもいい。
「とても気になるけど、騒いじゃダメ。静かにしてね」
「あ、そうそう。もう間もなく消灯時間ですよ~」
「は、はい……すいません……もう、寝ます……」
パフン、と。
楽しそうな気配を隠しもせずに、彼女は扉を閉めた。
……今、人生で三番目くらいに、恥ずかしいところを見られた気がする……。
さっきまでの『人生の勝者』は、どこへやら。
俺は、燃え上がる顔をごまかすように、ベッドへと潜り込む。
しばらく。布団の中で丸まって、羞恥という名の嵐が過ぎ去るのを待つ。
それから少しの時間が過ぎて、布団の隙間からそっと左手を伸ばした。
ベッドサイドに備え付けられた、集中操作パネル。その一番端にある『室内灯』と書かれたボタンを、まだ動く指先で、そっと押し込んだ。
カチリ、という小さな、無機な音と共に、病室は完全な暗闇に包まれる。
そろそろ、寝ないとな……。
そうだった、明日はいよいよ退院なんだ。
俺は、ぎゅっと目を閉じる。
………………。
…………。
……はい、無理。寝れるわけがない。
不自由な左手で、そっとスマホを掴み上げてみる。
ぽう、と暗闇に浮かび上がる、黄色いアイツの笑顔が眩しくて。それをあえて無視して、慣れた手つきで緑のアイコンをタップした。
スッ、とメッセージアプリが立ち上がる。
そして、たった一行の言葉を画面に映し出すんだ。煌々と。
【九条 葵】:『探してくれてありがとう』
……ダメだ。
口元が、緩むのを止められない。
俺は、その画面が、ふっと暗くなるのを見届けると、再び目を閉じた。
…………。
……。
そして、また、画面を傾け点灯させる。
再び浮かび上がる、あのチャット画面。たった一行のメッセージを、なぜか何度も確かめてしまう。俺は、そのたった一行の言葉を、暗闇の中で飽きることもなく何度も、何度も読み返していた。
そんな至福のループが、唐突に破られたのは。
ブブッ。
枕元の真紅のスマートフォンが、再び短く震えた時。
みれば、新たなメッセージが届いている。
【九条 葵】:おやすみなさい
──テキ樅型駆逐艦、第二波、襲来ス。我、被害甚大ナリ。
急ギ、救援ヲ求ム──
俺の心臓が、またしてもやかましい音を立て始める。
どう返そう。
「おやすみ」でいいのかな? いや、でも、それだけじゃ冷たくないか?
俺が不自由な左手で、必死に返信の言葉を組み立てていた、その、わずか数秒後。
ブブッ。
続けざまに、メッセージが送られてくる。
【九条 葵】:さっきから、返事がないのだけど……
「いや、早えよ!!」
おっと、失礼。『お早いですわよ。九条さん』
心中で、今世紀最大のツッコミを入れた。
それはそうとして、これにどう返すべきか。
ギプスで不自由な左手は、緊張で余計に震える。焦る頭は、ここ一番というところで最もシンプルな答えを弾き出してしまう。
【水無月 蒼】:オヤスミ
……よし。
これなら、手が痛いから長い文章が打てなかった、という言い訳も立つ。
何より、この四文字なら、俺の恥ずかしさも、動揺も、何もかも隠し通せるはず。俺は祈るような気持ちで、そのカタカナ四文字を送信した。
【同時刻・九条葵の部屋】
葵はベッドの上で、自分のスマホを握りしめていた。
「返事がないのだけど……」
送ってしまってから、すぐに後悔した。まるで、返事を催促する、余裕のない女みたいじゃない。
違う、そうじゃないの。
ただ、彼が「探してくれてありがとう」をどう思ったのか、受け取ったのか知りたかっただけなの……。
ブブッ。
ついに、彼から返信が来た。不自由な手で一生懸命送ってくれたに違いない。
何だか心が温かくなる。葵は高鳴る心臓を抑え、慌てて画面を開いた。
そこに表示されていたのは、たった四文字。
【水無月 蒼】:オヤスミ
……。
葵は、その画面を、一分間、無言で見つめ続けた。
「Why are you so insensitive?(なんでこんなに、鈍感なの?)」
その一言に、今夜の言えない想いのすべてを込めて。
彼女はスマートフォンのボタンを押し、画面を暗転させた。
そして、翌日。
運命の、退院の日がやってくる。




