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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第四章 誰よりも短い至上なら、せめて誰よりも濃密に

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第119話 持たざる私の、献身への反逆

「……Why, why do you sacrifice yourself so quickly? You Minazukis always do.(ねえ、どうして。どうしてそう、いつも自分を犠牲にするの? 水無月家の人は)」


 首元で、震えるような吐息が言葉を紡ぎ出している。

 それは、君の感情が高まった時にだけ零れる、流暢で、けれど引き裂かれるような悲痛さを帯びた異国の響き。


「It's painful for the person receiving help too, right?(助けてもらう方だって苦しいんだよ?)」


 その言葉の意味を理解するよりも早く、彼女の瞳から溢れ出した熱い雫が、俺の首筋にぽつり、ぽつりと落ちた。

 ハッとして、俺は自分の右手がどこにあるかをようやく自覚する。衣類を隔てただけの指先に伝わってくる、柔らかく、そして激しく波打つ彼女の命の鼓動。


「その……、わざとじゃないんだ」

「That doesn't matter! Please don't put yourself on the line for me.(そんなのは、どうでもいい! お願い、私の為に自分を懸けないで)」

 

 火に触れたかのように、俺は慌てて彼女の胸から手を引き剥がした。

 肺の空気が一気に戻り、それと同時に猛烈な熱が顔面へと突き抜ける。

 だけど。

 あれほど完璧な仮面を被り、不躾な奴らの好意を冷徹に拒絶し続けてきたはずの君は、俺がその柔らかな果実に指を沈めていたことに対して、ただの一言も触れようとはしなかった。

 責める言葉も、拒む仕草すらもなく。

 

「大丈夫か? 怪我はないか? どこか、痛むところはない?」


「うん……。……大丈夫よ」

「本当に?」


「うん……」

「ああ、よかった」


 深くて長い息を吐いた。

 そのままどすんと、後頭部を腐葉土の柔らかなクッションに預ける。


 背中は土にまみれているだろうけれど、今はそんなことすらどうでもよかった。

 仰ぎ見た先には、樹々の隙間から覗く眩しいほどの碧空が広がっていて。

 好きな女を守り抜いたという実感が、冷たい土に体温を奪われながらも、心地よい虚脱感と安堵で俺を満たしていく。


 なぜか、二人とも地に伏したまま、起き上がる気になれないでいた。

 肺に流れ込む空気は冷たく、森閑はどこまでも深い。このままもうしばらく君を抱いていたい。そう思ったのも束の間。


 葵さんは、倒れ伏した俺の身体の上を、()うようにしてゆっくりと這い上がってきた。

 潤んだ瞳、紅潮した頬。

 切実さを秘めた面持ち。

 ……こんなに妖艶な君は、初めてだ。


 斜面に押し付けられた俺の身体のすぐ横、耳元の柔らかな土に、彼女の細い指先が深く突き立てられる。

 両腕で俺を囲い込むようにして、彼女がゆっくりと上半身を持ち上げる。

 もう、逃がさないとばかりに俺を閉じ込めたその仕草は、どこか檻のようで、けれどひどく情熱的で。

 間近から漂う君の香りに包まれて……。


 俺の視界からは眩しい青空が消え、代わりに、潤んだ瞳で俺を射抜く君という存在だけが、世界を覆い尽くした。

 綺麗に纏められていた黒い髪がぱらりと解け落ち、俺たちの秘め事を隠すカーテンのように、新緑の光をも遮っていく。


「ねえ、覚えていて。私が一人助かっても、あなたが助からなかったら、もうそれは意味がないの」


 自分よりも君を優先してしまう俺の献身を、彼女は許さないらしい。

 君が生きる世界には、俺という存在が不可欠なのだと──その潤んだ瞳が、悲痛な叫びと共に訴えかけてくるようで。

 ──恒星が泣いていた。


「……それでも」

 

 悪いが、俺には俺の、譲れない想いがある。

 彼女の熱っぽい視線を真っ向から受け止めて、掠れた声で紡いだ。


「もし、またこんな場面に出くわしたら、俺は何度でも同じことをするよ。……君が血を流す光景なんて、見たくないんだ」


 そんな光景、何よりも俺が耐えられない。

 無理なんだ本当に。ごめんな。


「だから、流すなら、代わりに俺が流す」

  

 その瞬間。

 俺の頬に、温かな、けれどどこか切ない温度の雫が、音もなく落ちてきた。

 空はこんなにも晴れ渡っているのに。

 俺を閉じ込める檻の中で、彼女の瞳から溢れ出したそれは、新緑の光を透かして宝石のように輝き、俺の肌を熱く濡らしていく。

 とめどなく、溢れ続ける雫。


「I don't need that kind of kindness. If so, please stay by my side forever.(そんな、優しさ……いらない。だったら、ずっと側に居てよ)」


 涙で滲む声。

 俺の献身という名の残酷な優しさを拒絶し、代わりに何かを必死に求めている。


「……葵さん」

 

 名前を呼ぶ俺の唇を封じるように、紅を差した艶やかな彼女の唇が、ゆっくりと降りてくる。


「私の初めて……またもう一つ、あげるね」


 触れ合った瞬間、脳を灼くような熱が迸った。

 お互い初めてのはずなのに、それはあまりに深く、長い──彼女が積み上げてきた想いのすべてが込められたような口づけ。

 新緑の匂いも、腐葉土の香りも。渓流のせせらぎさえも。

 重なり合う唇の柔らかさと、彼女の甘い体温の中に、すべてが霞んで消えていく。


 ああ、だめだ。

 いよいよ俺は、止まれなくなる。先生……。


 終わりのない、永遠の刻。

 そう思った、その時だった。


 ──ブルルッ!


 重なり合った身体の間で、二人のスマホが無遠慮な鳴動を響かせた。

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