第119話 持たざる私の、献身への反逆
「……Why, why do you sacrifice yourself so quickly? You Minazukis always do.(ねえ、どうして。どうしてそう、いつも自分を犠牲にするの? 水無月家の人は)」
首元で、震えるような吐息が言葉を紡ぎ出している。
それは、君の感情が高まった時にだけ零れる、流暢で、けれど引き裂かれるような悲痛さを帯びた異国の響き。
「It's painful for the person receiving help too, right?(助けてもらう方だって苦しいんだよ?)」
その言葉の意味を理解するよりも早く、彼女の瞳から溢れ出した熱い雫が、俺の首筋にぽつり、ぽつりと落ちた。
ハッとして、俺は自分の右手がどこにあるかをようやく自覚する。衣類を隔てただけの指先に伝わってくる、柔らかく、そして激しく波打つ彼女の命の鼓動。
「その……、わざとじゃないんだ」
「That doesn't matter! Please don't put yourself on the line for me.(そんなのは、どうでもいい! お願い、私の為に自分を懸けないで)」
火に触れたかのように、俺は慌てて彼女の胸から手を引き剥がした。
肺の空気が一気に戻り、それと同時に猛烈な熱が顔面へと突き抜ける。
だけど。
あれほど完璧な仮面を被り、不躾な奴らの好意を冷徹に拒絶し続けてきたはずの君は、俺がその柔らかな果実に指を沈めていたことに対して、ただの一言も触れようとはしなかった。
責める言葉も、拒む仕草すらもなく。
「大丈夫か? 怪我はないか? どこか、痛むところはない?」
「うん……。……大丈夫よ」
「本当に?」
「うん……」
「ああ、よかった」
深くて長い息を吐いた。
そのままどすんと、後頭部を腐葉土の柔らかなクッションに預ける。
背中は土にまみれているだろうけれど、今はそんなことすらどうでもよかった。
仰ぎ見た先には、樹々の隙間から覗く眩しいほどの碧空が広がっていて。
好きな女を守り抜いたという実感が、冷たい土に体温を奪われながらも、心地よい虚脱感と安堵で俺を満たしていく。
なぜか、二人とも地に伏したまま、起き上がる気になれないでいた。
肺に流れ込む空気は冷たく、森閑はどこまでも深い。このままもうしばらく君を抱いていたい。そう思ったのも束の間。
葵さんは、倒れ伏した俺の身体の上を、這うようにしてゆっくりと這い上がってきた。
潤んだ瞳、紅潮した頬。
切実さを秘めた面持ち。
……こんなに妖艶な君は、初めてだ。
斜面に押し付けられた俺の身体のすぐ横、耳元の柔らかな土に、彼女の細い指先が深く突き立てられる。
両腕で俺を囲い込むようにして、彼女がゆっくりと上半身を持ち上げる。
もう、逃がさないとばかりに俺を閉じ込めたその仕草は、どこか檻のようで、けれどひどく情熱的で。
間近から漂う君の香りに包まれて……。
俺の視界からは眩しい青空が消え、代わりに、潤んだ瞳で俺を射抜く君という存在だけが、世界を覆い尽くした。
綺麗に纏められていた黒い髪がぱらりと解け落ち、俺たちの秘め事を隠すカーテンのように、新緑の光をも遮っていく。
「ねえ、覚えていて。私が一人助かっても、あなたが助からなかったら、もうそれは意味がないの」
自分よりも君を優先してしまう俺の献身を、彼女は許さないらしい。
君が生きる世界には、俺という存在が不可欠なのだと──その潤んだ瞳が、悲痛な叫びと共に訴えかけてくるようで。
──恒星が泣いていた。
「……それでも」
悪いが、俺には俺の、譲れない想いがある。
彼女の熱っぽい視線を真っ向から受け止めて、掠れた声で紡いだ。
「もし、またこんな場面に出くわしたら、俺は何度でも同じことをするよ。……君が血を流す光景なんて、見たくないんだ」
そんな光景、何よりも俺が耐えられない。
無理なんだ本当に。ごめんな。
「だから、流すなら、代わりに俺が流す」
その瞬間。
俺の頬に、温かな、けれどどこか切ない温度の雫が、音もなく落ちてきた。
空はこんなにも晴れ渡っているのに。
俺を閉じ込める檻の中で、彼女の瞳から溢れ出したそれは、新緑の光を透かして宝石のように輝き、俺の肌を熱く濡らしていく。
とめどなく、溢れ続ける雫。
「I don't need that kind of kindness. If so, please stay by my side forever.(そんな、優しさ……いらない。だったら、ずっと側に居てよ)」
涙で滲む声。
俺の献身という名の残酷な優しさを拒絶し、代わりに何かを必死に求めている。
「……葵さん」
名前を呼ぶ俺の唇を封じるように、紅を差した艶やかな彼女の唇が、ゆっくりと降りてくる。
「私の初めて……またもう一つ、あげるね」
触れ合った瞬間、脳を灼くような熱が迸った。
お互い初めてのはずなのに、それはあまりに深く、長い──彼女が積み上げてきた想いのすべてが込められたような口づけ。
新緑の匂いも、腐葉土の香りも。渓流のせせらぎさえも。
重なり合う唇の柔らかさと、彼女の甘い体温の中に、すべてが霞んで消えていく。
ああ、だめだ。
いよいよ俺は、止まれなくなる。先生……。
終わりのない、永遠の刻。
そう思った、その時だった。
──ブルルッ!
重なり合った身体の間で、二人のスマホが無遠慮な鳴動を響かせた。




