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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第四章 誰よりも短い至上なら、せめて誰よりも濃密に

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第118話 たとえこの身が再び砕けようとも

 一歩、また一歩と柔らかな土を踏みしめるたび、遠くで聞こえる同級生たちの喧騒が、まるで別世界の出来事のように遠のいていく。


「皆、川の方が好きみたいだな。こっちは誰もいやしない」

「ふふ、みたいね。蒼くんは、どちらの方がお好みかしら」


 隣を歩く彼女から投げかけられた、何気ない問い。

 木漏れ日が彼女の柔らかな髪を透かし、新緑の匂いが風に乗って鼻先をくすぐる。俺は少しだけ、自分の内に居ついた()()の出所を思い返して、思わず苦笑してしまった。

 

「あー、俺はさ。八雲さんから耳にタコができるくらい、山での珈琲について聞かされてるからさ」

「店長から? どんなことを?」


 葵さんは面白そうに目を細め、俺の言葉を促す。


「例えば、『蒼、木漏れ日が降り注ぐ中で飲む珈琲は格別だ』とか、『馬鹿野郎、早朝のあの朝もやの中で頂く珈琲こそが最高なんだ』とかさ。……まあ、そんなことばかりさ」

「ふふ、本当に珈琲ばかりじゃない。店長らしいわね」


「だよな。でも、その熱量にずっと当てられてきたせいか、俺もいつの間にか樹間の方が好みになったみたいでさ。……静かなせせらぎなんてものがあれば、なお最高だけどね」

 

 そう言って、頭上を覆う青葉を仰ぎ見たとき。

 

「私も!」

 

 隣で、弾んだ声がした。

 驚いて視線を戻すと、そこにはいつもの完璧な仮面をどこかへ置き忘れてきたかのような、一点の曇りもない笑顔を浮かべる葵さんがいて。


「私も、樹間(ここ)の方が好きよ。……だって、とっても静かで、私たちの足音しか聞こえないもの。あとね、こういうところで本を読んでみたい、かな」

 

 木漏れ日が彼女の瞳の中に、小さな光のページを捲るようにしてキラキラと躍っている。

 モデルでも高嶺の花でもない。なんだろうな、これは。

 常に耳目を集め、誰かの理想を演じ続けなければならない彼女だからこそ、この一切の視線が存在しない清閑(しんかん)が、何よりも深く心を癒すのかもしれない。

 

 ただの一人の女の子としての彼女の願いが、森の澄んだ空気と共に、俺の心に深く染み渡っていく。

 この穏やかな時間が、少しでも長く続いてほしいと願わずにはいられなかった。


「じゃあさ。……俺の快気祝いにって、今度、八雲さんがキャンプ場で『俺のとびきりの珈琲を飲ませてやる』って言ってくれてるんだ。もしよかったら、葵さんもどう?」


「え、……行っていいの?」


 驚きに目を見開いた彼女。

 

「良いも悪いもないよ、俺一人なら、もともと行く気なかったし」

「どうして?」

「八雲さんと二人で延々と珈琲の話をするのか? やだよ。あと、八雲さん釣りが好きだからさ、俺一人だと絶対に暇になるだろうし」

「ふふ……確かに、それはそうね」

 

 俺の不満げな言い草がツボに入ったのか、彼女は小さく肩を揺らして笑った。俺だけに見せてくれる、飾らない柔らかな笑顔。

 

「でも、私なんかがお邪魔して……本当に、迷惑じゃないのかしら」

「大丈夫だよ。じゃあ、俺から八雲さんに連絡しておく。どうせ来週あたりからバイトにも復帰する予定だしね」


「蒼くん。……もしよかったら、その。バイト先のシフト、私にも教えてほしいのだけど。ほら、その、予定を合わせたいし……」

「ああ、わかった。じゃあ、後で送っておくよ」

「本当? ありがとう」


 秘密の約束を交わしたことで、二人の足取りは自然と軽やかになっていた。

 高くそびえる樹々の間を縫うようにして歩むうち、どこからか耳に心地よい、涼やかな水の音が届き始める。

 

「この辺、良さそうだな」 

「あ、蒼くん、見て。あそこに小さいけれど、渓流があるわよ」

 

 周囲の耳を気にしつつも、弾んだ声を俺に投げかける。

 木漏れ日を反射して煌めく水面に目を奪われ、子供のように足早に駆けた、その時だった。


「きゃっ」

 

 湿った苔に足を取られたのか、あるいは木の根に躓いたのか。

 鮮やかな新緑の世界が大きく揺らぎ、彼女の細い体が重力に引かれて、ふわりと宙に浮いた。

 その先にある斜面の下には、ゴツゴツとした岩場が。

 

「葵!」


 叫んだのは、理性が介在するよりもずっと前。

 たとえこの身が再び砕けようとも、彼女をあの岩へ叩きつけさせてなるものか。

 俺の意識はただ、九条 葵という存在を損なわせないための、一本の鋭い衝動そのものへと変わる。


 愛する女の方向へ、身を投げ出すようにして懸命に伸ばした腕が、奇跡を呼んだ。

 ギプスが外れたばかりの頼りない俺の腕が、確かに。

 華奢な君の胴体を捉える。


 刹那、その細い身体を腕の中に力任せに閉じ込めた。

 そのまま自分の体を軸にして、空中で転回する。

 柔らかな彼女を俺の上へと庇う格好だ。ああ、これでいい。

 あとは重力に任せるまま。落ちるだけ。必ず俺の体で、お前の全てを受け止めてやるからな。


 「ぐっ……!」

 

 ドサッ、と腐葉土が二人分の衝撃を吸収する鈍い音が響き、視界が激しく揺れた。岩場を避けられたのは幸運だったものの、背中を打った衝撃で肺の空気が強制的に押し出される。

 絡まり合った俺たちは、斜めに折り重なるような体勢のまま静止した。

 全身を走る鈍い痛み。

 けれど、耳元で聞こえる彼女の「あっ」という微かな震えが、急速に引き戻されていく静寂の中で、あまりに生々しく鼓動を打つ。


 ……何かがおかしい。

 彼女を逃がすまいと必死に抱え込んだ右手に伝わる、奇妙なほどに柔らかく、そして指の間に収まりきらないほどの確かな弾力が。

 俺は、無我夢中で彼女の体を守ろうとした自分の手が、あろうことか布地越しに、彼女の豊かなふくらみを強く鷲掴みにしてしまっていることに今さら気づいた。


「ご、ごめん……っ」

 

 俺の体の上で、崩れるように重なったまま。

 彼女の小さく震える吐息が俺の首筋を撫で、新緑の匂いを塗り替えるように甘やかな体温が流れ込んでくる。

 手のひら越しに伝わってくる、トクトクと早鐘を打つ心臓の音。そして、指先を沈めるたびに逃げ場を失うような、逃れがたいほどの柔らかな曲線が。


 守り抜いたという安堵は、一瞬にして猛烈な熱に焼き尽くされていく。

 俺は、自分の指が彼女の最も柔らかな場所に食い込んでいるという戦慄に、離すべきだと分かっていながら、どうしても腕の力を緩めることができずにいた。

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