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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第四章 誰よりも短い至上なら、せめて誰よりも濃密に

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第117話 新緑のアーチ

 プシューという音と共にバスの扉が開き、車内のこもった空気を一掃するように、瑞々しい新緑の香りが流れ込んできた。

 

「うわっ、すげえ! 本当に山の中だな!」

 

 真っ先に飛び出した健太が、周囲の山々を見上げながら歓声を上げる。

 それに続く長谷川さんや高階さんたちも、瞳を輝かせてアスファルトではない土の感触を確かめるように踏み出した。

 

 眼下に広がるのは、初夏の陽光を反射して緑に輝く樹木の数々。

 そしてどこからか、岩を噛むような渓流のせせらぎまでも。


 グラウンドさえ人工芝で覆われた学院の日常に身を置く俺たちにとって、靴の裏から伝わるその柔らかな不確かさは、それだけで一つの冒険だったのかもしれない。


「なんだか、空気が美味しい気がするな」


 思わず胸を大きく張って、独り言のように呟く。

 肺の奥まで染み渡るような、澄み切った山の空気が気持ちいい。


「本当ね……。体の奥まで、洗われていくみたい」

「だよな、東京とは全然違う」

 

 隣に降り立った九条さんが、俺の言葉に同意するように碧落(へきらく)を仰ぎ見た。どこか楽しげに瞳を細めて深く息を吸い込む彼女。

 それに釣られて、前を行く高階さんと長谷川さんも、両手を広げて山の空気を胸いっぱいに取り込み始めた。


「あ、本当だ! なんだか空気が美味しいね」

「うんうん、なんか澄んでいる感じがするわ」

「だろ?」

「本当に、そうね」


 四人で顔を見合わせて笑い合う。その輪の中に、アイツの姿はない。

 相も変わらず、酒々井(しすい)さんの周りを熱心にうろちょろしている友人の姿に、俺たちの視線は自然と引き寄せられた。

 

「健太くん。そろそろ自分の班に戻らないとね。もうすぐ説明が始まると思うから、吉岡先生に叱られちゃうかもよ」

「えっ、あ、いや、でもまだ……」

「ほうら、いったいった。学生の本文を全うしてきなさい」

「ちぇ、はーい……」


 どうやら、酒々井さんに優しく(たしな)められたらしい。健太はまるで、この世の終わりのような顔でこちらへ戻って来る。

 その肩の落ち具合があまりに滑稽で、俺たちは思わず苦笑を漏らす。

 ふと、健太を送り出した酒々井さんと目が合うと、彼女は意味深な微笑を一度だけこちらに向けてみせた。


「アイツ、ほんとバカなんだから。学校行事だっての」


 高階さんが呆れたように吐き捨てると、それを合図にしたかのように、拡声器を通した声が青き山々に響き渡った。

 

「よし、全員揃っているわね! これより班ごとに分かれて設営を開始するわよ」


 よく通る、吉岡先生の声。

 キャップのツバを軽く直し、手際よく地図を広げながら、迷いのない口調で指示を飛ばしていく。

 普段の堅苦しいスーツ姿とは違う、アウトドアウェアに身を包んだ出で立ち。それが隣に佇む酒々井さんの醸し出す雰囲気と相まって、妙に艶めかしく映る。

 一部の男子たちが熱狂的な視線を注いでいるのも、わかる気がした。

 健太も含めてな。

 

「まずはテントを立てる場所の確保。班ごとにまとまって立ててちょうだい。班長はどこに設営したか後で本部に報告しに来ること。わかってると思うけど、就寝時は男女別よ。先生見回りに行くからね。破った子は覚悟しなさい」


 先生の号令を皮切りに、生徒たちが散り散りになり始める中。

 健太が俺たちを振り返った。

 

「なあ、ここ、結構広いだろ?」

「ん、まあな」

「せっかくのキャンプなんだから、いい場所にテント立てたいじゃん。効率よく、皆で手分けして探すのが良くね?」


「あ、それ名案! スマホで気に入った場所を報告し合うのはどう?」

 高階さんが即座に飛びついた。


「いいな、それ。じゃあ俺たちはあっちの川の方を見てくるから、蒼は樹間サイトの方を見てきてくれよ」

 

「ああ、わかった」


 俺が短く応じると、健太は去り際、俺に背を向けたまま無造作に右手の親指を立ててみせた。


「じゃあね、水無月くん、九条さん。良い場所見つけたらすぐ送るから!」

「ええ、私たちも探してみるわ。また後でね」


「どっちがいい場所見つけるか、勝負だな!」

「ったく、なんですぐそう、勝負とかにする訳?」

「うふふ、小園くんらしくていいと思うよ」


「多恵、甘やかしたら駄目よ、コイツはすぐ調子にのるから」

「なんで高階さんは、俺にそう、厳しいわけ?」

「ふらふらしてるからよ!」

「うぐ!」


 三人の賑やかな声が、遠ざかる足音と共に薄れていく。

 つい先ほどまで皆の熱を帯びていた大気が、木々の間を吹き抜ける涼やかな風に押し流され、俺たちの周りにはいつの間にか、濃密な山の静寂が降りていた。


「じゃあ、俺たちもいこうか」

「ええ」

 

 どちらからともなく、新緑のアーチをくぐり抜ける。

 隣を歩く君の、どこか浮世離れした清らかな輪郭を見つめていると、胸の奥から、抑えきれない衝動が突き上げてきた。

『葵』という、その尊い下の名を呼びたい誘惑に駆られながらも、俺は周囲に誰もいないことを慎重に、そして切実なほどに確認してから言葉を紡ぐ。


「それにしても、健太のやつ……」

「どうしたの?」

 

 不思議そうに首を傾げる葵さんの瞳に、木漏れ日が不規則な光の粒子を落としている。その眩しさに目を細めながら、俺はあいつのサムズアップを思い出していた。


「いや、あいつなりの……その。俺と葵さんが、こうやって二人で回れるように、気を利かせてくれたのかもしれないなと思って」


「そうだったの? それは、それで……少し恥ずかしいのだけど」

 葵さんは頬を微かに染め、困ったように視線を落とす。

 

「ああ。でも、酒々井さんにあっさりとあしらわれた反動で、長谷川さんと川辺を楽しみたいっていう下心もありそうなんだよなあ」

 

「ぷっ、何それ。小園くんは長谷川さんが好きなの?」

「それが、あいつ自身にもわかっていないみたいなんだ」

「それじゃあ、応援のしようもないわね」


「え、葵さんが健太の応援をするのか?」


 意外な言葉に俺が問い返すと、彼女は足を止め、若葉よりも鮮やかな瞳でまっすぐに俺を見つめた。

 

「変かしら。だって、蒼くんの親友なのでしょう? だったら、私にとっても大切なお友達よ」

 さらりと、けれど一切の迷いなく放たれたその言葉。

「蒼くん」という響きが、山の静寂の中に溶け込んで、俺の鼓動を優しく揺さぶっていく。


 お揃いのジャケットが今になって、何だか凄く嬉しい。

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