第116話 君が初めて見せた嫉妬
バスのエンジン音が、単調なリズムで車内を揺らし始めた。
さあ、いよいよ出発だ。
だというのに、隣に座る麗しき彫像さんは相変わらず「すん」と窓の外を向いたままで、一言も話さない。
バスが走り出してしばらく。ふと、俺のポケットの中でスマホが短く震えた。
取り出すと、画面には『九条葵』の通知。
九条葵:「私を置いて先生の方へ行くだなんて。ふうん。そんなに前がいいのね」
……やっぱりそこか。
俺は隣の彼女をチラリと見るも、彼女はピクリとも動かない。俺は慌ててフリック入力で返信を打とうとした。
けれど、俺の指が言葉を紡ぐより早く、手元の画面が再び小さく震える。
九条葵:「前に行きたければ、いけば?」
追撃が早い……!
水無月:「なりたかった訳じゃないけど、班長になったからには。俺なりに解決策を考えただけだよ」
九条葵:「どうだか。酒々井さんがいるからでしょう?」
水無月:「どういうこと?」
九条葵:「水無月くん、胸が大きい女性がお好きだものね」
「……ふんっ」
文字だけじゃないぞ。隠しきれない不満が、とうとう実際の声にまで漏れ出てしまっている。
しかも、ここにきてまさかの『水無月くん』呼びとは。
完全に、お怒りであらせられる。
『胸が大きい女性が好き』
画面に躍るその一文に、俺は危うくスマホを落としそうになった。
なんてことを言うんだ。
これ、デマもいいところだぞ。
そんなあらぬ疑いをかけられてはたまらない。俺は必死に親指を動かして、真横にいる彼女目掛けて熱烈な弁明を打ち込もうとする。
『俺が好きなのは、君の胸だけだよ』
──いやいや、待て!
勢いでそこまで打ち込んでから、俺は慌ててバックスペースを連打した。
こんなの、ただの変態じゃないか。
送信ボタンを押さなかった自分を褒めてやりたい。
どう返せばいいんだ、これ。皆目、正解が思いつかない。
本格的に困り果て、俺は隣に座る彼女の膝の辺りをぼんやりと見つめながら、必死にこんな言葉を絞り出した。
なんという語彙のなさ。
水無月:「あのさ……、健太じゃあるまいし」
九条葵:「よかったわね、二日間も一緒に居られるもの」
水無月:「そうだな。同じ班になれてよかった。俺はそう思ってるけど?」
水無月:「君は違うのか?」
ついでに念押しも送信っと。
画面上に『既読』がついたのとほぼ同時だった。彫像のように窓の外を向いていたはずの君の肩が、微かに震えた。
ゆっくりと、こちらを振り向く彼女。
ほんの少しだけ目尻を下げ、隠しきれない喜びを零したような、柔らかな表情が垣間見えた。
なのに、俺と目が合った瞬間、彼女は弾かれたように再び窓の外を向き、
「ふんっ」
と小さく鼻を鳴らすんだ。
耳たぶまで真っ赤に染めているくせに、意外と素直じゃない。
まあ、いいさ。二日間もある。そのうち彼女の機嫌も直るだろう。
そう思いながら一度アプリを閉じ、ホーム画面に戻した──その時だった。
「……ちょっと待って」
不意に、真横から微かに上ずった声がした。
見れば、九条さんがぐいと身を乗り出して、俺のスマホ画面を食い入るように覗き込んでいる。
「み、見るな!」
しまった。
慌てて画面を消そうとしたけれど、彼女の視線は既にそこに釘付けになって動かない。
くそ、完全にバレてしまった……。
俺だけの秘密だったのに。
待ち受け画面の中で、俺が作ったあの『真夜中のショコラックマ』を前に、今にも零れ落ちそうなほどの笑みを浮かべている一人の女性。
あの懐かしき高嶺の花と、高嶺のクマーの奇跡のような邂逅。
さっきまでの不機嫌顔からは想像もつかない、無防備で、幸せそうな彼女自身の姿がそこにはあった。
俺は周囲の耳を気にしつつ、彼女の耳元に届く程度の小さな声で囁く。
「悪いけど。これは絶対に、消さないからな」
途端、彼女の指先が、膝の上でぎゅっと握りしめられる。
「……食べてるところは駄目って、言ったじゃない」
「だから、見つかってほしくなかったんだ。……人のスマホ、覗くなよな」
「でも……そっか。そっか。君はやっぱり、そうなんだね」
そう呟いた彼女の瞳が、熱を帯びたように潤んで。
けれど彼女は、決してその雫を零すまいとするように、強く、強く膝の上で拳を握りしめていた。
「うふふ。いいわ、特別に許してあげる。その代わり、誰にも見せないでね?」
彼女は以後、酒々井さんのことなんて口にしない。
ただ、俺の肩に触れるか触れないかの距離で俯きながら、真っ赤な顔で自分の膝を見つめ続けている。
ご機嫌は完全に直ったらしい。
そこからの君は、まるで春の陽だまりが落ちたかのように、ふんわりと柔らかな笑顔を浮かべていて。
そんな彼女の横顔を盗み見つつ、俺は安堵の溜息を内心で吐いて。
ようやく背もたれに深く身体を預けることができた。
大型バスは初夏の陽光を浴びながら、高速道路を快調に走り続ける。
ふと視線を向けると、通路を挟んだ逆側の席では、高階さんと長谷川さんが何やらスマホの画面を囲んで楽しげに談笑している。
「見て、多恵。このお店の新作、絶対美味しいと思わない?」
「うん。すっごく美味しそう」
「でしょ? このデコレーション、なんだか食べるのが勿体ないくらい」
女子ってホント、甘いものには目がないよな。
……俺の、九条さんもそうだ。
俺は心の中で小さく苦笑しつつ、彼女たちの楽しげな横顔を見守った。
健太が酒々井さんの隣を狙って前方へ消えた時は、残された女子二人が気まずくならないかと少し心配したけど、元々仲の良い二人には、そんな俺の懸念などまったく不要だったらしい。
とりあえず一安心、といったところか。
そんなことを考えながら、ぼんやりと彼女たちを眺めていたら。
「……水無月くん? 九条さんもよかったらどうぞ」
突然名前を呼ばれて、俺の思考はふっと現実へと引き戻される。
通路を挟んだ向こう側で、高階さんが微笑みながら、封を切ったばかりのグミの袋をこちらに差し出していた。
「あ……、いや。別に欲しかったわけじゃ……」
「まあまあ、いいから。二人で分けて」
高階さんの屈託のない押しに、俺は少しばかりの気恥ずかしさを感じつつも、素直に手のひらへグミを受け取った。
すると、それまで俺の隣で大人しくしていた彼女が、ふわりと柔らかな気配を纏って口を開く。
「いただくわ。高階さん、長谷川さん。……あ、そうだわ」
彼女はそう言って、足元のリュックから手慣れた動作で小さな包みを取り出すと、通路越しにそっと手渡した。
「私からも、これ。……よければ食べて」
差し出されたのは、金色の包装紙に包まれた、いかにも上質な個包装のチョコレート菓子。
「うわあ、美味しそう。九条さんありがとう」
「ありがとう。これ、気になってたお店のやつかも!」
通路を挟んで交わされる、女子特有のおやつ交換タイム。
高階さんと長谷川さんが嬉しそうに声を弾ませ、九条さんもまた、同年代の女の子らしく楽しげな笑顔で彼女たちの輪に溶け込んでいる。
そんな賑やかなやり取りを一区切りさせた彼女が、ふと、隣に座る俺の方へと視線を向けた。
「水無月くんも、どうぞ」
「ああ……。でも、あんまり甘いのはな。例えば、どんなのがあるんだ?」
俺が問いかけると、「そうね」と言いながら、彼女は再びリュックから様々なおやつを取り出し始めたのだけれど。
そのラインナップの中に紛れ込んでいた『ソレ』を見た瞬間、俺は堪えきれずに吹き出してしまった。
「ぷっ……く、くくっ」
「……なによ。どうかしたの?」
不思議そうに小首を傾げる九条 葵。
その手には、先ほど高階さんたちに配った高価なチョコとは似ても似つかない、どこか間の抜けた表情のライオンが描かれたパッケージが握られている。
そうだ。
子供の頃、誰もが一度は食べたことのある、あのピンクの箱のアイツがいたんだ。
「いや、……どうぶつクッキーって。それ、完全に子供が好きなやつじゃんか」
「な……っ、別にいいじゃない! これ、形が可愛くて、その……。もう、あげないわよ!」
図星を突かれて顔を真っ赤にしながら、慌ててクッキーをリュックに隠そうとする彼女が、どうしようもなく愛おしかった。




