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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第四章 誰よりも短い至上なら、せめて誰よりも濃密に

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第115話 座席争奪戦

「……あと、班長の皆には説明しておくわね。彼女、今回のキャンプに同伴してくださる看護師さんよ。名前は酒々井(しすい)さん。体調不良や怪我があったら、遠慮なく頼るように」


 吉岡先生の紹介を受け、酒々井さんがにこやかに頭を下げる。

 だけど、俺の心中は穏やかではない。


「看護師の酒々井です。よろしくお願いします」


 それに応えるように、俺たち班長も一斉に礼を返す。

 他の班長たちが報告を終え、潮が引くようにその場を離れ始めた、その時だった。


「み・な・づ・き・くん。……久しぶりね」

 不意に鼓膜を揺らしたその甘い響きに、俺の背筋を冷たい悪寒が駆け抜ける。


「お、お久しぶりです、酒々井さん。……どうして今日、ここに?」

吉岡先生(ナナ)が言ってたでしょ? お姉さん、今日は看護師として同伴するのよ」


 彼女はくすくすと喉を鳴らしながら、音もなく一歩、俺との距離を詰める。

 九条さん以外では誰も踏み込んでこないはずのパーソナルスペースを、大人の余裕で容易く蹂躙して。

 至近距離で放たれる、体温の混ざったあの重厚な香水の匂いとボリューム感。それが俺の周囲の空気を一瞬で塗り替えていくから、凄い。


 ただそこに立っているだけで、なんだろう。

 世の男たちの理性を強引に狂わせるような……そんな危険な引力を感じてしまう。


 酒々井さんは俺の顔を覗き込むようにさらに顔を寄せると、周囲には届かないほどの密やかな声で囁いた。

 その視線が、俺の背後へとチラリと向けられる。


「へえ。もしかして、後ろにいるその子が。……君の、大切な女の子?」


「九条 葵です。今日からよろしくお願いします」

 割り込むように響いた、俺の好きな声。

 

「あら、ご丁寧にありがとう。酒々井です。……あなた、毎日お見舞いに来てた子よね?」

「そうですが、それが何か?」

 

 その瞬間。

 隣に並んだ彼女の横顔が、一瞬で極北の大雪原のように冷え切るのを肌で感じた。

 パティオ(中庭)を埋め尽くしていたはずの喧騒が、分厚い氷塊の下へと沈降したかのようにくぐもって、もう何も聞こえない。

 肺に吸い込む空気までもが、強烈な冷気を帯びていく。

 

 前で艶やかに微笑む、前門の極彩色の虎。酒々井さん。

 隣で銀世界に一人佇む、後門の麗しき白狼──九条さん。


 いいか。俺はまだ、何もしていないんだぞ。

 だというのに、この美しき地獄に放り込まれて、一体どうしろというんだ。


 俺たちの間に流れた、お揃いのアウトドアブランドという沈黙の共犯関係さえ、酒々井さんの妖しい審美眼の前では、答え合わせの材料に過ぎないのだろうか。


  *


 パティオを抜けてバスへと向かう生徒たちの背中を、二人の大人が眺めていた。


「ちょっと、真理。……あの二人に、余計なちょっかいは出さないでくれる?」

 吉岡 七海は小さく息を吐き、釘を刺すように隣の友人を諫めた。


「ごめーん。ただ、あの少年──水無月くん、なんだか放っておけない雰囲気があるのよねえ。とっても真っすぐだし。ほら、顔も可愛いじゃない?」

「言いたいことはわかるけど、だめよ」

「ついつい、揶揄いたくなっちゃうのよ。毎日、若い子に囲まれてるナナにはわからない悩みかもね」


 七海の友人、酒々井 真理は茶目っ気たっぷりに肩をすくめて見せる。けれど、その視線はすぐに、蒼の半歩後ろを歩く一人の少女へと向けられた。


「……それと、あの九条さんだっけ。正直、参っちゃうわね」


「なにがよ?」

「高校生であんなに綺麗な子がいるなんてアリ? 肌の透明感も、あの凛とした佇まいも……。はぁ、なんだか自信なくしちゃいそう」


「あなたも、大概でしょうに。……昔から、何人もの男を振り回してきたの知ってるわよ」

「私はほら、自他共に認める『色気特化型』だから」

「はいはい。羨ましいことで」

 

「あーでも、あの子には完全に警戒されちゃったかな」

「自業自得よ。あの子の前で、あんなに距離を詰めるから。……もう辞めておくことね」

「はーい、七海先生」


 本音が混じったような、真理の小さな溜息。

 それを聞きながら、七海はバスの乗車口付近で、一瞬だけ重なった二人の歩調を見逃さなかった。

 

「気づいているのかしらね、あの子たち。二人が並ぶと、なんだかそこだけ切り取られたみたいに空気が変わるのよ。お揃いの帽子にジャケットなんて着ちゃって。……本当に、困ったわね」

「……あら。何が困るのかな? 別にそれくらいいいんじゃない?」


「言えない、色々があるのよ」

「守秘義務ってやつ?」

「そうね……、いえ、もっと重いものよ」


 七海は含みのある笑みを浮かべて、再び手元の名簿に目を落とした。

 初夏の風が、バスへ向かう大人たちの、どこか楽しげで、それでいて少しだけ危うい密談をかき消していく。


 バスの車内は、独特の熱気と高揚感に満ちていた。


 誰が誰の隣に座るのか。

 これからの数時間を運命づける、無言の戦い。

 学生ならではの、苦悩と期待が入り混じる静かな火花がバチバチと。弾けては、車内に儚く散ってゆく。


 特に、九条 葵の隣という『座席』を巡る攻防戦は、すでに沸点を超えていた。

 彼女がバスのステップを上がった瞬間から、男子たちの視線は、虎視眈々とその隣を狙う捕食者のそれへと変わる。


「あー、九条さん。俺の隣もしよかったらどうぞ」

 一人の少年が勇気を奮い立たせ、立候補する。


「あら、君は班が違うでしょう? 同じ班の人と座るべきだわ」

「う、そっか……そうだよな。ごめん」

「いえ、誘ってくれてありがとう」

  

「じゃあ、同じ班の俺の横でよければ、どう?」


 水無月 蒼がその一言を放った途端、車内の喧騒がひゅっと一瞬だけ凪ぐ。

 背中に突き刺さる、数十人分の「嘘だろ」という驚愕と嘆き、音にならない悲鳴。

(お前ら、大袈裟過ぎんか)と内心呆れつつも、そんな周囲の動揺を、九条 葵は一蹴するように。静かに、けれど明確なる裁きを下した。



「水無月くんの隣……お邪魔してもいい?」

「なら、窓際をどうぞ」

「ありがとう」


 高嶺の花を奥へ通し、言った本人が通路側の席に()をするように腰を下ろす。

 それを見て、クラス中の男子たちが抱いていた淡い期待は、音を立てて儚く散っていった。

 だが、近頃の九条 葵を遠巻きに眺めていれば分かる。

 それは最初から決着のついた勝負でもあったのだ。

 

『なぜかあの、誰の手も届かなかったはずの高嶺の花は、吸い寄せられるように水無月 蒼の元へと向かいたがる』

 それが、もはやこのクラスにおける抗いようのない暗黙のルールになりつつあることを、誰もが口にせずとも、その背中に認めはじめていた。


 隣り合う肩。限定された二座席という狭い空間。

 すると、通路の後ろから俺たちの様子を窺っていた健太が、あざといほどにわざとらしい溜息を吐いてみせたから。

 どうにも、それが気になってしまう。


「まずったな。俺たち五人だろ? 一人だけあぶれちまう」


 俺と九条さん。そして健太に、高階さんと長谷川さん。

 バスの座席は二人掛けだ。当然、誰か一人があぶれることになるな。


「確かに、そうだな」

 俺は一度立ち上がり、周囲を見渡した。


「じゃあ、しょうがない。高階さんと九条さんで座って、健太と長谷さんで座るのはどうだ?」

「蒼はどうすんだよ」

「んー、俺か。俺は吉岡先生の隣でもいくさ」


 その時。隣にいた九条さんの瞳から、すっと温度が失せた。

 再び放たれた冷気が、ダイレクトに俺の肌を刺す。


 そんなことはお構いなしに、健太が俺の耳に向けて声を潜めてくる。

「気づけよ、蒼。……俺はほら、酒々井さんの隣、狙ってみるわ」

 

「な……お前、まじで言ってるのか? 長谷川さんどうするんだよ」

「わりぃ、千載一遇の好機、逃したくねえんだよ。だから、お前はここにいろ」

 

 いやいやいや。

 おいおいおい。

 お前が『班に呼べ』というから、俺は休み時間にわざわざ長谷川さんに声を掛けたんだぞ。どうなっても、もう俺は知らんからな。ったく。


 健太はニカッと笑うと、俺を座席に押し戻すようにして、足早に前方の大人のエリアへと向かっていく。


「あいつめ……」


 結局、俺は九条さんの隣に座り直すことになった。


 隣の彼女は、俺が座ったことには一言も触れず、無言で窓の外を眺めている。

 彫刻のように美しいその横顔からは、隠しきれない不満が、先ほどから漏れる冷気のように滲み出しているのを。

 ……君は、自覚しているのだろうか。


 やれやれ、今度はこっちか。

 ……でも。

 背中に冷や汗をかきながらも、俺の胸の奥には、名付けようのない甘い熱が灯っていたのも事実。

 だって、これは。

 君が初めて俺に見せてくれた、嫉妬という名の飾り気のない不満顔だから。

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