第114話 前門の妖虎、後門の美狼
聖諒学院高等部が誇る、新校舎の立体的な中庭。
在校生が『パティオ』と呼ぶそこは、上品なタイル仕上げの校舎に囲まれ、初夏の眩しい陽光と、ホームルームデイを控えた二年生の熱気に満ちていた。
中間考査明けという解放感も、その浮ついた熱をさらに煽っていたのだろう。
いよいよ、五月が終わる。
先日までの春の残り香を、力強い緑の香りが塗り替えていくような、そんな特別な朝に。
俺たちは集合時間ギリギリに飛び込んだ。
着いた途端、ざわめきが潮のように引く。視界に入るすべての視線が、示し合わせたように俺達に集中していた。
「遅いぞ、班長。しかも、九条さんまでこんなにギリギリになるとは予想してなかったわ」
「すまんすまん。で、みんな来てるのか?」
「当たり前だろ、二人が最後だ」
呆れ顔の健太に謝りつつも、俺の内心は冷や汗ものだった。
なぜ、こんなにもギリギリになったか。それは、俺の隣で涼しい顔をしているこの人が、朝からまたやらかしたからだ。
『やっぱりこっちの帽子の方がいいかしら?』
『ねえ蒼くん、この組み合わせ、変じゃない?』
『葵さん、早くしないと、間に合わなくなるよ』
『だって、蒼くんと初めてのキャンプなのよ!? ちゃんとした服、着ていきたいじゃない』
昨晩のうちにあれほど入念に準備したはずなのに。
今朝になって突如始まった九条 葵主宰、終わりなきファッションショー。
我が儘という名の乙女心、とでも言うべきか? それとも、リビングに訪れた、脱ぎ散らかされた服の墓場とでも。
ずっとその調子だ、そりゃギリギリにもなる。
けど、悔しいけれど。
そんなドタバタの末に彼女が選び抜いたアウトドアコーデは、パティオの喧騒を一瞬で消し去るほどに鮮烈だった。
ベージュのフードジャケットに、それと揃いの帽子が可愛い。
普段は背中を流れる艶やかな黒髪は、今日は低めの位置でコンパクトにまとめられて、ジャケットのフードの中に静かに収まっている。
何よりも俺の目を、そして周囲の視線を奪ったのはたぶん……。
その淡いベージュと黒髪の世界の中で、唯一鮮やかに主張する、彼女の唇の『赤』だった。
いつもより色艶を増したその紅赤が、彼女の真っ白な肌をより透き通るように引き立てるからさ。
アウトドアな装いのはずなのに。
そこにはアンバランスなまでの女の熱が吹き込まれて。
──駄目だ、君は美人すぎるよ。
これに耐えられる男子なんぞ、この広いパティオのどこを探してもいやしない。
もちろん、俺も含めて。
最近は俺に遠慮してか、九条さんのことをあまり語らなくなった健太ですら、
「ふわぁ~……」
と訳のわからない吐息を漏らし、もはや語彙を喪失している。
隣に立つ高階さんでさえ、呆然と彼女を凝視したまま動けずにいた。
「……遅くなってごめんなさい」
「ううん。間に合ったんだから、気にしないで。九条さん」
「うんうん、問題ねーよな」
おい、俺の時とえらい違うじゃねえか、健太。
掌を返したように鼻の下を伸ばす親友の現金さに呆れつつ、俺は彼女という存在が持つ暴力的なまでの説得力を改めて思い知らされる。
九条さんがふわりと微笑むだけで、周囲の空気が一変するんだから。
正直、やってられんと思わないこともない。
そんな俺の複雑な心境を知ってか知らずか、人混みを分けてこちらへ歩み寄ってくる一人の人影があった。
「水無月くん。ホームルームデイ、班に誘ってくれてありがとう。今日から二日間よろしくお願いします」
「長谷川さん、こちらこそよろしく。良いキャンプにしよう」
「うん!」
健太の熱烈なプッシュで、テスト前に俺が声をかけていた長谷川さんだった。
彼女は俺たちに親しげに挨拶をしつつ、ふと俺と九条さんの姿を交互に見比べて、不思議そうに首を傾げ始める。
「水無月くん、とても格好いいと思うけど……九条さんと上着と帽子のメーカー、同じなんだね。仲良しさんなんだ」
「えっ、いや。これはたまたま……」
心臓が変な音を立てた。
確かに今日の服は、葵さんが用意してくれたもので。
同じブランドの色違い。彼女がベージュで俺がグレー、違うのはズボンとタイツくらいか。
自然に着ていたつもりでも、よく見ればペアだとわかる統一感がある。
「そ、それはあれだよな! この前みんなで渋谷に買い物に行ったとき、たまたま買ったやつだろ。蒼!」
健太が、声を張り上げて割り込む。
必死な形相で高階さんに目配せを送りつつ、俺の肩をバシバシと叩く。
「そ、そうそう! 似合ってたもんね。……あーあ、私もあのとき一緒に買っておくべきだったなぁ~。ホント失敗した」
高階さんも健太の意図を瞬時に察し、大仰に肩をすくめて見せる。
二人の見事な(?)連携プレーに、長谷川さんは「あ、そうなのね」と納得したように笑っている。
「四人で買い物に行くんだね。いいなぁ、とても楽しそう」
長谷川さんの屈託のない言葉に、健太がここぞとばかりに食いついた。
俺たちの窮地を救ってくれた時とは、明らかに違う光を瞳に宿して。
「お。じゃあさ、今度長谷川さんも一緒にいこうぜ。男と女半々みたいなもんだし! 気を使わなくていいだろ? ……いいよな? 蒼、九条さん」
「ちょっと、小園……。何で私には聞かないのよ」
急に仲間外れにされた高階さんが、不満げに口を尖らせる。
「え、いや。だって高階さんは長谷川さんと仲良いから、聞く必要もねーかなって」
「ま、まあね。それはそうだけど……小園に言いくるめられるなんて、なんかすっごい腹が立つんだけど」
「それ、ひどすぎんか」
「ははは」「ふふ」
健太の情けない反論に、高階さんは少しだけ頬を染めつつ、ぷいとそっぽを向く。
相変わらず、仲がいいのか悪いのか。
そんな二人の賑やかなやり取りを、隣に立つ九条さんは楽しげに、とても柔らかな眼差しで見守っていた。
凛とした『高嶺の花』の装いはそのままに。
そうしてひとしきり場が和んだのを見計らってから、彼女は一メートルほどの絶妙な距離を保ったまま、俺へと視線を向けた。
「そうね。機会があれば、是非いきましょう。ね、水無月くん」
「ああ、賑やかなのはいいことさ」
彼女が投げかけてきた。
公の気配漂う呼びかけに対し、俺も努めて自然な感じで答える。
先ほど俺たちの窮地を救ってくれた友人への、ほんの少しの恩返しのつもりで。彼の下心を後押しするつもりで、俺も言葉を添えてやった。
その時だった。
「はいはい、お喋りはそこまでよ。皆ちゃんと出てきてる? 遅刻してる子はいない?」
人混みの向こうから一本筋の通った、けれどどこか茶目っ気のある声が届く。
引率の吉岡先生のご到着だ。
「班長は、私のところへ出席の報告に来てくれる? そろそろバスに乗る準備を始めたいから急いで~」
「じゃあ、ちょっと行ってくるわ」
「頼んだ、蒼」「よろしく~」「おねがいします」
三者三様の声を背中に受けて歩き出すと、何も言わずに九条さんが俺の後ろをついてくる。
「えーと、九条さん?」
「ほら、早く行かないと先生待ってるから」
促されて、俺は思わず足を止める。
「いや、そうじゃなくてさ。いくら君でも、俺の報告にまでついてくるのは、流石に不自然だろ」
俺が周囲を気遣いながら声を潜めて言うと、彼女は足を止めることなく、すました横顔のまま小さく肩をすくめる。
「誰もそんなの気にしないわ。それに私、学級委員だもの」
涼しい顔で言い切るその姿が、何だか可笑しい。
……とはいえ、お揃いのフードジャケットという沈黙の共犯関係が、俺の心拍数をじわりと速めて。どうにも落ち着かない。
そうして吉岡先生のもとへと近寄り、先生の隣に立っていた一人の女性の姿を見た瞬間──
俺の思考は、一瞬で白く染まってしまった。
……そんな馬鹿な。
どうして、あなたがここに?
さっきまでパティオを埋めていた喧騒が、分厚い水の底へ沈むように、くぐもり遠ざかっていく。
そこにいたのは、かつて渋谷の街で俺のシャツに芳醇な大人の香りを塗りつけた、魔性のお姉さん。
前門の虎、後門の狼。
これは……えらい、ことになるぞ。




