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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第四章 誰よりも短い至上なら、せめて誰よりも濃密に

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第113話 天国か地獄か…答えは聞くまでもない

 ウィィィィィィィィン……。


 診察室に、樹脂を切り裂く嫌な音が鳴る。

 専用のカッターがギプスを侵食していく振動を、俺は右腕の奥底で鈍い震えとして感じつつ、その光景をどこか他人事のように眺めていた。

 

 それは、砕いて欲しいような、砕いて欲しくなかったような。

 枷でしか無かったはずの、白い塊。

 

「少し響きますが、刃が肌に触れても切れることはないので安心してください」

「はい。先生よろしくお願いします」

 

 先生の穏やかな声すら、今の俺にはイマイチ耳に残らない。

 そんなことより。

 俺の意識は、すぐ真横でまるで……その、こ、恋人のように先生に頭を下げている、一人の女性に完全に釘付けになっていたから。


 黒髪の美しい君。

 誰よりも綺麗だと、また思い知らされる。


 白一色の面白みのない診察室の中で、彼女の存在だけが、まるで深い夜を切り取ったかのような艶を湛えている。

 その瑞々しくも滑らかな黒を見たとき。

 俺と君がこうなれた始まりの、あの入院生活を思い出さずにはいられなかった。

 

 それは、天国か地獄か。

 恥じらい、狼狽えるばかりだったあの頃を懐かしく思いながら。それが、今、この白の下でようやく一つの終わりを迎えようとしている。

 

 なぜ、九条さんがここにいるのか。それを疑問に思うのは無理もない。

 ……実は今朝、キッチンでひと悶着あったのだ。


 前回の通院時は、(なだ)めすかしてようやく一人で学校へ行くことを受け入れてくれた彼女が、今日に限ってはダメだった。

 てこでも動かないとは、こういうことを言うのだろうな。

 今朝の攻防を思い出しながら、俺は彼女の横顔を盗み見る。


『蒼くん。今日は私、行くからね』

『いやいや、葵さんは学校があるだろう?』

『何言ってるのよ。今日でギプスが外れるのでしょう? 私にとっても、とても大事な問題なのよ』


『それで、わざわざ君が午前を欠席しなくても……』

『行くったら、行くの。言っておくけど、今回は絶対に折れないわよ』

『参ったな』

『説得しようとしても無駄だから。わかった?』

『わかったよ』

  

 そう言い切って俺を黙らせた彼女は、いま俺の傍らに立ち。

 一つ一つの工程をその目に焼き付けるように、開かれていく俺の右腕をじっと見つめている。

 ガリガリ、と少し大きな音がして。

 一か月半以上に及ぶ、俺の身体の一部となっていた重くて白い重しが、ゆっくりと二つに割れていく。

 

 今週末。

 いよいよ、俺たちの同居生活が終わりを迎える。

 

 不自由だったからこそ許された、あの奇跡のような日々。

 胸をかすめるのは、身を切られるような寂しさと、ようやく彼女の日常を奪わずに済むという安堵感だろうか。

 それだけじゃあ、ないな。


 その、あわよくば……同棲という逸脱が解消されることで、俺たちの関係が次の一歩を踏み出すんじゃないかという、微かな期待もあった。

 歪な依存から解き放たれて、ようやく対等な一人の男として彼女の前に立てるという喜びも。

 やっぱり、いつまでも世話になり続けると言うのは、どこか心苦しいよ。

 だからだろうか。

 不思議と今は、悲観ばかりではなかった。

 

 寂しくないといえば、そりゃ嘘になるに決まっている。

 聖諒学院高等部が誇る才媛は、全男子の憧れ。分かりやすいほどの『高嶺の花』

 そんな言葉、俺はもう使わないけどな。


 でも実は、強いようでいて脆く、怖いようでいて誰よりも優しい。時に、冷徹に光るその瞳は、誰よりも温かさを秘めてる。

 ……そして、たぶん。

 普段は隠しているけれど、本当の君はきっと少し我が儘だ。

 そんな、誰よりも可愛らしくも面白くもある君と、同じ屋根の下で暮らせなくなる喪失感は、筆舌に尽くし難いものがある。

 

 この広い世界で、俺にしかわからない喜びと苦しみ。

 それもまた、俺の天国と──地獄。


 そんな、整理のつかない感情を胸に抱えつつ、俺は目の前で進む儀式をじっと見つめていた。

 

 そうして……、あの白い樹脂が。

 役目を終えた抜け殻のように、俺の腕から呆気なく剥がれて落ちた。


 久方ぶりに現れた、俺の生身の右腕。

 病的なまでに白く、細くなってしまったそれ。俺は恐る恐る手首や指を曲げようとして、そのあまりの頼りなさに絶句するしかない。

 

「……先生、驚くほど力が出ないというか、どうにも動かしづらいんですけど」

「ギプスが外れてすぐはね。まあでも君は若いから、すぐ筋力も戻ると思うよ。リハビリはちゃんとしていたんだろ?」

「はい。言われたことはしてました」

「なら、大丈夫だ」

 

 診察室を出て、会計を待つ静かな待合。

 それまで甲斐甲斐しく俺を支え、常に傍にいてくれていた彼女が、急に静かになってしまった。

 番号がモニターに表示されるまでの、空白の時間。

 俺は、隣に座る彼女と会話がしたくなって、首から上を全部彼女の方へと向ける。


 そんな俺の視線を受け止めるようにして、君がゆっくりと顔を上げた。

 瞳は確かに潤んでいて、今にも溢れ出しそうな光を湛えている。

 だと言うのに。

 そんな涙を堰き止めるように、彼女は崩れ落ちんばかりの、眩しい笑顔を俺に向けていた。


「治ってよかった。……蒼くん、本当によかったね」


 もしも。

 自分の乗っていた車が俺を傷つけてしまったという罪悪感が、いまもまだ君の中にあったのだとすれば。この日を境に、白日の下で溶けて消えればいい。

 不自由な枷が無くなって。

 あの奇跡の時間を奪うというなら。せめて、それくらい一緒に連れて行けよ。

 なあ。


 俺は、自由になったばかりの右手をゆっくりと動かし、彼女の潤んだ瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

「葵さん、今まで本当にありがとう」


 俺の言葉に彼女は一度だけ、零れそうになった涙を堪えるように強く瞬きをして。

 それから、これ以上ないほど幸せそうに、何度も深く頷いてくれた。


 会計を済ませ、病院の自動ドアを抜ける。

 早朝、ここを通ったときとは決定的に違うように感じる空気を、俺は胸いっぱいに吸い込んだ。

 そうして一歩を踏み出したとき。


「あ、葵さん?」

 不意に、隣を歩いていた彼女が駆け出した。

 初夏の陽光をその身に受けて、軽やかに。まるで、彼女自身の心も重力から解き放たれたかのように。

 

 ほんの数メートル先。

 彼女はくるりと振り返った。

 逆光に照らされた彼女の輪郭は、光の粒の中に溶け込みそうなほど美しく、見惚れる俺を置き去りにして微笑む。


「ねえ、蒼くん。……家は離れても、私と仲良くしてくれるよね?」


 逆光の中に立つ彼女の表情に翳りはもうない。

 射すような光を纏って、ただ美しいだけ。


「当たり前だろ。今更、何言ってるんだ」

「ふふ、そうよね。キミにとっての私は、もうそうよね」

 俺の答えを慈しむように呟いて、彼女は満足げに微笑むと、今度は弾むような足取りで俺との距離を詰めてきた。


 そして。

「──えっ」

 彼女は躊躇なく、俺の右腕に抱き着いた。

 一か月半、強固な鎧に守られ、誰の手も受け付けなかったその場所。

 俺の二の腕に彼女の柔らかな体温と、瑞々しく滑らかな黒髪の香りが一気に押し寄せてくる。

「右腕の一番、貰っちゃうね」


 葵さんが初めて主張し始めた、仄かな独占欲。

 なら、俺はこうしてあげるべきだよな。

 

「……葵さん、ちょっとだけ、その、腕を離してくれるかな」

「え、どうかしたの……?」

 俺の言葉に、彼女が怪訝そうに眉を寄せる。


「あっ」

 彼女の手が緩んだ隙に、ゆっくりと右腕を引き抜く。

 それから体の向きを君へと向けて、その白く柔らかな頬にそっと手を添えた。優しく触れた。


「そ、蒼くん……?」

 不意の接触に、彼女が驚いたように目を丸くする。


「……じゃあ、ギプスが無くなって、一番最初に触れたのも君にしておくよ」

 

 口にした瞬間、自分の顔が猛烈な勢いで熱くなっていくのがわかった。我ながら何を言っているんだと、心臓の鼓動が耳の奥でうるさく盛大に鳴り響く。

 でも、それは。

 俺の視線の先にいた君も、同じだったみたいで。

 透き通るような彼女の白い頬が、見る間に鮮やかな朱に染まっていく。

 

 彼女は俺の右手に自分の左手をそっと重ねて、逃がさないように、慈しむように、俺の手のひらを自分の頬へと押し当てる。


「君は、俺だけの葵さんなんだろ?」

「そ、そう、だぞ……うう、もう」


 消え入るような、それでいて確かな肯定。

 

 九条 葵という名の、逃れられない底なし沼の深さを。

 俺は自由になったばかりの右腕で、痛いほどに噛みしめている。

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