第111話 俺が好きなもう一人の君
二日目の朝がやってくる。
教室に足を踏み入れると、昨日のテストの疲れを引きずってどんよりとした空気が漂う中にあって。
一部の界隈だけは、異様なまでの密度を持った緊張感を放っていた。
「……健太、生きてるか?」
声をかけると、前の席で文字『通り燃え尽きかけた』ような顔をしていた健太が、のろのろと首を回して振り返る。
目の下のクマが、もはや青を通り越してどす黒いような気がするぞ。
「ああ……昨夜、蒼と九条さんのノートのコピーを死ぬ気で見返したわ。今日さえ。今日の数学Ⅱさえ乗り切れば…………」
「もしかして、寝てないのか?」
「寝れるわけないだろ! どれだけ今まで俺が数学をサボってたと思うんだ!」
「そこ、威張るところかよ」
「お前まで細かいこと言うなよ、まるで高階さんじぇねえか」
高階さんて、おま。
その例えは、どうなんだ。
俺の呆れ顔に、隣からクスクスと小さな笑い声が重なる。九条さんが、どこか楽しげな様子で俺たち二人を見ていた。
「小園くん、テスト中に寝てはダメよ? 昨晩頑張りすぎて、目が覚めたら答案が真っ白……なんて、あまりに救いのない悲劇だわ」
「うっ、九条さん……それ、今の俺には笑えない冗談だわ」
健太が顔を引きつらせて前を向くと、小さく息を吐いた。
「はぁ……高階さんも、気合入ってるみたいだしな。負けられねえ」
健太の視線の先──
高階さんは静かに机に向かい、一心不乱にノートを読み返していた。時折、ペンを止めては眉間に皺を寄せ、何かを反芻するように唇を動かしている。
俺たち三人の輪に加わらないなんて、よほど集中したいのだろうな。
細い背中からは、この科目に懸ける並々ならぬ覚悟が透けて見えた。
「……高階さんも、頑張れよ」
そっとエールを送り、自分も鞄から数学のノートを取り出した。
四人が四人ともに、それぞれの目標へ向けて必死に勉強し、互いの存在をどこかで感じながら駆け抜けたテスト期間。
地獄の数学も、麻痺しそうなほど繰り返した暗記科目も。
すべてはこの数時間で決まる。
*
そうして迎えた、最終日の最後の科目。
ペンを握る右手の指先に俄然と力が入る。これで終わりだ。
最後の一問を埋め、見直しを終えて静かに顔を上げると、真横の彼女もまた、ペンを置いたのが気配でわかった。
直接視線を向けずとも、美しい黒髪の房が満足げに揺れるのが、何故だか鮮明にわかった。
──キーンコーンカーンコーン……。
一部の生徒からすれば、それはもう救い主の降臨にも等しい。待ちに待ち望んだウエストミンスターの鐘の音。
「はい……そこまで。筆記用具を置いて。みんな、本当にお疲れ様。今日はもう、しっかり休みなさい」
吉岡先生の晴れやかな声と共に、連日に渡り教室を支配していた重苦しい圧が、一気に弾けた。
「終わったあああああああ!」
健太の絶叫が、教室に木霊する。
あちこちで上がる歓喜の声と、魂が抜けたような長い溜息の数々。
俺は指先の痺れをゆっくりと解きながら、肺の中の毒素をすべて吐き出すように、深く、長く息を吐いた。
「どうしたの?」
「ん、ああ。右手はずっと使ってなかったからか、痺れちゃってね」
「そ……」
都内有数の進学校でもある聖諒において、二年の最初の中間考査こそが本当の勝負だという説がある。学習内容が高度になり、将来への展望や学内での立ち位置が残酷なまでに浮き彫りになる最初の分岐点。
周囲のクラスメイトたちの、憑き物が落ちたような。
あるいは燃え尽きたような表情を見る限り、誰もが言葉にできないほどの重圧を背負っていたのだろう。
俺が椅子を引いた途端。
隣の彼女が、ゆっくりとこちらを振り返る。
「健太、今日はどうする? 皆で集まって自己採点でもするか?」
「ああ、蒼わりぃ。……俺はパスだわ。今日はもう帰ってとにかく寝たい」
「私も~。今日はもうテスト問題なんて見たくない。脳みそが沸騰しそうよ」
「そういことで、じゃあな」
「みんなお疲れ様~」
疲れ切った顔で去っていく二人を見送りつつ、隣で「カタン」と椅子が引かれる音に意識を向けた。
振り返れば、試験前よりもさらに瑞々しさを増したような、美しい九条 葵が立っている。
「では、私たちだけで自己採点しましょう。近くのカフェでもどう?」
「えっ、あ、ああ。いいけど……」
自己採点なら、家でもできるよな。
そう思わなくもない。けれど、いつになく強引な彼女に結局頷いてしまう。
断る理由なんて、どこにもなかった。
ただ、彼女の視線が、机の下で不自然に指を動かしている俺の右手に注がれていることに、俺はこの時まだ気づいていなかった。
「ここがいいわ。ここに座りましょう」
店に入るなり、九条さんは迷わず店の奥──大きな観葉植物の影になり、入り口からも店員からも死角になる四人掛けのボックス席を選んだ。
対面に座ろうとした俺の袖を、彼女の細い指が、拒絶を許さない力強さで引く。
その細い体の一体どこに、そんな力がある。
「……こっちよ。採点、一緒に見やすいでしょう?」
「そうか? 隣だと、問題用紙を広げるのに狭くないか?」
「もう、いいから。ほら、座って」
テーブルを広く使える対面の方が効率的だと思うのだが。
釈然としない思いを抱えつつも、俺は彼女に促されるまま真横に腰を下ろした。
「お待たせいたしました。特製ホットココア、ホイップ多めがお一つ。カフェオレがお一つです」
店員が丁寧に飲み物を置き、伝票を残して立ち去る。
その足音が遠ざかり、周囲の話し声が心地よい雑踏となって遠のいた、その直後だった。
「……っ!?」
すすっと腰を滑らせて密着してきた、彼女の柔らかな体温。
戸惑う俺の動揺を楽しむように、彼女はさらに深く体重を預け、俺の耳元に顔を寄せる。
触れそうなほど近い唇から、甘い吐息と共に言葉が零れ落ちた。
「さあ、今からは、君の葵さんだぞ」
ぐはっ。それは、最近の俺が好きな──代官山で見せた、あの『君』の口調じゃないか。
彼女はもしや……俺の反応で薄々感づいているのではないだろうか。あのデート以来、その口調の頻度が明らかに増えている。
……まあ、いいんだけどね。
むしろ、もっと増えてもいい。
「く、九条さん、ここ、学校から近いからさ」
上気した顔で、必死に絞り出した俺の制止。
それを、彼女はくすりと微笑むだけで気にも留めない。捕まえた俺の右手を、自分の膝の上で抱き込んでしまう。
「心配ないよ。ここは死角だし、問題ない。……それとも、私にこうされるのは、キミは嫌なのかな?」
「嫌なわけないだろ」
食い気味に返した俺の言葉に、彼女は満足そうに目を細めた。
「なら、いいじゃない。……ほら、力を抜いて? 右手の指痺れてるんでしょう? できるだけ早く、こうしてあげたかったの」
葵さんに、九条さん。
そこに新たに加わった、中性風で押しの強い君。
境界線を見失いそうになる俺を置き去りにしながら、彼女の指先は、不自由だった俺の右手を慈しむように解きほぐしていく。
死角に守られた空間で、彼女が注いでくれる熱。
その優雅で力強い愛撫に、固まった指先はゆっくりと、けれど確実に解されていった。




