第110話 自己とは他者である
試験前のざわめきが引き、教室に薄い緊張だけが残る。
「裏返したまま回してちょうだいね。合図があるまで、まだ中を見てはダメよ」
吉岡先生の落ち着いた、よく通る声が響いた。
それを合図に、最前列から順に解答用紙が手渡されていく。
バサバサという乾いた音が、前の席から後ろの席へ順番に流れてくる。
先生は、教壇から生徒一人ひとりを見渡すようにして、優しく、どこか茶目っ気を滲ませて言った。
「……みんな、期待してるから。最後の最後まで、諦めずに頑張んなさい。あと、名前を書き忘れることのないようにね。特に小園くんとか、気を付けるのよ」
その言葉に、前の席で背中を丸めていた健太が「うっ」と小さく喉を鳴らす。
張り詰めていた教室の空気が、その一言でほんの僅かに解ける。この柔らかな緊張感こそが、吉岡先生のクラスらしい。
「──始めなさい」
先生の合図と共に、一斉に紙をめくる音が無数に重なる。
まずは全体を俯瞰しようか。
英語はいま、俺が最も力を注いでいる科目であり、彼女への挑戦権を得るための、絶対に落とせない一戦でもある。最低でも90点は欲しい。
欲を言えば、もう少し積み上げて95。
コミュニケーション英語Ⅱ。ここで引き離されるわけにはいかない。
ギプスに固定された右手、突き出た指先だけでペンを握る。
最初は痛みそうで不安だったけど、随分と回復した今は、左手で書くよりもよほど綺麗に書けることを知った。
やはり、なんだかんだ言っても利き腕である。
いける……。
昨夜も一昨日も、彼女の隣で英単語を詰め込んだ。
交わした言葉の数より、隣にいた時間そのものが、今の俺の指先に確かな力を与えてくれている。
今までで一番、淀みなくペン先が進む。
長文の海を泳ぐ俺の視界の端には、すぐ真横で凛と背筋を伸ばし、迷いなく解答を埋めていく彼女の横顔があった。
朝、俺が見惚れたあのポニーテールの房が、彼女の思考のリズムに合わせて静かに揺れている。
本当に……君は綺麗だよな。
思わず、ペンを握る手が止まりそうになる。
──おっと、いけない。
試験中に見惚れて、カンニングだと何だと疑われたら洒落にもならない。俺は慌てて意識を問題用紙へと引き戻し、再び英文の羅列へとダイブした。
もうわかってる。
彼女がそこにいる。
ただそれだけのことで、俺はどこまでだって頑張れる。
英語を皮切りに、初日の試験は怒涛の勢いで進んでいった。
幸いなことに、健太が二番目に恐れていた数学は明日に回されている。
「初日に英語と数学がセットで来たら、終わってたわ。二人にもそうだけど、マジで日程の神様にも感謝だな」
休み時間のたびに繰り返される、そんな健太の「命拾いした」という大げさなセリフに苦笑しながら、俺は答え合わせに付き合う。
「あそこ、蒼の言った通り出たよな!」
「だろ? 先生も『出るかもね~』って、ヒントをくれてたからな」
「これで、英語はなんとかなったかも」
「そうか、よかったな」
絶望と希望を交互に叫ぶ健太の横で、高階さんもどこか吹っ切れたような、穏やかで明るい表情を浮かべて頷いている。
「そうだ、あの……生物の最後! あれ、結局答えは何だったのかな? 迷いに迷って、浮遊種にしちゃったんだけど」
高階さんが不安げに眉を寄せた、その時だった。
「──あれは、ネクトンよ」
その一言に、高階さんが、
「……あ、そっち~~!」
と、頭を抱えて小さく顔をしかめる。
涼やかな鈴の音のような声が、騒がしい教室の空気をひやりと鎮める。
九条さんは、次の科目のテキストに落としていた視線を緩やかに上げ、優しい双眸で高階さんを見つめて、それだけを答えた。
その視線が俺たちの元に留まっていたのは、ほんの僅かのこと。
高階さんへ正解だけを告げると、九条さんはすぐにテキストへ視線を戻した。
それ以上は語らない。
「九条さん、今の聞いてたのか!? 聖徳太子かよ」
健太が呆れたように、けれどどこか尊敬の混じった声を上げる。
九条さんはそのツッコミに応じる代わりに、ページをめくる指を止めることなく、口元にだけ小さな笑みを浮かべた。
「大袈裟よ、小園くん」
「そもそも、聖徳太子は男なんだから」
「いや、高階さん。それ、違うくね?」
脱線しそうな雰囲気を俺は切り替える。
「さあ、次こそ今日最後の試験だ」
「ようし。もうひと頑張りよ」
「だな! ネクトンばりに波に乗ってやるぜ!」
健太のよく分からない気合に、俺と高階さんは思わず噴き出す。
「なんだよネクトンばりって」
すると、チャイムが鳴り響く直前。
「ふふ、皆頑張ってね」
テキストを見つめたまま、けれど心からのエールを溶け込ませた彼女の声が届く。
俺は深く息を吐き、新しい答案用紙が配られるのを待つ。
高く昇った太陽が、間もなく昼が近いことを教えるように、教室の隅々までを白く鮮やかに照らし出している。窓の外から聞こえる木々のざわめきさえもが、遠い世界の出来事のようで。
大人には大人の、俺たちには俺たちの今がある。
そんなことを、ふと思った。
そして、現代国語が始まった。
評論の難解な論理を解きほぐし、物語の行間に隠された登場人物の機微を追う。回答欄を埋めるペンの音だけが響く中で、ふと、俺の思考が問題文の一節に釘付けになっていることに気づいた。
『他者との出会いが、 自分に対する気づきを与えてくれ、 自分の成長のきっかけとなる。自己とは他者である』
……自己とは、他者である、か。
心の中でその一文をなぞる。
かつての俺は、自分の輪郭を自分一人だけで決めているつもりだった。けれど、九条 葵という圧倒的な色彩に近づき、追いかけ、こうして寄り添われる中で。
自分を取り戻すことができた。
俺は、彼女にふさわしい自己でありたい。
現代国語の解答欄をすべて埋め、ペンを置く。
先ほどの言葉の余韻は、試験が終わったあとも俺の胸の奥に静かに居座り続けている。
初日の試験を終えた、その日の夜。
やるべきことを終えた俺たちはただ、テーブルを挟んで向かい合う。互いの存在を研磨剤にするようにして、ひたすら己の知識を研ぎ澄ませていく。
参考書をめくる乾いた音。シャーペンの芯が紙を削るリズム。
時折、葵さんが淹れてくれる少し濃いめの紅茶が美味しい。
その温かい湯気の向こう側で、彼女のうなじが朝のまま、美しくまとめられているのが見える。
……まだ、解かないでいてくれるんだ。
俺が望んだ髪型を、今日一日守り続けてくれた。
そして、たぶん明日も。
その事実が、疲弊し始めた俺の脳に、どんな栄養剤よりも強い活力と安らぎをくれる。強烈な糖分みたいに。
彼女の圧倒的な集中力に引きずられるようにして、俺の意識もまたそれに倣う。
君の隣にいたい。ただその一心からくる渇望が、すべて学問へのエネルギーへと変換されていく夜だ。
そんな、限界まで思考を回し続けたあとの結びは、言葉にできないほど柔らかなものだったんだ。
眠りにつく直前、交わした言葉は「おやすみ」のたった一言で。
俺は、自分の意思で初めて、彼女を背中から抱きしめるようにして眠りについた。
「あ……」
小さな、吐息のような声が彼女の唇からこぼれる。
驚きに肩がわずかに跳ね、それから、ゆっくりと俺の体温を受け入れるように力が抜けていくのが伝わった。
「……蒼くん」
名前を呼ぶその声は、ひどく柔らかなもの。
彼女は俺の手に自分の手をそっと重ねると、体重を預けるようにして、その華奢な背中を俺の胸へと預けてきた。
腕や胸に伝わる、彼女の柔らかな輪郭と、規則正しい鼓動。
君は、生きている。
血の繋がらない「他者」が、こうしていま隣で生きているということ。そんな当たり前に、かつてないほどの感謝が胸に込み上げる。
そうだ。いつか彼女を両親の墓に連れていこう。
父と母に、彼女を合わせたい。
俺が選んだ大切な人を見て欲しい。
彼女の髪から微かに香るシャンプーの香りと、安らぎ。
こんなに心地よい空間は、世界のどこにも、あるものか。




