第11話 繋がりの象徴
どうやら、お前とは長い付き合いになりそうだ。
望むと望まざるにかかわらず。
俺はこの、真紅の筐体の中へ永遠に居座り続けるであろう、黄色い相棒に乾いた笑いを浮かべるしかない。
……っ、その口元が、ほんの少し緩んでいることに気づいて、慌てて内心で舌打ちする。
──浮かれてなどいるものか。こ、これは呆れているだけで。
そ、そうだ。これでようやく連絡手段が復活したからだ。断じて、この黄色いクマーや、ましてや彼女とお揃いだからなんかじゃ、ない。
さ、さて、新しいスマホが手に入ったのなら、真っ先に解決しなければならない問題が、まだ残っているよな。
そう、バイト先への連絡だ。
無断欠勤が続く状況は、決して褒められたものではない。
新しいスマホのブラウザから店名を入力し電話番号を調べようと、ギプスの先端から突き出た僅かな指で、不慣れに画面をタップしていると、
「水無月くん」
不意に彼女の声がして、スマホを触る指が自然と止まる。
「君のバイト先、駅前のカフェよね? もう、連絡なら済ませておいたわ」
一瞬、彼女が何を言っているのか、理解できなかった。
連絡? 何の? 済ませたとはどういうこと?
「えっと……意味がわからないんだけど」
驚くほど平坦に。
そう、あらかじめ用意していたセリフを、そのまま読み上げているかの如く告げる彼女がいる。
「画面が割れたあなたのスマートフォンに、何度も着信があったから。緊急の用事かもしれないでしょう?」
「うん。それで?」
続きが知りたくて、先を促す。性急と思われても構うものか。
「バイトにずっと来ず、連絡もないから心配していた、と。だから、伝えておいたの。あなたは事故に遭って大怪我したから、しばらくは働けないって」
俺が、何も答えられずにいると。その沈黙を、彼女はどう受け取ったのだろうか。
それまで平然としていた彼女の瞳に、初めて、ほんの少しの動揺の色が宿る。
「……その、勝手な、ことだったかしら……?」
彼女は、そこでようやく、自分の行動が『正しい』かどうかではなくて、俺がそれを『どう感じるか』という問題に、思い至ったらしい。
恐る恐る、こちらを窺うように、か細い声で彼女は呟いた。
「……ごめんなさい」
なあ、これはどう返すのが正解なんだ?
人の電話に勝手に出るなと怒るべきか?
いや、でも、俺が頭を抱えていた問題を、彼女は鮮やかに解決してくれていたのも事実。おまけに電話に出れる状態でも無かった。
感謝すべきなのか、非難すべきなのか。
二律背反──あまりにも矛盾した二つの感情が、頭の中で激しい論争を始めている。
目の前であの九条 葵が不安そうに俺を見つめている。その瞳に少しばかりの不安と罪悪感の色を浮かべて。そんな顔をされて、怒れる奴がいるか?
そもそも、美人を強く叱責できる奴なんているのだろうか?
いるなら、連れてきて欲しいよ。
これは……無理、だろ。
なら、もう話は早い。叱れないなら感謝すればいいだけさ。
「ありがとう。助かったよ」
どうか、今後の主導権を、完全に彼女に明け渡すことがありませんように。
そんな俺の、ささやかな祈りが届いたのかは分からない。
それまで不安そうにこちらを窺っていた九条さんの瞳が、驚いたように、数回ぱちぱちと瞬いた。その瞳に宿っていた罪悪感の色が、まるで雪解け水のように消えていく。
「……よかった」
ぽつりと、心の底から安堵したような、とても小さな吐息が漏れた。
「どうして?」
「てっきり、怒られるかと思ってたから……」
「いや、まあ……普通は、怒るべきなのかもだけど」
そう言って頭をかくと、彼女は「ふふっ」と。出会ってから初めて聞くような、柔らかな笑い声を響かせる。
「どういたしまして」
その笑顔は、反則すぎるだろ。
ただの、クラスメイトに見せるべき表情じゃない。
羨望だった美しさが、実は手に届く美貌なのだと知ると、止まれなくなってしまう。その破壊力は、俺の肋骨の痛みを忘れさせるには十分すぎる程に。
「それにしても」と、彼女は続ける。
さっきまでの平坦な声が嘘のように、その声には弾むような抑揚が戻っていた。
「今度は必死になって、私のこと探してくれたのね……ふふ」
「そ、それは、バイトの件があったから、ほら……!」
「はいはい」
くすくすと、悪戯っぽく笑う九条 葵が可愛い。
俺はもう、何も言い返さない。
いいか、『あえて』だからな。そこを間違えないように。
そして、ようやく。俺の思考は目の前にある現実を、まともに認識し始めるのだ。
病室に入ってきた当初は、地獄の釜が開いたような状況で、彼女の姿をまともに吟味する余裕なんて、微塵もなかったから。
けれども、こうして穏やかな空気の中で改めて見ると──
目の前にいる休日の九条 葵は、俺の知っている『クラスメイトの九条さん』とは、全くの別次元の様相だ。
軽く羽織ったグレーのアウター。タイトな黒のロングスカートが、くびれた腰のラインを嫌でも意識させ、そのまま足元へと流れていく。靴底の厚い、ごつめの黒いショートブーツが、その華奢な足首で猶更映えて格好がいい。
黒と灰。そのモノトーンな色使いが、彼女のすらりとした手足の長さを、これでもかと引き立てている。
そして、こっそり視線を上げれば、アウターの下で、制服姿ではあれほど完璧に隠されていた柔らかそうな双丘が、控えめながらも確かな存在感を主張している。
……これはやばい。
教室の隅から遠巻きに眺めていた「芸術品」が、今、生身の、とんでもない美少女として目の前にいるぞ。
さっきは肋骨の痛みを忘れたけど、今度は別の意味で心臓が止まりそうだよ。
「じゃあ、また明日。退院手続きがあるから、明日は早く来るわね」
「ああ。助かるよ」
明日はもっと早く来るという言葉を残して、彼女は病室を去っていった。
頼りなくドアが閉まる。
一人になった部屋で改めて、さっきまでの出来事を反芻する。九条さんの、あの反則的な私服姿はどうだ。あの悪戯っぽい笑顔。それから、「バカ」という、甘い響きに満ちた声……。
どれくらい、そうして天井を眺めていたか。
それから数十分が過ぎるなんて、あっという間だった。
ブブッ。
不意に、枕元の真紅のスマートフォンが短く震えた。
まだ、設定らしい設定も済ませていない、新品のスマートフォン。
それが通知? 一体誰から?
ギプスで不自由な指先で、なんとか画面をタップする。そこに表示されていたのは、見慣れたメッセージアプリの通知。
送り主の名前を見て、俺は今度こそ心臓が止まるかと思ったよ。
【九条 葵】
メッセージは、たった一行。
『探してくれてありがとう』




