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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第四章 誰よりも短い至上なら、せめて誰よりも濃密に

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第109話 君に挑む始まりの朝

 開け放たれたカーテンから、容赦なく降り注ぐ朝の光。

 それにキッチンから伝わる、トントンと小気味よい規則正しい包丁の音が重なって、深く沈んでいた微睡みの意識がゆっくりと浮上し始める。


 昨夜……深夜に一度だけ目を覚まし、自覚したはずだった。

 自分が晒した、目も当てられないほどの醜態を。

 この朝の残酷なまでの眩さは、その記憶をわざわざ鮮明に焼き直し、俺を逃げ場のない羞恥のどん底へと突き落とす。

 

「やっちまった、よなあ……」

 

 虚ろな目で明るい天井を見上げ、掠れた声でぼそりと呟く。

 

 なーにが『水無月 蒼の命令だ』だよ。

 できることなら時間を巻き戻して、あの瞬間の自分を殴りにいきたい。

 

 思い出すだけで顔から火が出そうになる。

 ……でも。

 あの九条 葵が、あんなにも素直に「はい」と頷いたこと。その後に感じた、膝の上に伝わる柔らかな重みと熱までも。

 それらを思い出すだけで、背筋を何かが駆け抜け、ゾクっとしてしまう自分がいて。

 結局、彼女の存在そのものに翻弄されているのは俺の方なのだと知る。。

 

「うああああ……っ!?」

 俺はたまらず手で顔を覆い、リビングのソファーで一人、音の出ない絶叫を上げて悶絶する。

 お酒のせいだとはいえ、あまりにもやりたい放題だった。

 葵さんは怒っていないだろうか。呆れ果ててしまったのではないだろうか。

 

 そんな不安と羞恥に脳を焼かれていると、キッチンのほうから、鈴を転がすようなクスクスという忍び笑いが聞こえてきたんだ。

「ふふ。朝から一人で悶えちゃって。蒼くん、可愛いわね」

 

 え? 彼女、今、なんて?

 独り言にしては、声が大きすぎたような。

 

 押し寄せる雑多な感情に押し潰されそうになりながら、恐る恐るキッチンへと視線を向けると。

 そこには、朝の眩い光を背負って立つ、俺だけの女神様がいた。

 

「おはよう、蒼くん。よく眠れた?」


 朝日に照らされて、くるりと振り返る彼女の姿に……俺は、絶句する。


「あ……っ!」


 あの約束の、髪。

 彼女の長く美しい黒髪は、高い位置できゅっと一つにまとめられ、軽やかなポニーテールに様変わりしていた。

 動くたびにふわりと弾むその黒糸の束は、彼女の透き通るような白いうなじを無防備に晒す。いつもよりずっと活動的で、それでいて、目が眩むほどに愛らしい。


 何より彼女は、昨夜のことなど微塵も気にしていないかのような、どこか楽しげで、心からの朗らかな笑顔を俺に向けていたから。


「どうしたの? ぼーっとして。……もしかして、忘れちゃったのかしら?」


 悪戯っぽく小首を傾げ、こめかみから垂れた髪先を指で弄ってみせる彼女。

 忘れられるわけがない。

 脳裏に焼き付いて、もう消えてくれないのに!

 むしろ、その記憶の鮮明さに困り果てているというのに!


「……いや。それが残念ながら、一言一句、結構しっかり覚えているんだ」

 俺の答えに、彼女は「あら」と意外そうに目を丸くした。けれどその瞳の奥には、俺の動揺を見透かしたような、愉しげな光が宿っていて。

 

「なによ、残念って」

 

「……いや。さすがにちょっと、自分でも引くくらい醜態を晒しすぎたかなって」


 情けなくて俯く俺を、彼女はクスクスと笑うんだ。昨夜の甘さを、その香りを少しだけ残したような、慈しむような優しい声で。


「困った蒼くんね。でも、私はああいう蒼くんも、決して悪くないと思うわよ」


「本気で言ってる?」

 

「ええ。いつもの優しくて穏やかな蒼くんもいいけれど……ああいう、少しだけ強引で、それでいて私に()()教えてくれる蒼くんは、あれはあれでいいものよ」

「教えるって、何を……」

「色々を、よ。ふふ」


 彼女は楽し気に笑って、髪の束を軽やかに弾ませた。

 朝日の逆光を浴びて、彼女のうなじに一筋の光が走る。昨夜、酒の力に任せて命令までして見たかった景色が、今、瑞々しい朝の光の中にある。

 

 昨晩の自分を、ほんの少しだけ褒めてやりたいと思ってしまった。


「ほら、朝ご飯できちゃうから。早く顔を洗ってきて?」

 そう言ってキッチンへ戻ろうとした彼女が、ふと足を止め、悪魔的に目を細めて俺を振り返ったから、もう嫌な予感しかしない。

「これじゃあつまらないわね。じゃあ、こうしましょうか」


「──私、九条葵の命令よ」

「なっ!?」

 心臓が跳ねるどころか、一度止まった気がした。

 一言一句違わず、彼女は昨夜の俺の暴挙をなぞってみせたのだ。

 恥ずかしさで意識が飛びそうになる俺を置き去りにして、彼女は満足そうに鼻歌まじりにコンロの火をつける。

 

 無理だ。俺は逃げるように洗面所へ向かった。

 蛇口を捻り、ギプスを濡らさないようビニールで覆った手ごと、溜めた水を迷わず顔に叩きつける。


 朝の冷水が、昨夜の甘く熱い霧を無理やり引き剥がしていく。

 されど、鏡の中の俺の顔は冷水の刺激を受けたというのに、まだ僅かに──いや、さっきの彼女の命令のせいで、より一層深く赤みを帯びていた。


 今日からは中間考査が始まる。

 昨夜、膝の上に彼女の重みを感じていた自分は、もうここにいてはいけない。切り替えるんだ。

 俺は強くタオルを顔に押し当てると、戦場へ向かう兵士のように、静かに奥歯を噛み締めた。

 なんてな。

 ちょっと、格好をつけすぎただろうか。


 正門をくぐり、数分後。

 喧騒の混じる教室へ足を踏み入れる。

 つい数時間前まで、ソファで肌を寄せ合って眠ったことが嘘のような、けれど確かな熱を持った日常がそこにはあった。

 

 俺と九条さんがそれぞれ並びの席に着くと、ほどなくして健太と高階さんがやってくる。健太はいつものように、自分の椅子をくるりと後ろへ向けた。


「健太、どうだ? 何とかなりそうか。高階さんは?」

 

 俺の問いかけに、健太は少し照れくさそうに頭を掻き、高階さんはどこか吹っ切れたような穏やかな表情で頷いている。


「あれからも、蒼と九条さんには世話になりっぱなしだったからなあ。ここで赤点だったら、男が廃るってもんだろ。ま、やるだけやってみるさ」

「私も……皆のおかげで、いつもよりは良い点が取れると思う。もう、いまさらよ。なるようになれって感じね」


 四人で囲んだ参考書や、遅くまで教え合った日々。

 それらが確実に彼らの自信に変わっているのが分かって、少しだけ胸が熱くなる。


「そっか。……よし、頑張ろうな」

「ええ。私も、二人を応援しているわ」


 九条さんが凛とした、けれどどこか慈しみを感じさせる微笑みを向ける。

 健太が「おうし!」と力強く返し、高階さんも「うん」と微笑み返す。


 そんな友人たちの姿を眩しく思いながら、俺はふと、彼女の横顔を見つめた。

 今は高く結い上げられたポニーテールが、彼女の覚悟を示すように、ピシッと静止している。

 彼女はもう、準備ができているのだろう。

 友人を鼓舞する心優しき九条 葵として。そして、俺の前に立ちはだかる『無敗の学年主席』として。


 隣の彼女に向かって、誰にも聞こえない声でそっと呟く。

「俺は、君に勝つよ。いつか、必ず」

 

 彼女は前を向いたまま、ほんの少しだけ口角を上げた。

「頑張って、水無月くん。……心から応援してる」


 その直後。

 戦いの幕開けを告げる予鈴のチャイムが、鋭く、高く、校内に鳴り響いた。

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