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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第四章 誰よりも短い至上なら、せめて誰よりも濃密に

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第108話 とけた魔法の種

「蒼くん。……蒼くん、あのね」


 胸の奥に積もっていた想いが、いまにも溢れてしまいそうで。

 この熱を帯びた抱擁の中でなら、言える気がして。

 震える声で、私は彼の名を呼ぶ。

 

 彼が、少しだけ拗ねてみせたあのリストの、最上位にある名を。

 大切に呼んだ。

 

 けれど、返事はなかった。

 代わりに、こくりと。

 彼の頭が重力に従って沈み、私の肩へ静かに預けられる。


「蒼くん……?」


 耳元で聞こえるのは、規則正しく、深く穏やかな寝息だけ。

 あんなにも真っ直ぐに私を射抜いていた瞳は、もう閉じられたまま。糸がふっと切れたみたいに、彼は深く寝入っていた。


「ふふ……ずるいわ、こんな時に」


 吐き出しかけた言葉の続きを、私は飲み込む。

 それは溢れた情愛だったのか、それとも、消えることのない懺悔だったのか。わからないまま、胸の奥にちりりと熱い種火だけを残して、それは静かに眠りにつく。


 それでも、少しも腹は立たなかった。

 むしろ、私の肩に無防備に顔を埋める彼の体温が愛おしくて、私はそっと彼の頭に手を添えるくらいに。

 もう、どうしようもないの。


 吐息が首筋を掠めて、くすぐったい。

 そして、熱に浮かされていた私の意識が、ようやくその()()にたどり着く。


 年に数回だけ顔を出す、撮影後の打ち上げ。

 そこで大人たちが纏っていた、あの独特の、芳醇で少し熱を帯びた香りが──今の彼からも漂っていることに。

 ああ、そうだったのね……。

 明かされてしまった、魔法の種。


 クライアントから頂いたという、高価そうなワイン。

 料理に使おうと冷蔵庫にしまっておいたものを、彼は冷たいジュースか何かと間違えて飲んでしまったのでしょうね。

 私を膝の上に乗せ、翻弄して。

 告白めいた言葉を引き出すような大胆さを見せたことさえ、きっと彼にとっては、あの赤い液体分の勇気が必要だったのだと思うと。

 胸の奥が、きゅっと甘く疼いた。

 

 さっきまで私を圧倒していたその重みが、今はたまらなく可愛く思えて。

 頬をつねりたくなる衝動を、私は小さく笑ってこらえる。


「蒼くん。……もし、あなたが大人になったら」

 

 寝息を立てる彼の耳元。

 私はまだ消えない種火を、そっと言葉に変えて彼の中に埋める。


「そうね。月に数度は飲んで……また聞かせて。あなたの本当の気持ち。女の人ってね、そういう言葉は何度聞いても嬉しいのよ」


 彼を起こさないよう、慎重に身体をずらす。

 自室からいちばん大きな羽毛布団を運び、リビングのソファで寄り添うように潜り込んだ。

 ひとつの布団に、仲良くふたり。

 明け方、魔法が解けたあとの彼がどんな顔をするのか想像して、私は小さく笑うの。

 

 前の私なら、こんなふうに未来の話をすることさえ、きっと避けていた。壊れる日の痛みを思うだけで、足がすくんでしまったから。

 でも今は、違う。

 怖さを抱えたままでも、あなたの隣で明日を選びたい。

 

 彼の腕の隙間で、そっと目を閉じる。

 胸の奥に、あたたかな火が一つ灯った。

 

「蒼くん、大好きよ」

 

 唇の内側で、もう一つだけ続ける。

「私を変えてくれて、ありがとう」

 

 失わないために退いては駄目。

 あなたと生きるために、私は進む。


   *


 なんだろう、この重みは。

 

 身体の上にある柔らかな温度と、どこか冴えた月明かりの匂いに、俺の意識はゆっくりと浮上した。

 目に入ったのは、見慣れてきたはずの暗いリビングの天井。

 そして──自分の膝の上で、守るべき宝物みたいに小さく丸まって眠る、葵さんの姿だった。


「えっ、葵……さん?」


 脳に血が巡る音がするほどの勢いで、意識が急速に覚醒する。

 同時に、数時間前の出来事が鮮烈な熱を持って脳裏を駆け巡った。熱き血潮のように、それが濁流となって全身を駆け巡る。


 なのに、思考の端々に、妙な霞がかかっているのはなぜだろう。

 胃の腑の奧に残る、あのすえた残香。……ああ、そうか。ジュースだと思っていたあの液体は。

 ……参ったな。とんだ大失態だ。

 こんな醜態を晒して、明日、君にどんな顔をすればいい。

 

 霞の向こうから手繰り寄せる記憶の断片は、どれも胸が痛むほど鮮やかだった。

 色を失っていた日常じゃ、決して見られないものばかり。


 鏡越しに見た、彼女の潤んだ瞳。

 ブラッシングをしたあとの、指をすり抜ける黒髪の艶。

 そして、だ。あの彼女が自分と同じ「初めて」を抱えていたという、震えるような──俺が心のどこかでずっと願っていた通りの、結末。


 それだけじゃない。

 記憶のピースは、次から次へと溢れてくる。

 

 おやすみクマーに、チョコレート。

 猫、それからワンちゃんだっけ。

 はは……。君が、ワンちゃんね。

 

 彼女がひとつずつ大切に並べてくれた、たくさんの「好きなもの」たち。

 そのリストの最後に、消え入りそうな声で付け足された言葉。俺への想いは、他のどれとも種類が違うのだと、彼女は真っ赤になって教えてくれた。


 俺は、ギプスのない方の手でそっと顔を覆う。

 不自由な腕とあの液体を言い訳に、どれだけ彼女を翻弄してしまったのか。

 それなのに彼女は、自分を置いて逃げることもせず、こうして膝の上で安らかな寝息を立てている。

 

 冷えたリビングに持ち込まれた、一枚の羽毛布団。

 この細い腕で、眠りこけた俺のために運んでくれたのか。


「ごめんな、葵さん。……めちゃくちゃだったよな、今夜の俺」


 月明かりの下、銀色に透ける彼女の頬を、熱の残る指先でそっとなぞる。

 今の俺には、彼女をベッドまで運んでやることさえできない。

 情けなくて唇を噛む。

 それでも、その不自由さが今だけは、彼女をこうして腕の中に留めておく理由にもなっている。


 彼女を起こさないように、慎重に布団を掛け直し、その温もりの中に再び意識を沈めていった。

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