第108話 とけた魔法の種
「蒼くん。……蒼くん、あのね」
胸の奥に積もっていた想いが、いまにも溢れてしまいそうで。
この熱を帯びた抱擁の中でなら、言える気がして。
震える声で、私は彼の名を呼ぶ。
彼が、少しだけ拗ねてみせたあのリストの、最上位にある名を。
大切に呼んだ。
けれど、返事はなかった。
代わりに、こくりと。
彼の頭が重力に従って沈み、私の肩へ静かに預けられる。
「蒼くん……?」
耳元で聞こえるのは、規則正しく、深く穏やかな寝息だけ。
あんなにも真っ直ぐに私を射抜いていた瞳は、もう閉じられたまま。糸がふっと切れたみたいに、彼は深く寝入っていた。
「ふふ……ずるいわ、こんな時に」
吐き出しかけた言葉の続きを、私は飲み込む。
それは溢れた情愛だったのか、それとも、消えることのない懺悔だったのか。わからないまま、胸の奥にちりりと熱い種火だけを残して、それは静かに眠りにつく。
それでも、少しも腹は立たなかった。
むしろ、私の肩に無防備に顔を埋める彼の体温が愛おしくて、私はそっと彼の頭に手を添えるくらいに。
もう、どうしようもないの。
吐息が首筋を掠めて、くすぐったい。
そして、熱に浮かされていた私の意識が、ようやくその正体にたどり着く。
年に数回だけ顔を出す、撮影後の打ち上げ。
そこで大人たちが纏っていた、あの独特の、芳醇で少し熱を帯びた香りが──今の彼からも漂っていることに。
ああ、そうだったのね……。
明かされてしまった、魔法の種。
クライアントから頂いたという、高価そうなワイン。
料理に使おうと冷蔵庫にしまっておいたものを、彼は冷たいジュースか何かと間違えて飲んでしまったのでしょうね。
私を膝の上に乗せ、翻弄して。
告白めいた言葉を引き出すような大胆さを見せたことさえ、きっと彼にとっては、あの赤い液体分の勇気が必要だったのだと思うと。
胸の奥が、きゅっと甘く疼いた。
さっきまで私を圧倒していたその重みが、今はたまらなく可愛く思えて。
頬をつねりたくなる衝動を、私は小さく笑ってこらえる。
「蒼くん。……もし、あなたが大人になったら」
寝息を立てる彼の耳元。
私はまだ消えない種火を、そっと言葉に変えて彼の中に埋める。
「そうね。月に数度は飲んで……また聞かせて。あなたの本当の気持ち。女の人ってね、そういう言葉は何度聞いても嬉しいのよ」
彼を起こさないよう、慎重に身体をずらす。
自室からいちばん大きな羽毛布団を運び、リビングのソファで寄り添うように潜り込んだ。
ひとつの布団に、仲良くふたり。
明け方、魔法が解けたあとの彼がどんな顔をするのか想像して、私は小さく笑うの。
前の私なら、こんなふうに未来の話をすることさえ、きっと避けていた。壊れる日の痛みを思うだけで、足がすくんでしまったから。
でも今は、違う。
怖さを抱えたままでも、あなたの隣で明日を選びたい。
彼の腕の隙間で、そっと目を閉じる。
胸の奥に、あたたかな火が一つ灯った。
「蒼くん、大好きよ」
唇の内側で、もう一つだけ続ける。
「私を変えてくれて、ありがとう」
失わないために退いては駄目。
あなたと生きるために、私は進む。
*
なんだろう、この重みは。
身体の上にある柔らかな温度と、どこか冴えた月明かりの匂いに、俺の意識はゆっくりと浮上した。
目に入ったのは、見慣れてきたはずの暗いリビングの天井。
そして──自分の膝の上で、守るべき宝物みたいに小さく丸まって眠る、葵さんの姿だった。
「えっ、葵……さん?」
脳に血が巡る音がするほどの勢いで、意識が急速に覚醒する。
同時に、数時間前の出来事が鮮烈な熱を持って脳裏を駆け巡った。熱き血潮のように、それが濁流となって全身を駆け巡る。
なのに、思考の端々に、妙な霞がかかっているのはなぜだろう。
胃の腑の奧に残る、あのすえた残香。……ああ、そうか。ジュースだと思っていたあの液体は。
……参ったな。とんだ大失態だ。
こんな醜態を晒して、明日、君にどんな顔をすればいい。
霞の向こうから手繰り寄せる記憶の断片は、どれも胸が痛むほど鮮やかだった。
色を失っていた日常じゃ、決して見られないものばかり。
鏡越しに見た、彼女の潤んだ瞳。
ブラッシングをしたあとの、指をすり抜ける黒髪の艶。
そして、だ。あの彼女が自分と同じ「初めて」を抱えていたという、震えるような──俺が心のどこかでずっと願っていた通りの、結末。
それだけじゃない。
記憶のピースは、次から次へと溢れてくる。
おやすみクマーに、チョコレート。
猫、それからワンちゃんだっけ。
はは……。君が、ワンちゃんね。
彼女がひとつずつ大切に並べてくれた、たくさんの「好きなもの」たち。
そのリストの最後に、消え入りそうな声で付け足された言葉。俺への想いは、他のどれとも種類が違うのだと、彼女は真っ赤になって教えてくれた。
俺は、ギプスのない方の手でそっと顔を覆う。
不自由な腕とあの液体を言い訳に、どれだけ彼女を翻弄してしまったのか。
それなのに彼女は、自分を置いて逃げることもせず、こうして膝の上で安らかな寝息を立てている。
冷えたリビングに持ち込まれた、一枚の羽毛布団。
この細い腕で、眠りこけた俺のために運んでくれたのか。
「ごめんな、葵さん。……めちゃくちゃだったよな、今夜の俺」
月明かりの下、銀色に透ける彼女の頬を、熱の残る指先でそっとなぞる。
今の俺には、彼女をベッドまで運んでやることさえできない。
情けなくて唇を噛む。
それでも、その不自由さが今だけは、彼女をこうして腕の中に留めておく理由にもなっている。
彼女を起こさないように、慎重に布団を掛け直し、その温もりの中に再び意識を沈めていった。




