第107話 幾千の夜を超えて
鏡の中の彼が最後に一度、ゆっくりと愛おしむようにブラシを滑らせた。
「ようし、おわりだ」
音が鳴ることを許したように、満足そうに柔らかく口角を上げている。
幸せの鏡の世界に映る私の髪は、自分でも驚くほど艶やかに、彼の想いをたっぷり帯びて輝いていた。
試しにそっと首を左右に振ってみれば、梳かされたばかりの髪が、宵の静寂に誘われたようにふわりと宙を舞う。
ほどけた黒髪が空気を孕み。
重さを忘れた絹糸みたいに肩や頬へやさしく触れて、静かに落ちた。その極上の指通りに、私は思わず小さな吐息を漏らす。
「すごいわ。大切に丁寧に梳いてくれると、こんなにも違うのね。蒼くんありがとう……こんなの、撮影の時も一緒に来てほしくなってしまうわ」
これは本気半分、ううん、八割くらい本当の気持ち。
もし本当に彼が撮影現場にいてくれたら、私はどんなに心強いだろう──そんな甘い空想が胸をかすめていく。
「これはMINAさん。お褒めに預かり光栄だね。専属ヘアメイクの座、本気で狙ってみようかな? それとも、君のマネージャーというのもいいかもしれない」
彼は少しだけ芝居がかった口調で、不敵に、けれどどこか優しく微笑み返してくれた。
私の世界に、彼が仕事の面でも介入してくれる未来。
青白いライトの下で戦う私を、すぐ傍で守り続けてくれるなら。
「ふふ、なら猛烈にプッシュしてあげるわ。いつでも来て頂戴?」
「それはありがたいね」
冗談めかしてはいるけれど、私にとっては切実な招待状だった。
「ただし、ずっと私専属よ?」
「望むところだ」
一秒の躊躇もなかった。
その力強い肯定に、私の心が再び夢を見始める。
そんな他愛のない、けれど私たちらしい遊びが可笑しくて。私たちは鏡越しに顔を見合わせ、秘密を共有する共犯者のように小さく笑い合った。
「じゃあ、リビングに戻ろうか」
「ええ、そうね」
九条 葵らしい言葉とは裏腹に、私はまたしても促されるまま、ふわふわとおぼつかない足取りで彼の後を追った。
どう考えても、今の私は浮ついている。
そして、今の彼はやっぱり、どこかおかしい。
……そんな蒼くんのことを、私はどうしようもなく好きだと思ってしまう。今の彼は、私に眩しすぎるほどの夢を、いくつも見せてくれるから。
その光に焼かれて。
あの坂道にいた頃の、『あおい』に戻ってしまっているのかもしれない。いつも彼に付いて回った、懐かしい私。
彼は先にソファの真ん中へ深く腰を下ろすと、見上げるような角度でじっと私を見つめた。そして視界の端で、彼が自分の太ももを……あの場所を、ぽんぽんと軽く叩くのが見えた。
「おいで、葵さん」
「……え?」
耳を疑った。
だって、そこは。私の脳裏に、忘れもしないあの夜を鮮明に呼び起こすところだったから。本当は、ありったけの勇気を振り絞って乗った場所だったから。
また……あれを、しろというの……?
私たちが一度だけ、溺れるように互いを求めた、あの夜の跨りハグ。
けれど、あの時とは決定的に何かが違う。
今の彼の瞳には、迷いも、戸惑いもない。あるのは、私を今すぐその腕の中に閉じ込めたいという、ひどく真っ直ぐで純粋な熱量だけ。
そうでしょう?
「命令、きいてくれるんだろう?」
低く、甘く掠れた声。その音に身体が芯から震える。
心臓が服の上からでもわかるほど激しく脈打ち、指先が強張る。
それでも、私は吸い寄せられるように彼の一歩前まで進み……。ゆっくりと、彼の膝を跨ぐようにして、その身体に自らを重ねた。
「っ……!」
私のすべてを預けた重みが、彼の逞しい腿の上に乗る。
膝がソファの背もたれに優しく当たった。
薄いルームウェア越しに伝わってくる、彼の硬くて熱い体温。重力に従って私の身体が沈み込むたび、お互いの輪郭が隙間なく混ざり合い、境界線が溶けてゆく。
自然と、私の胸が彼の胸に触れた。
柔らかな感触が、彼の確かな胸板に押し潰される。
トクン、トクン、と。
どれが自分の心音で、どれが彼の鼓動なのか判別がつかなくなるほどに、二人のリズムが激しく共鳴し合っていた。
「だめよ、蒼くん。これ……これ以上は本当に、止まれなくなってしまうから」
しがみつく私の腕に、自分でも驚くほどの力がこもる。
駄目。必死に閉じ込めて、厳重に鍵をかけていたはずの愛が、密着した彼の熱に触れて、また堰を切ったように溢れ出してしまうから。
「お願い、もうやめて」
「大丈夫。何もしないよ。……ただこうして、君の体温を感じていたいだけなんだ。もうすぐ、一緒に暮らせなくなるだろ?」
「蒼、くん。……わかったわ」
その言葉に、胸の奥がキュッと震えた。
だから、私は折れた。
不自由な日々が終わることは、私たちの特別な関係に一区切りがつくこと。その事実を彼も同じように惜しんでくれていることが、悲しいくらいに嬉しかったから。
不自由な彼の腕が、ギプスごと私の腰を抱き寄せる。
無骨で硬い感触が背中に当たり、それが余計に『今、彼に捕らわれている』という実感を強くさせた。
かつて狂おしいほど臨んだ、今。
音の消えたリビング。
重なり合った胸の奥で、二つの命が同じ速さで刻まれている。
どれだけの時間が過ぎたのか、もう私には分からない。そんな静けさの中で、彼が耳元に優しく囁いた。
「このまま、少し話をしようか。……俺はびっくりするくらい、君のことを知らないから」
「え、ええ……」
彼の肩に顎を乗せたまま、私は小さく頷く。
けれど、全身を包む温かな幸福感のすぐ隣で、冷たい不安の指先が、じわじわと私の背筋を這い上がってくるのがわかる。
どうしよう……。
こんなにも想い合っているはずなのに。
聞かれる内容によっては、私はまた、あなたに嘘を重ねなければならない。
あなたの傍にいたいと願うあまりに張り巡らせた嘘や秘密が、今のこの純粋な抱擁の中にさえ、どろりとした暗い影を落としている。
本当の私を知ってほしい。
でも、今はまだ知られてはいけない。
相反する二つの想い。
それが熱を持った胸の中で激しく渦巻いて、私を追い詰めていく。
でもね、私のそんな懸念は、拍子抜けするほど鮮やかに裏切られた。
「じゃあ、まずは君の好きなモノを知りたいな」
「私の、好きなモノ……?」
あまりに無邪気で、予想外な質問に、私は思わず顔を上げた。
てっきり、もっと私の核心に触れるようなことや、答えにくい過去の淵を聞かれると思っていたのに。
誕生日はいつだ、とか。
実家はどこだ、とか。
どこの小学校に通っていたか、そういうことまで聞かれると思っていたのに。
「そう。……例えば、一つ目はおやすみクマーだろ?」
「っ、ううっ……!」
私はたまらず、再び彼の広い胸に顔を埋めた。
よりにもよって、一番恥ずかしいところを突いてくるなんて。
でもね、聞いて蒼くん。
私がクマーを好きなのも、本当は全部、あなたのせいなのよ。
「たぶん、チョコレートも好きだよね? 他は何があるか、言ってみて?」
彼の腕の中で私は熱に浮かされたまま、ひとつ、またひとつと、彼に私を差し出していった。
「えっと……猫も好き。……ワンちゃんも」
「ぷっ、そのなりでワンちゃんね」
「ど、どういう意味よ。……駄目なの?」
拗ねたように私が問い返すと、彼はクスクスと喉を鳴らして笑った。その心地よい振動が、密着した胸にダイレクトに響いて、心の奥まで優しく揺らす。
「それだけ、君が大人っぽく見えるってことさ。……で? 他には?」
「急に言われても」
「じゃあ肉と魚なら、どっちが好き?」
「どちらも好きだけど……魚の方が食べやすいかも……」
「確かに、ヘルシーだもんな。じゃあ、魚の中なら?」
「サーモン、は好き……」
「それ以外は?」
促されるまま、私は夢中で「好きなモノ」を並べた。お気に入りの入浴剤、冬の朝の透き通った空気、彼が作ってくれるであろう玉子焼きも……。
これは少しのおねだり。
ひと通り話し終えたところで、彼はわざとらしく、深い溜め息をついてみせるの。
「……残念だなあ」
「え、どうして?」
何か、彼の気に障るようなことでも言ったかしら。不安になって顔を覗き込もうとした私の頭を、彼の腕がぐい、と強く引き寄せる。
耳と耳が、熱を帯びたままぴったりと重なる。
「俺の名前が、どこにもなかった」
「なっ……!?」
心臓が大きな音を立てたのは、これで何度目だろう。
そんなの、そんなのずるいわ。リストに並べるような、そんな軽い「好き」じゃないのに。
「そ、蒼くんへの……好きは、種類が違うから……っ」
最近は、彼に恥ずかしい告白ばかりさせられている気がする。
真っ赤になった顔を隠すように、再び彼の肩へと顎を乗せた。
この顔だけは見せられない。
蕩けきって、きっと不細工に違いないから。
もう、これ以上好きになる余地なんてないと思っていたのに。またひとつ、好きという重い石を心に積んでしまった私。
あの坂道から十年。ひとつずつ積み上げられたその石は、もういつ崩れてもおかしくないほどの高さになって、私の胸を熱く苦しくさせる。
でも、その苦しみさえ今は愛おしくてたまらない。
蒼くん。私、夢を見てもいいのかな?
偽りの自分を演じた私を、いつかあなたは許してくれると。
そう期待してもいいのかな?
彼の鼓動に身を委ねながら。私は静かに瞳を閉じた。
いつか捨てられるのが怖くて、ずっと明けない夜を願っていたはずの私は。
いつのまにか、夜が明け。彼と共に歩む新しい朝が来ることを、願い始めていた。
絶望を捨て、希望に賭ける。




