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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第四章 誰よりも短い至上なら、せめて誰よりも濃密に

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第107話 幾千の夜を超えて

 鏡の中の彼が最後に一度、ゆっくりと愛おしむようにブラシを滑らせた。


「ようし、おわりだ」


 音が鳴ることを許したように、満足そうに柔らかく口角を上げている。

 幸せの鏡の世界に映る私の髪は、自分でも驚くほど艶やかに、彼の想いをたっぷり帯びて輝いていた。


 試しにそっと首を左右に振ってみれば、梳かされたばかりの髪が、宵の静寂(しじま)に誘われたようにふわりと宙を舞う。

 ほどけた黒髪が空気を孕み。

 重さを忘れた絹糸みたいに肩や頬へやさしく触れて、静かに落ちた。その極上の指通り(彼の想い)に、私は思わず小さな吐息を漏らす。


「すごいわ。大切に丁寧に梳いてくれると、こんなにも違うのね。蒼くんありがとう……こんなの、撮影の時も一緒に来てほしくなってしまうわ」

 これは本気半分、ううん、八割くらい本当の気持ち。

 もし本当に彼が撮影現場にいてくれたら、私はどんなに心強いだろう──そんな甘い空想が胸をかすめていく。


「これはMINAさん。お褒めに預かり光栄だね。専属ヘアメイクの座、本気で狙ってみようかな? それとも、君のマネージャーというのもいいかもしれない」

 

 彼は少しだけ芝居がかった口調で、不敵に、けれどどこか優しく微笑み返してくれた。

 私の世界に、彼が仕事の面でも介入してくれる未来。

 青白いライトの下で戦う私を、すぐ傍で守り続けてくれるなら。


「ふふ、なら猛烈にプッシュしてあげるわ。いつでも来て頂戴?」

「それはありがたいね」

 冗談めかしてはいるけれど、私にとっては切実な招待状だった。


「ただし、ずっと私専属よ?」

「望むところだ」

 一秒の躊躇もなかった。

 その力強い肯定に、私の心が再び夢を見始める。


 そんな他愛のない、けれど私たちらしい遊びが可笑しくて。私たちは鏡越しに顔を見合わせ、秘密を共有する共犯者のように小さく笑い合った。


「じゃあ、リビングに戻ろうか」

「ええ、そうね」


 九条 葵らしい言葉とは裏腹に、私はまたしても促されるまま、ふわふわとおぼつかない足取りで彼の後を追った。

 どう考えても、今の私は浮ついている。

 そして、今の彼はやっぱり、どこかおかしい。

 ……そんな蒼くんのことを、私はどうしようもなく好きだと思ってしまう。今の彼は、私に眩しすぎるほどの夢を、いくつも見せてくれるから。


 その光に焼かれて。

 あの坂道にいた頃の、『あおい』に戻ってしまっているのかもしれない。いつも彼に付いて回った、懐かしい私。


 彼は先にソファの真ん中へ深く腰を下ろすと、見上げるような角度でじっと私を見つめた。そして視界の端で、彼が自分の太ももを……あの場所を、ぽんぽんと軽く叩くのが見えた。


「おいで、葵さん」


「……え?」


 耳を疑った。

 だって、そこは。私の脳裏に、忘れもしないあの夜を鮮明に呼び起こすところだったから。本当は、ありったけの勇気を振り絞って乗った場所だったから。

 また……あれを、しろというの……?


 私たちが一度だけ、溺れるように互いを求めた、あの夜の跨りハグ。

 けれど、あの時とは決定的に何かが違う。

 今の彼の瞳には、迷いも、戸惑いもない。あるのは、私を今すぐその腕の中に閉じ込めたいという、ひどく真っ直ぐで純粋な熱量だけ。

 そうでしょう?

 

「命令、きいてくれるんだろう?」


 低く、甘く掠れた声。その音に身体が芯から震える。

 心臓が服の上からでもわかるほど激しく脈打ち、指先が強張る。

 それでも、私は吸い寄せられるように彼の一歩前まで進み……。ゆっくりと、彼の膝を跨ぐようにして、その身体に自らを重ねた。


「っ……!」


 私のすべてを預けた重みが、彼の逞しい腿の上に乗る。

 膝がソファの背もたれに優しく当たった。

 薄いルームウェア越しに伝わってくる、彼の硬くて熱い体温。重力に従って私の身体が沈み込むたび、お互いの輪郭が隙間なく混ざり合い、境界線が溶けてゆく。


 自然と、私の胸が彼の胸に触れた。

 柔らかな感触が、彼の確かな胸板に押し潰される。

 トクン、トクン、と。

 どれが自分の心音で、どれが彼の鼓動なのか判別がつかなくなるほどに、二人のリズムが激しく共鳴し合っていた。


「だめよ、蒼くん。これ……これ以上は本当に、止まれなくなってしまうから」


 しがみつく私の腕に、自分でも驚くほどの力がこもる。

 駄目。必死に閉じ込めて、厳重に鍵をかけていたはずの愛が、密着した彼の熱に触れて、また堰を切ったように溢れ出してしまうから。


「お願い、もうやめて」


「大丈夫。何もしないよ。……ただこうして、君の体温を感じていたいだけなんだ。もうすぐ、一緒に暮らせなくなるだろ?」


「蒼、くん。……わかったわ」


 その言葉に、胸の奥がキュッと震えた。

 だから、私は折れた。

 不自由な日々が終わることは、私たちの特別な関係に一区切りがつくこと。その事実を彼も同じように惜しんでくれていることが、悲しいくらいに嬉しかったから。


 不自由な彼の腕が、ギプスごと私の腰を抱き寄せる。

 無骨で硬い感触が背中に当たり、それが余計に『今、彼に捕らわれている』という実感を強くさせた。

 かつて狂おしいほど臨んだ、今。


 音の消えたリビング。

 重なり合った胸の奥で、二つの命が同じ速さで刻まれている。

 どれだけの時間が過ぎたのか、もう私には分からない。そんな静けさの中で、彼が耳元に優しく囁いた。


「このまま、少し話をしようか。……俺はびっくりするくらい、君のことを知らないから」

「え、ええ……」


 彼の肩に顎を乗せたまま、私は小さく頷く。

 けれど、全身を包む温かな幸福感のすぐ隣で、冷たい不安の指先が、じわじわと私の背筋を這い上がってくるのがわかる。

 

 どうしよう……。

 こんなにも想い合っているはずなのに。


 聞かれる内容によっては、私はまた、あなたに嘘を重ねなければならない。

 あなたの傍にいたいと願うあまりに張り巡らせた嘘や秘密が、今のこの純粋な抱擁の中にさえ、どろりとした暗い影を落としている。

 本当の私を知ってほしい。

 でも、今はまだ知られてはいけない。

 相反する二つの想い。

 それが熱を持った胸の中で激しく渦巻いて、私を追い詰めていく。


 でもね、私のそんな懸念は、拍子抜けするほど鮮やかに裏切られた。


「じゃあ、まずは君の好きなモノを知りたいな」


「私の、好きなモノ……?」


 あまりに無邪気で、予想外な質問に、私は思わず顔を上げた。

 てっきり、もっと私の核心に触れるようなことや、答えにくい過去の淵を聞かれると思っていたのに。

 誕生日はいつだ、とか。

 実家はどこだ、とか。

 どこの小学校に通っていたか、そういうことまで聞かれると思っていたのに。


「そう。……例えば、一つ目はおやすみクマーだろ?」

「っ、ううっ……!」

 

 私はたまらず、再び彼の広い胸に顔を埋めた。

 よりにもよって、一番恥ずかしいところを突いてくるなんて。

 でもね、聞いて蒼くん。

 私がクマーを好きなのも、本当は全部、あなたのせいなのよ。

 

「たぶん、チョコレートも好きだよね? 他は何があるか、言ってみて?」

 彼の腕の中で私は熱に浮かされたまま、ひとつ、またひとつと、彼に()を差し出していった。


「えっと……猫も好き。……ワンちゃんも」


「ぷっ、そのなりでワンちゃんね」

「ど、どういう意味よ。……駄目なの?」


 拗ねたように私が問い返すと、彼はクスクスと喉を鳴らして笑った。その心地よい振動が、密着した胸にダイレクトに響いて、心の奥まで優しく揺らす。


「それだけ、君が大人っぽく見えるってことさ。……で? 他には?」


「急に言われても」


「じゃあ肉と魚なら、どっちが好き?」

「どちらも好きだけど……魚の方が食べやすいかも……」

「確かに、ヘルシーだもんな。じゃあ、魚の中なら?」


「サーモン、は好き……」

「それ以外は?」


 促されるまま、私は夢中で「好きなモノ」を並べた。お気に入りの入浴剤、冬の朝の透き通った空気、彼が作ってくれるであろう玉子焼きも……。

 これは少しのおねだり。

 ひと通り話し終えたところで、彼はわざとらしく、深い溜め息をついてみせるの。


「……残念だなあ」

 

「え、どうして?」


 何か、彼の気に障るようなことでも言ったかしら。不安になって顔を覗き込もうとした私の頭を、彼の腕がぐい、と強く引き寄せる。

 耳と耳が、熱を帯びたままぴったりと重なる。


「俺の名前が、どこにもなかった」


「なっ……!?」


 心臓が大きな音を立てたのは、これで何度目だろう。

 そんなの、そんなのずるいわ。リストに並べるような、そんな軽い「好き」じゃないのに。


「そ、蒼くんへの……好きは、種類が違うから……っ」

 最近は、彼に恥ずかしい告白ばかりさせられている気がする。


 真っ赤になった顔を隠すように、再び彼の肩へと顎を乗せた。

 この顔だけは見せられない。

 蕩けきって、きっと不細工に違いないから。

 もう、これ以上好きになる余地なんてないと思っていたのに。またひとつ、好きという重い石を心に積んでしまった私。


 あの坂道から十年。ひとつずつ積み上げられたその石は、もういつ崩れてもおかしくないほどの高さになって、私の胸を熱く苦しくさせる。

 でも、その苦しみさえ今は愛おしくてたまらない。


 蒼くん。私、夢を見てもいいのかな?

 偽りの自分を演じた私を、いつかあなたは許してくれると。

 そう期待してもいいのかな?


 彼の鼓動に身を委ねながら。私は静かに瞳を閉じた。

 いつか捨てられるのが怖くて、ずっと明けない夜を願っていたはずの私は。

 いつのまにか、夜が明け。彼と共に歩む新しい朝が来ることを、願い始めていた。


 絶望を捨て、希望(キミ)に賭ける。

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