第106話 今明かされる、私の初めて
「……な、何をするのかは、わからないけれど……さ、さあ、どうぞ」
唇から零れ落ちた、無防備すぎるその一言。
それは、大切な宝物の鍵を、震える手でそのまま差し出してしまうような──あまりに危うい、降伏の言葉だったのかも。
それが彼にとってどれほど残酷で、どれほど甘い誘いになるのかさえ、熱に茹だった今の私には分からない。
「……ふぅ。参ったな」
「そんな顔で、そんなこと言われたら……本当に抑えられなくなりそうだ」
彼はわずかに視線を彷徨わせ、こみ上げる衝動を抑え込むように、短く、熱い息を漏らした。
その拍子に、ガタリと椅子が鳴る。
「……っ!?」
蒼くんが唐突に立ち上がったことに、私の体が思わず跳ねた。怖くはなかったけど、予想外の動きに呼吸が止まってしまう。
そのまま視界がふわりと陰り、彼の大きな影が私を包み込んでいく。
……いよいよ、何かが始まってしまう。
私を、愛してくれるのかな?
そう覚悟して、私はギュッと膝の上で指を握りしめた。
けれど、その陰りはそこで止まったまま、最後の一線を越えてこない。
「蒼、くん……」
おそるおそる見上げた先。彼はどこまでも穏やかな、それでいて酷く独占的な眼差しで私を見下ろしていて。
やがて、彼の大きな手が、迷うことなく私の頭へと伸びた。
「……あ」
それは、想像していたような強引なものではなくて。
とても優しい手つきで。
大きな手のひらが私の頭をそっと覆い、よしよし、と。子供をあやすような、されど慈しむようなその重みに、私は張り詰めていた呼吸を緩く吐き出してしまう。
「大丈夫。……そんなに怖がらなくていい」
「こ、怖がってなんか……」
思わず零れたのは、精一杯の強がりか。
いいえ、強がりなんかじゃない。違うの。怖くなんてない。でも本当は……。
──本当の私を見つけて、その上で。私という人間を丸ごと全部……あなただけのものにしてほしかっただけなの。
だから、私の中の乙女心が、精一杯虚勢を張って邪魔をしてしまう。
「さあ、どうぞ」と投げ出したはずなのに、やっぱり我儘を言ってしまうのよ。
「今はまだ違う内容にしておくよ。……おいで、これは水無月 蒼の命令だ」
一歩踏みとどまってくれた彼の。
どちらにしろ優しくて抗えない誘いに、私はただ、こっくりと頷くことしかできなかった。
断る理由なんて、どこにもない。彼のその言葉が魔法のように私の身体を操り、心地よく動かしているみたいで。
どこまでも付いていきたくなる。
「さあ、こっち」
蒼くんが差し出してくれた左手を、私は吸い寄せられるように取った。不自由な左手に障らないよう大切に、壊れ物を扱うように。
差し出された手のひらが、いつもよりずっと厚く、頼もしく見えた。
期待のせいか、あるいは終わりの予感のせいかは、わからないまま。
導かれるままに辿り着いた、逃げ場のない洗面所。
狭い個室に二人の影が密着するように並び、湿り気を帯びた空気が熱を持って、私たちの肌にまとわりついてくる。
「ここに座ってくれるかな」
「……はい」
あまりにも、素直な私。
仮面を被りすぎて、どれが本当の私なのか分からなくなるときがあったけれど。でも、彼の傍でこうして熱に浮かされている私こそが、きっと本当の私なのだわ。
促されるまま椅子に腰を下ろすと、彼は私の背後へと鮮やかに回り込んだ。
鏡越しに、大好きな人と目が合う。彼の瞳はまだ熱を帯びたまま、蕩けるような甘さで私を射抜いている。
だから私も、同じだけの想いを込めて、あなたを射抜いてあげる。
「片手だから一つずつしかできないけど、ごめんな」
そう言って、彼は私の頭に巻かれていたタオルをそっと解いた。
パサリ、と。まだ水分を含んで重たい私の黒髪が、彼の腕の中へと、身を預けるように落ちていく。
「綺麗だよな」
すぐ近くで溢れた、彼の無意識な独り言。
それだけで、私の背筋はゾクリと震えてしまった。……ひとり戸惑う私を置き去りにするようにして、彼はドライヤーのスイッチを入れる。
ブォーッという低い音とともに、温かな風が私の首筋を撫でていく。
彼は、ギプスから出た指を器用に使って、私の髪の間に滑り込ませる。
丁寧に、一本一本の束を解きほぐすようにして。
地肌に触れる彼の指先の温度が、ドライヤーの熱よりもずっと敏感に感じられて、私は思わず目を閉じた。
……このまま、暗闇に逃げ込みたかった。
ねえ、こんなことがあっていいの……?
これは、駄目よ。幸せすぎて、溶けてしまいそう。
だって、大好きな人に髪を大切そうに乾かしてもらうことが、こんなにも幸せなことだなんて、今の今まで知らなかったもの。
いつもは自分で乾かしている、なんてことない髪なのに。
それを、彼の手がとても大切に扱ってくれるから。……だから、それが特別貴重な黒糸に変わっていくような錯覚を覚える。
時折、彼の指が耳の後ろや襟足に触れるたび、私は小さな吐息を漏らしそうになるのを必死で堪えていた。
ふと、薄く目を開けて鏡を覗いてみる。
そこには真剣な眼差しで私の髪を乾かす彼と、真っ赤な顔で、隠しようもなく蕩けている私が映っていて、もうどうにもならない。
なんなの? ここは羞恥を閉じ込めるための箱かしら。
恥ずかしすぎて、正視なんてできない。
見ていられない。
私はただ、優しく吹く温風と、伝わる彼の指先の確かな感触に、すべてを委ねるしかなかった。朱に染まりすぎた顔で。
そうして、ドライヤーの風が私のうなじを露わにした時。
彼の指がふっと止まり、うるさく鳴っていた音も止んでしまった。
急に訪れた、凪。
鏡越しに見る彼の視線が、私の首筋に注がれている。
「また、あの髪型が見たいな」
頭上で囁かれた低く掠れた声に、私の心がビクリと跳ねる。
「えと、……ポニーテールのこと?」
「そう。似合ってるし、可愛かった。何より、俺のために変えてくれるのが嬉しかったんだ」
──そんなことを、そんなにも嬉しそうに言われたら。
私が、首を横に振ることなんてできるはずがない。
あの日、地下のフードショーの化粧室で必死に髪型を変えた自分の姿が浮かぶ。
一緒にカゴいっぱいの野菜を買い、笑い合ったあの日から今日まで。積み重ねてきた景色のすべてが、この熱い夜に繋がっている。
ああ、私の献身は、無駄ではなかったのね。
「わかったわ。明日も……明後日も、するね」
鏡の中の彼に向かって、誓うようににっこりと微笑む。
すると、彼はたまらないといった様子で、すっかり乾ききった私の髪に、そっと顔を寄せた。
首筋に伝わってくる彼の温もり。
柔らかな髪をくすぐる熱い吐息が、逆に切なくて。
だって、あれほど騒がしかったドライヤーの音が止まったことは、この魔法が解ける合図のように思えたから。
私は彼に顔を寄せられたまま、この時間が永遠に終わってほしくないと、子供のように心で泣いていた。
「楽しみにしてる。……さあ、あともう少し。最後までやらせてくれな」
ドライヤーが片付けられ、救いのように始まったのは。
ブラシが私の髪をなぞる、繊細で優しい感触だった。
シュッ、シュッ、と規則正しい音だけが響く中を、鏡の中の彼は、ずっと胸に秘めていた想いに触れるように、静かに口を開いた。
そして、心から私を驚かせる。
「……葵さんはさ。君は今まで、男性と付き合ったことはあるのか?」
あまりの落差に、眩暈がした。
蕩けるような甘い夢の中にいたのに、いきなり心の最奥へ突き落とされたような衝撃が私を襲う。
心臓は、跳ねるどころか一瞬だけその拍動を止めた気さえする。
あまりにも不意打ちで。けれど、今の男性の顔をした彼ならば聞いてきても不思議ではない、最も秘められたクエスチョン。
「ど、どうして……そんなことを聞くの?」
上擦った声で問い返すのが精一杯だった。
「知りたいからだよ。……だめか? 教えたくなかったら、いいよ」
「う……」
そう言って少しだけ眉を下げる蒼くん。
ありもしない未来を夢見ながら、それでも彼への想いを捨てきれない私が、心の奥底でずっと知りたかったこと。
私は火照る頬を隠すように俯きながら、それを条件として晒した。
「そ、蒼くんが先に教えてくれたら……。そうしたら、教えてあげる」
「俺か? ははは。俺は恥ずかしながら、女性と付き合ったことなんて一度も無いんだ。……格好悪いだろ?」
少しだけ自嘲気味に、けれどどこか清々しく彼は笑うの。
隠し事なんてこれっぽっちも持たない、あの頃のような澄んだ瞳で。
その言葉に、私は浮かれたように顔を上げる。上げてしまう。
「ほんとに?」
「ほんとに? じゃなくて葵さん。次は君の番だよ」
ブラシを置いた彼の手が、私の肩にそっと添えられる。
逃がさない、と宣告するような確かな温もり。自分の中に鳴り響く鼓動の音に耐えかねて、ようやく、小さな真実を絞り出した。
「わ、わたしも……無いの。今まで、誰とも」
今明かされる、私の初めて。
この羞恥の箱に相応しい、けれどこれ以上ないほど純粋な誠を、私は震える声で差し出した。
その瞬間、鏡の中の世界が止まったような気がした。
言葉のない時間だけが、そっと伸びていく。けれどね、その音の無い世界は少しも苦しくなくて。
真っ白な喜びに満たされた、祝福の箱みたいだった。
私も、あなたも無垢のまま。
──あの、懐かしい坂道の頃のまま。




