第105話 フルボディの魔力
中間考査、前夜。
不自由な俺の身体を気遣ってくれた、このひと月半。
洗髪から着替えまでを甲斐甲斐しく手伝ってくれた葵さんは、テスト前日であってもやっぱり、いつも通りに穏やかで。
今は俺と入れ替わりで浴室へと入り。
扉の向こうから微かな水の音を、後ろ髪惹かれるリズムで響かせている。
ここに来たばかりの頃から、終わりが近づいている今まで。
君の優しさは、少しも色褪せることがない。
むしろ底知れず深まって、俺はその中にどっぷり浸っていた。
「……ふぅ。少し、喉が渇いたな」
一人残されたリビング。風呂上がりの火照った体を冷ますため、俺はキッチンへと足を向けた。
冷蔵庫の扉を開けると、ドアポケットの奥に、深い紫色の液体が入ったボトルがあって。自然と、そこへ手が伸びる。
グレープジュースか。
この手の色が濃いタイプは、大抵の場合、果実の旨みが濃厚で美味いものが多い。疲れた脳にとって、最高の糖分補給になるはずだった。
特に疑いもせず、俺はコップにそれを並々と注ぎ、渇きに任せて一気に煽った。
「なんだこれ、にっが……!? 葵さんには悪いけど、飲めたもんじゃないぞ」
期待していた濃厚な甘みは、どこにもない。
何が糖分補給だ。
それどころか、舌の上に重くまとわりつくような渋みと、鼻に抜ける独特の香り。喉を焼くような不快な風味が合わさって、後味としてしつこく残る。
まさか、賞味期限切れか?
いや、彼女に限ってそれはない。きっと流行りのスーパーフードか、何かの健康食品の類なのだろう。
俺は顔を顰めながら、口直しに冷たいお茶を流し込んでリビングへと戻った。
ふう、勉強の続きでもするか。
正直に言えば、高校に入ってからこれほど真面目にテストに取り組んだのは、今回が初めてだ。
もともと要領は悪くないし、成績も常に上位をキープしてはいた。
でも、そこまでだった。
ここまで必死に机にかじりつくようになったのは、間違いなく彼女──葵さんと暮らすようになってからの影響が大きい。
彼女に追いつきたいとか、そんな青臭い理由以前の問題として。
連続学年首位の記録は、伊達ではなかったのだ。
あんなもの、決して運や才能だけで掴み続けられるものではない。
彼女は勉強も家のことも、その美貌の維持でさえ。ああ、それからモデルとしての仕事も。彼女はその全てに対して、何一つとして手を抜かない。
そのひたむきな背中を間近で見ているうちに、そう。中途半端に流して生きてきた自分が、どうしようもなく情けなく思えてしまったのだ。
「あれ? 気のせいか?」
ふと、視界が歪んだような気がした。
ペンを握る右手に、わずかな違和感が走る。
どうにも集中できない。妙に頭がふわふわと浮き上がるようで、思考がまとまらないのだ。
風呂上がりの逆上せにしては、今更すぎる。
ほどなくして、胃のあたりから正体不明の熱い何かが、せり上がってくるのを感じた。その熱は血管を伝って全身へと瞬く間に広がり、俺の鼓動を、暴力的な速さで打ち鳴らしていく。
*
お風呂から上がり、私は軽くタオルを頭に巻いたままリビングへと戻った。
ふぅ、と小さく吐息を零す。蒼くんと同じ屋根の下で過ごす日々の、特にこの落ち着いた夜のひと時は、私にとって何よりの幸せのひと時。
この安らぎがいつまでも続いて欲しいと、そう願わずにはいられないほどに。
席に着くと。私を待っていてくれたかのように、蒼くんが冷蔵庫から冷たいお茶を汲んで持ってきてくれたのが、たまらなく嬉しかった。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
コップを受け取ったのはいいけれど、喉を潤す余裕なんてなかった。
私の大好きな彼は、そのまま対面に腰を下ろすと、私を逃がさないと言わんばかりに目を離してくれないから。
最近は、以前のように目が合っても照れて逸らすことがなくなったけれど。
それにしても、今夜の彼は、あまりにも堂々とし過ぎている。
柔らかく微笑んでくれているはずなのに。
その瞳の奧にある熱量は驚くほど真っ直ぐで。だから少し恥ずかしかった。
一点の曇りもなく私だけを捉えて離さないそのストレートな視線に、私はどうしようもなく落ち着かなくなってしまう。
「そ、蒼くん? あまり見られたら、お茶が飲めないわ」
困ったように私が零すと、彼はふっと、どこか余裕を感じさせる笑みを浮かべた。
なんだろう。
いつか、あのパフェを贈ってくれた時の彼にどこか似ていて。
「ごめんごめん。あまり見ないようにするから、ゆっくり飲むといいよ」
そう言って、彼はわずかに顔の向きを外してくれたけれど。……それでも、彼から放たれる熱っぽい空気はちっとも和らぐことはない。
……どうしたのかしら、本当に。
私は逃げるようにコップを口に運んだ。
ゴクリ、と自分でも驚くほど大きく喉が鳴って、静まり返ったリビング、その瑞々しい音さえもすべて彼に聞かれているような気がして、いたたまれなくなる。
ようやくコップのお茶が半分ほどになった頃、それをテーブルに置いた。
わずかに鳴った硬い音。それが、彼にとっての合図だったみたい。
「落ち着いたかな?」
「え、ええ……ありがとう」
彼は少しだけ身を乗り出すと、蕩けたような瞳で私を覗き込んだ。
……ああ。そんな真っ直ぐな目で、私を追ってくれるようになる日が来るだなんて。こみ上げてくる甘い充足感で、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
彼の全てが愛おしいと思えるほどの多幸感が、私を包んでいた。
「……そういえばいつだったかな、君からこんなメッセージを貰ったんだけど」
「どれのこと……?」
「私に命令できるのは蒼くんだけ──これは、確かなのかな?」
心臓が、今日一番の跳ね方をした。
あのラーニングコモンズでの勉強会で、確かに私が送ったメッセージ。それを今、こんなにも甘く、逃げ場を塞ぐような声で持ち出してくるなんて……反則よ。
「え、ええ。……そうよ。それは本当。そのつもりで送ったもの」
「へえ、じゃあ何か命令してみようかな。何でもいいのかな?」
「えっと、その……あの。エッチなのは、ダメよ。それ以外なら……」
「どうして、ダメなのかな?」
間髪入れずに返ってきた問いに、言葉が詰まる。
「そ、それは……ほら、吉岡先生と約束したからよ」
精一杯の抵抗のつもりだった。
けれど、今の蒼くんはそんな私の牽制さえも楽しんでいるように見える。どうしよう。どうすれば、この熱さから逃げられるの?
「ん。……でも、それは本当はおかしいことだと思わないか? 好きな人を前にして、そういうことをしたくなるのは……当たり前のことだろう?」
「そ、それはそうだけど……っ」
低く甘い声が、私の理性を痺れさせる。
大好きな声に情緒をかき乱され、思考がほどけていく。
だって本当は、いつだってあなたになら──そんな想いで、私はずっと身を焦がしてきたのだから。
それなのに、いつもは「仕方ないな」と引いてくれるはずの彼が、今夜は違う。剥き出しの本気で、私に迫ってくるのはどうして。
「なのに、君はダメって言うのか?」
「あう……」
「どう、なんだい?」
「蒼くんは、その……」
「ん?」
「私のことが、好きなの?」
「ああ、好きだよ」
迷いのない一撃。
私は──。心の中で、堰を切ったように泣いた。
ずっと、ずっと欲しかった言葉。
いちばん聞きたかった声で告げられて、私の心は歓喜に震え、同時に、彼を拒むためのすべての理由が瓦解していくのを感じていた。
「そ、蒼くんが、どうしてもしたいって、言うなら……い、いいわよ……っ」
私はもう、真っ赤に染まった顔を隠すことも忘れ、消え入りそうな声で応じた。
彼に本心から求められてしまったら。その瞳と声で射抜かれてしまったら、私はきっと、どんなことだって拒めない。
そんなの、最初からわかっていたこと。
ただ──それが、今日だった。それだけのはずなのに。
……本当に、今日でいいの?




