第104話 さよならまでの12日
季節は、容赦なくその歩みを進めていく。
カレンダーの数字は、中間テストに一週間を切ったところまで迫っていた。
本来なら皆と机を並べ、シャーペンを走らせているはずの時間。だというのに俺は、白くて味気ない病院の待合室で一人、名前を呼ばれるのを待っていた。
「順調だね。骨も綺麗にくっついてきているよ」
診察室。レントゲン写真を蛍光に透かし、医師が満足そうに頷く。
「うん。この様子なら、来週の火曜日にギプスを外してもいいと思うが、どうかな?」
「来週の……火曜、ですか」
喉の奥が、ぎゅっとせり上がるような感覚。
「何か、都合が悪かったりするかい?」
「ええ、ちょうど中間テストなんです」
「ふむ、それは休む訳にはいかないな。じゃあ、少しずらして木曜日はどう?」
「……はい。それで、お願いします」
「そうか、じゃあそういうことで。時間は今日と同じ枠で予約を入れておくよ」
「わかりました。ありがとうございます」
「では失礼します」
「お大事に」
予約票を受け取り、診察室を出る。
本来なら手放しで喜ぶべき報告なのに、俺の気分はどこか、どんよりとした雨雲に覆われたままだった。
よりにもよってこの腕は、順調らしい。
……もっと、無茶をすればよかったのか。重い荷物を持ち、無理を重ねて、この不自由な日々を少しでも長引かせたかった。
そう思わずにはいられない自分がいる。
この白い塊が解かれ、捨てられてしまえば、彼女と俺が共に暮らす正当な理由も一緒に消えてしまう。そんな予感が胸の奥を痛く疼かせ、俺は医師の言葉を素直に受け入れることができなかった。
火曜の午後でも本当は構わなかったのに。
テストを言い訳にして、この暮らしを少しでも先延ばしにした……そんな浅ましい自分に、苦い溜息がこぼれる。
病院の廊下を歩きながら、ふと今朝の玄関先を思い出して口元が緩む。
本当なら、今ごろ隣には彼女がいるはずだったのだ。
『私も行くわ。絶対に付いていくから』
『うーん、それは』
『行くったら、行くの!』
『……ダメだって。俺の通院に付き添って葵さんが遅刻なんてしたら、それこそ目立ちすぎるだろ?』
『それは、そうだけど』
『先生にだって、バレバレじゃないか』
『むう、蒼くんのいじわる……』
いじわるで言ってるわけじゃないのに。……参ったなぁ。
そう思いながら病院を歩く俺の顔は、きっとだらしなく緩んでいるんだろう。
そう、それは今朝の玄関先でのこと。
彼女は珍しく子供のように駄々をこねに、こねまくっていた。
外では凛と咲き誇り、誰も寄せ付けない高嶺の花。
いや、その呼び方はもうやめるか。今の俺には相応しくない気がする。
眉をハの字に下げて、俺のシャツの袖をぎゅっと掴んで離さない彼女は。
ただ、人より綺麗なだけの女の子だ。
すぐ潤む瞳と、強く握りしめる指先。心苦しいほどに、どうしようもなく可愛らしかったあの姿を、俺はもう知ってしまった。
だから、俺だけの『漆黒の一輪花』さん。
そう呼び替えた瞬間、胸の奥にある寂寥が、より一層深い執着へと変わっていくのを感じた。
結局、俺が必死に説得して彼女を一人で登校させたわけなんだけど、ああ、なんて説明しようか。
彼女がこれを聞いて沈むのかと思うと、どうにも憂鬱でやるせない。
病院を出て、初夏の陽気が滲み始めた道を君がいる学校へと向かう。
校舎に着く頃には、すでに二限目の授業が始まっていた。静まり返った廊下に響くのは自分の足音だけ。
二組の教室の前まで来ると、俺は一度呼吸を整え、前の扉を静かに引く。
「失礼します。病院で遅れました」
「ああ、水無月か。連絡は聞いている、座りなさい」
教壇に立つ教師に会釈し、出席簿にチェックを入れる様子を確認してから、自分の席へと歩き出す。
クラスメイトたちの視線が一斉に突き刺さる。
その好奇の目をかき分けるように進み、窓際の席の一番後ろ。
俺の席に机を並べて座る、君の姿だけを見つめる。
「…………」
九条さんは、開いていた教科書から顔を上げ、俺が席に着くまでの間、ずっとその瞳で俺を追っている。
その表情は、いつもの冷徹な学校での君ではない。
眉を微かに潜め、俺の腕の具合を確かめるように、そして何より「どうだった? 何か悪いことは言われてない?」と問いかけるような、隠しきれない心配がその瞳に満ちている。
「順調だってさ」
自分の席に座る直前、彼女にだけ聞こえるように小さく囁いてみせた。これが並んだ二人の特権。
席替えまでの、時限付きの幸福。
最近はこんなの、ばかりだ。
本当はちっとも順調じゃない。
叫んで喚いて、君との暮らしを続けることができるなら、迷わずそうするさ。
でも。……そう言うしか、ないだろ。
ほんの一瞬、彼女の肩の力が抜ける。
けれど、すぐにまた元の完璧な美少女の顔に戻り、彼女は視線を教科書へと落とした。
その横顔を見ながら、俺は不自由な手でノートを取り出す。
両腕の重みも、胸の縛りも、あと少しで消える。
そしてそれは、彼女の手を借りる口実が消えることと同じ意味を持っていた。
放課後の進路指導室。
夕日に染まる室内で、俺たち二人は吉岡先生と向かい合っていた。
重苦しい沈黙が流れる中、先生が俺の診断書に目を落とす。
「そう……。来週の木曜日に、ギプスが外れるのね」
「はい。そうです」
もう一度、沈黙が落ちる。
この白い塊が取れる日は、突如始まった二人の秘密で甘い同居生活の終わりであることを、この場にいる全員が痛いほど理解していた。
「ギプスが外れてすぐは、まだ思うように腕が動かないこともあるわね……」
吉岡先生の声が、少しだけ柔らかくなる。
「九条さん。……日曜の朝まで、水無月くんのこと、頼んでいい?」
「え……? 先生、いいんですか?」
九条さんが驚いた様子で顔を上げた。その表情には、絶望の底で一筋の光を見出したような、切実な期待が滲んでいる。
「いいも悪いも無いわ。ギプスが外れてすぐは生活に支障があるかもしれない。だから私が、貴女に日曜まで許可を出した。そうしましょう」
先生の淡々とした、けれど温かい追認。
「二人にそんな顔をされちゃあね。……でも、さすがにそれが限界よ。金曜から、土曜のホームルームデイ終了まで。そこから日曜の朝まで、ということで約束してくれる?」
「「……はい! ありがとうございます!」」
二人の声が、今日一番の明るさで響く。
火曜から木曜へ。それが俺が稼いだ二日間。
そして木曜から日曜。
それは吉岡先生がくれた、最後の猶予期間。
帰り道、並んで歩く俺たちの影は、この前よりも少しだけ長く、そして離れがたく伸びていた。




