第103話 Reservation ─予約─
駅のコンコース、帰宅を急ぐ人波の中で水無月 蒼は足を止めた。
駅ビルの、やけに青白く無機な光が、気まずそうに顔を伏せる小園 健太と、神妙な面持ちの高階 萌の二人を静かに照らし出している。
その白すぎる光は。
見る者によってそれぞれ違った趣で、四人の心に深く突き刺さっていた。
「好き」という甘い余韻と、同時に放たれた「恋人にはなれない」という一線。その矛盾に翻弄される少年の彷徨いを、光はただ青白く照らし出す。
彼女の口にした事情は真実か、あるいは、かつて聞いた先生の言葉を覆い隠すための、残酷なまでに美しいカモフラージュなのか。
自らの失言に打ちひしがれる健太には、無思慮を暴く刃のように冷たく。
秘密を共有した萌には、華やかな世界の裏にある孤独を明かすスポットライトのように。
そして、勇気を持って自らの想いを衆目の下に晒した葵には。
決してただの少女としては歩ませてくれない世界の冷たさを象徴する、凍てついた冬の光のように。
「じゃあな、二人とも、俺達はこっちだから」
「……ああ。また明日、学校でな」
「またね、二人とも」
蒼の言葉に連なり、葵は小さく丁寧にお辞儀をした。
人混みの中へ寄り添うように消えていく二人の後ろ姿は、仲睦まじいのに、今にも壊れそうなほど寂しげに映っただろう。
二人の背中が、違う路線へ向かう階段で完全に見えなくなるまで見送った後、健太は肺の底から深い、深い溜息を吐き出した。
「……しまったな。余計なこと、言わなきゃよかったよ」
「ホントよ。アンタ本当にバカなんだから。……でも、まさかあの九条さんが、水無月くんをあんなに本気で好きだなんてね」
「嘘みたいな話だよな」
「アンタ、それ失礼よ」
「そ、そうか……」
萌の声にも、いつもの溌剌とした鋭さはない。
健太は頭を抱える。
自分が無思慮に投げた爆弾の破壊力が、大切な友人ふたりの未来を根底から揺さぶりかねないものだったのだと、ようやくその身で自覚したらしい。
「さっきのって、……事務所にバレたらただじゃ済まないって、そういう意味だよな?」
「うーん、それもあるだろうけど。イメージを損ねたら契約違反の違約金とか、訴えられるかもって話、最近よく聞くじゃない? 芸能人のスキャンダルとかでさ」
「あー、たしかに。聞いたことあるわ」
「……九条さん、最近人気が出てきてるそうだから。自ずと、彼女が背負ってるリスクも大きくなってるのかもね、周りの大人も期待するだろうし」
健太は、二人が消えていった階段の先を、もう一度だけ見やった。
「なんか、大変だな。ちっとも羨ましくなくなってきたわ」
「どういう意味よ」
「ああ、モデルで人気があるってことが、さ。……あんなに誰かを真っ直ぐに好きでも、必死に隠さなきゃいけないなんてさ。自由がねーよ」
「……確かにね。私たち、まだ高校生なのに」
「よし。改めて誓うわ。俺、絶対に誰にも言わねえ。高階さんも、これだけは絶対に言うなよ」
「当然じゃない。言えるわけないわよ、こんなの。……あんな九条さんの顔、見せられた後にさ」
「じゃあね、私はこっちだから」
「ああ、またな」
萌は、最後に見た苦悩する少女の瞳を思い出し、複雑な感情を胸に秘めて改札へと消えていった。
彼女にもまた、彼女にしか分からない。
密かに灯る、心の炎があったのかもしれない。
一方、喧騒から離れた夜道でのこと。
街灯がまばらな住宅街を、俺と九条さんは一定の距離を保って歩いていた。
さっきまでの渋谷の騒々しさが嘘のように、夜風は少しだけ冷たい。
アスファルトに規則正しく刻まれる二人の足音だけが、今の俺たちの対話みたいに、静かな道に鳴る。
俺は、ファミレスで彼女が口にした告白を──
そして、その直後に放たれた言葉をどう咀嚼すべきか、まだ答えを出せずにいた。
私は、水無月 蒼くんのことが好き。でも……。
あんなにも真っ直ぐな言葉を、あんな形で。
第三者を介して知ることになってしまった切なさが、胸の奥をチリリと焼く。
本当なら、二人きりの静かな場所で、彼女の体温を感じながら聞きたかった。
俺こそ、先にそう伝えたかったんだという傲慢な後悔が、喜びと同じだけの質量を持って、心の中に重く居座っている。
けど、それ以上に俺の思考を縛り付けるのは、彼女が好きという言葉の最後に添えた、あの残酷な一節。
『──恋人にはなれない、深い事情がある』
君の職業がそう言わせるのか。
それとも、先生との約束か。あるいは、君の背負う九条という生まれそのものか。
答えは夜の闇に溶けて見えないけれど。
それでも、俺はもう逃げないと決めたんだ。
どんな絶望がその先に待っていようと、この胸に灯った想いを止めることなんて、もうできはしない。
だから今はただ、彼女が引いた境界線ごと、この道を突き進む。
ふと、隣を歩く君が足を止めた。
「……?」
振り返れば、まばらな街灯に照らされて。
アスファルトに長く伸びた俺の影の、そのすぐ後ろに、彼女は立ち尽くしていた。
俺と視線を合わせようとはせず、ただじっと、暗い地面を見つめたまま。
「九条さん?」
俺が呼んだ、その時だった。
「……えいっ」
彼女はぴょんと跳ね、俺の影の頭を両足でぎゅっと踏んだ。
「蒼くん、捕まーえた」
顔を上げた彼女は、いたずらが成功した子供のように少しだけ口角を上げて。けれど、その瞳は夜の闇を反射して、今にも零れ落ちそうなほどに潤んでいる。
「あ、葵さん、まだ家に着いてないのに」
「ふふ。……覚えていてね。今日言ったことは、全て本当なの。でも、いつか」
俺の影を踏みしめたまま、彼女は祈るように両手を胸の前で重ねた。
「私が願ったその時は……蒼くんが、私の鬼になって?」
「……君を、捕まえればいいのか?」
「うん。逃げても、隠れても。……必ず見つけ出して」
「……わかったよ。約束だ」
住宅街の片隅。
頼りない街灯の薄ぼけた光だけが、彼女の潤んだ瞳に小さな星を灯している。
いつか。私が願った時は……か。
いつも未来を語る時の君は、泣き出しそうなほど辛そうで。
踏みつけられた俺の影。
そこに滲んだ、言葉にならない彼女の悲鳴を、俺は拾い上げる。君が心の底からそれを願った時、俺は君を捕まえればいいんだな?
わかったよ。
必ず、俺が──お前を捕まえてやる。
誰もいない夜の路地。遠くで響く車の走行音だけが、ここが現実の世界であることを辛うじて教えてくれる。
──愛し合えない俺たちに、許された場所はどこだろうか。
あまりにも綺麗な君を、上から下まで、眺めて探した。
そして俺は、自分より少しだけ背の低い君との距離を詰め、その場所を選んだよ。そっと彼女の髪をかき分け、熱を持ったおでこに唇を落とす。
「……そ、そうくん」
突然の温度に、彼女の肩が小さく跳ねる。
俺は顔を離すと、街灯の下、呆然と俺を見上げる少女の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「その下もいつか、俺が貰うからな。……大切にとっとけよ」
今はまだ、この境界線を越えることは許されないのかもしれない。
けれど、これは「いつか」のための予約だ。お前を縛る、世界で一番甘く締め上げる契約になればいい。
たまには、俺だっていいだろ。
「いつか、もらってくれるの?」
「ああ、もちろん」
「じゃあ……大切に、とっておくね」
君は、おでこを両手で大切そうに押さえながら、消え入りそうな声で、何度も、何度も頷いた。
まるで自分自身に言い聞かせるように。
夜の残光の中、俺たちは再び歩き出す。
繋ぐことのできない手は、それでもお互いの熱を求め合うように、わずかに触れ合いそうな距離で揺れ続けていた。




