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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第四章 誰よりも短い至上なら、せめて誰よりも濃密に

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第100話 ラーニングコモンズ

 一区切りついたところで、少しの提案をしてみる。

「……吉岡先生に、改めて個別で指導をお願いしてみるのもいいかもな、健太」

「そうね。あの先生なら、頼めばきっと親身になってくれると思うわ」


 九条さんも同意する。真摯に、素直に頼りさえすれば。

 あの先生ならきっとなんとかしてくれる──そんな無意識の信頼が、俺たちの間には共通認識として滲んでいた。

 だが、健太は食い気味に、悲痛なまでの声を上げる。

 しかもそれは、明確なる拒否の色を帯びて。

 

「悪いが、それだけは絶対に無理だ!」

「……ん、なぜだ?」

「吉岡先生にだけは、幻滅されたくねえ! 『小園って意外と馬鹿なんだな』なんて思われたくねえんだよ!」


 呆れを通り越して言葉を失う俺たちの背後から、容赦のない現実が飛んできた。

 それも、ある意味では最高のタイミングで。


「はぁ。あんたがバカなことくらい、とっくにバレてるに決まってるでしょ」

 振り返ると、ラーニングコモンズの入り口に、いつの間にか腕を組んで佇む高階さんの姿があった。


「た……高階さん、いつからそこに! しかも、今サラッとバカって言ったな!?」

「だってそうでしょ。担任である吉岡先生が気づかないわけないじゃない。ホント、バカなんだから」

「おま、また言ったな! 二回目はわざとだろ!」

「お前って言うな!」


 また始まった……。

 健太の情けない抗議を、高階さんが鮮やかに切り捨てる。その半分息の合ったやり取り(?)を眺めながら、俺は思わずため息をこぼしてしまう。


「やれやれ、仲がいいのか悪いのか」

 俺の呆れ混じりの呟きに、高階さんが即座に反応する。

「ちょっと、やめてよ水無月くん。仕方なくよ、仕方なく仲良くしてあげてるんだから、コイツとは」


 彼女は心底心外だというふうに肩をすくめて見せた。

 けれど、そう言いながらも健太との距離を詰め、そのノートを覗き込む様子に、不思議と険悪な空気はないから。やっぱり苦笑うしかない。


「誰が仕方なしだ! ……まあ、高階さんも教えてくれるなら助かるけどさ……」

「え? 私? うーん、そうしてあげたいのはやまやまだけど、私もそんな成績が良い方じゃないのよねえ。中の上くらいだもん」


 さらっと自分の立ち位置を明かし、高階さんは九条さんの方を向いて、どこか人懐っこい笑みを浮かべる。

「だから、勉強会誘ってくれてありがとう、九条さん。そういう訳だから助かる~」

「ふふ、折角だから皆でした方がいいかなと思って……ね、水無月くん?」


「ああ。どうせなら、四人で次も同じクラスがいいしな」

 

 俺の言葉に、その場の空気がわずかに引き締まった。

 ここ聖諒学院は、三年次に進む際、志望大学や文理選択によってクラスが編成される。

 選ぶ未来が違えば、どんなに仲が良くても教室は分かたれる。

 ──それは、彼女とさえだ。

 今の当たり前のようなこの四人の時間を来年も維持するためには、全員が同じ高みを目指し、足並みを揃えなければならない。


「水無月くん……。サラッとキツイこと言うね」

 高階さんが苦笑いしながらも、その瞳には『皆と同じ方向を向いてみたい』という微かな望みが垣間見える。


「高階さんはまだいいよ。可能性あるじゃん。俺なんか相当頑張らないとキツイぜ。二人はあれだろ? やっぱ特進クラスだよな」

「まだ、何も決めてないけどな」

「ええ」 

「それでも、俺だけ別のクラスとかマジで辛すぎるわ。蒼、九条さん。改めてお願いしまっす! 俺を、置いていかないでくれ!」

 

 健太の必死さに、高階さんが表情を引き締めた。

 窓の外に広がる、伝統ある聖諒学院の校舎を見やる。

「……そうね。ここ、聖諒だもんね」


 呟くような、けれど確かな決意を帯びた声。

「決めた! 私もお願い。ちょっと、本気で頑張ってみるわ。立ち止まってたら、あっという間に振り落とされちゃう場所だもん」


 彼女の潔い宣言に、ラーニングコモンズの空気が一気に熱を帯びる。

 九条さんは、そんな二人を眩しそうに見つめてから、俺の方を見て優しく微笑む。だから俺は二人に、少しだけ不敵な笑みを返してみせた。

 

「まかせろ、付いてくる限り、俺たちが引っ張り上げてやるよ」

「おおう、水無月くん恰好いい~」

「おいおい、高階さんにまで粉かけるなよ、蒼」

「……そんなんじゃない。茶化すなよ」

 俺の、ほんの少しだけ狼狽した否定を、高階さんが悪戯っぽく拾い上げる。


「付いていくから、どこまでも連れて行ってね」

「あ、ああ」

「ふふ、みな頑張ってね。私も出来るだけ応援するわ」

 賑やかな笑い声が円卓に広がり、さっきまでの分かたれる予感という冷たい影を、一瞬で溶かしていく。


 九条さんはそんな俺たちの様子を、本当に愛おしそうに眺めていた。彼女はペンをトレイに置くと、バトンを渡すように俺を促す。


「じゃあ、高階さんもやる気になったみたいだし……次は水無月くん。数学を教えてあげて?」

「え、俺? ……いいけど。この手だからさ、書く方はちょっと厳しいかな」


 俺はギプスで固まった腕を机に置き、自嘲気味に笑った。

 それを見た九条さんは、

「ごめんなさい……つい」

 と、申し訳なさそうに眉を寄せる。

 無意識に自分を頼ってくれた彼女の、その無垢の信頼を汲み取りながら、俺は言葉を重ねた。


「いやいや、……そういう訳だから、分からないところがあったら遠慮なく聞いてくれ、二人とも。口ならいくらでも動くからな」


 俺の言葉に、健太が「さすが蒼、頼りになるぜ!」と親指を立てる。

 そんな中、一瞬の隙を逃さず、高階さんが軽やかに椅子を引き寄せた。

「じゃあ、教えてくれる人の隣に座るのが良さそうね。アンタの隣はバカが移りそうだからパスっと」

 

「なあ、おかしくねえか? お前はダメで、アンタやバカはいいのかよ」

「そういう、細かいところがモテないのよねえ」

 

「ぐっ、くそっ」

 高階さんの鮮やかなカウンターに、健太が沈没する。

 それを見て、九条さんは声を弾ませて笑った。高階さんはそのまま俺の左側へ、するするっと身を寄せてくる。

 ふわりと漂う、九条さんとは違う爽やかな香り。


 その距離感に、俺は少しだけ背筋をこわばらせつつも、努めて冷静に問いかけた。

 

「よし、じゃあ始めるぞ。高階さんは、今の範囲のどこが苦手なんだ?」

「えっと……微積もそうだけど、三角関数がとにかく苦手で。単位円とか出てくると、もうパニックになっちゃう」


「なるほどな。じゃあ、まずはこの基本問題を解いてみて」

「うん、わかった」

 高階さんがノートに向き合う。

 俺は添え木で固定している左手の中から、人差し指を伸ばして、問題文の重要そうな数値をトントンと示した。ギプスで書けない分、言葉の解像度を上げて丁寧に筋道を立てていく。


「三平方の定理は覚えてるか? ほら、ここを見て。結局、三角関数もこの直角三角形の比の話なんだ」

 指先が、図形の上をゆっくりとなぞる。

 その動きを、高階さんは食い入るように見つめていた。納得したような、してないような……そんな絶妙に眉を寄せた表情で。


「……つまり、こういうこと?」

「そうそう、その調子。そのまま解いてごらん」


 一度で理解するのは難しい。

 だからこそ、粘り強く言葉を尽くしていく。高階さんもそれに応えるように、何度も書き直しては、公式を自分のものにしようと格闘していた。

 やがて、ノートの上に導き出された正解を見て、俺は思わず口角を上げた。

 

「なんだ。思ってたよりずっと出来てるじゃないか。教えがいもあるし、これなら本当に同じクラスを目指せると思う」

「そうかな? ……えへへ、ありがとう」


 高階さんは顔を上げ、微かに上気した頬を緩めた。

 それは、普段の彼女が見せる友達という関係の、そのほんの少しだけ先にある表情で。無防備に見せられたその奥に、俺は不意を突かれて狼狽える。

 

「あ、ああ。……その調子で次もやってみよう」

「はーい、水無月先生!」


 弾むような声で呼ばれて、俺は逃げるように視線を次の問題へと落とした。

 ──だが。

 その隣では、もう一つの戦いが、なおも熾烈を極めていた。

 そちらの苦労と切実さは、俺の甘い戸惑いなど、到底比ではない。


「小園くん。貴方は、そっちの問題はもう終わったの?」

「い、いや、 今まさに、その……関数の迷宮に迷い込んでいたところで」

「数学はどうしても、数をこなして慣れていくことも大事だから。……止まっている暇はないわよ?」

「う、うん……。頑張る、頑張るから」

 

「小園くん。……そこ、さっきも間違えたところよね?」


 九条さんが、健太の隣へと椅子を寄せた。

 普段なら、憧れの女神の超接近に狂喜乱舞するはずの健太が、目の前の数式の洪水とプレッシャーに溺れ、白目を剥きそうになりながらも必死に食らいついている。

 憧れの距離は、いまや残酷なまでの……圧か。

 頑張れよ健太、お前なら超えられる。俺は信じてるぞ。


「ここは、さっき教えた因数分解の形に持ち込めば簡単よ。ほら、やってみて」

「う、うっす……!」


 静かなラーニングコモンズに、カツカツとペンが走る音だけが響き。

 そこへ時折、俺たちの解説の声が混ざりながら、少しずつ白紙のページが文字で埋まっていく。


 ──そうして、さらに小一時間ほどが過ぎた頃。


「……よし。今日はここまでにしようか。だいぶ進んだぞ」

 俺の言葉に、高階さんが「ぷはぁーっ!」と大きく息を吐いて背伸びをした。しなやかな身体のラインが、夕焼けに溶けかかった室内で露わになる。


「つ、疲れたぁ……! 脳みそが糖分を欲してるのがわかる~」

「俺なんか、もう文字が全部虫に見えてきたぜ……。九条さん、ありがとう」


 健太は机に突っ伏し、九条さんは「お疲れさま」と、いつもの穏やかな微笑みでペンを置いた。

 張り詰めていた集中が解け、空気がふわりと緩む。

 窓の外を見ると、いつの間にか陽が落ち始めていた。


「このまま四人でメシでも食いにいかね? ガッツリじゃなくてもいいしさ」

「いいね、それ。私も甘いの食べたーい」

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