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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第一章 始まりは突然に

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第10話 君を追いかけて

 もう戻るはずなどなかった、見慣れた病室の廊下。

 そのドアの前で、九条 葵は深く息を吸う。自分がかつて、叩きつけるように閉めたその扉の前で。

 

 一度目は、羞恥と怒りのあまり、感情的に逃げ出して。

 二度目は同級生や先生と共に、儀礼的に。穏やかに。

 そして、これからが三度目。

 ──大丈夫と、自分を奮い立たせるように。


 心の中で、必死に言い訳を組み立ててみる。

 そうでもしないと、今にも踵を返して逃げ出してしまいそうだったから。意を決して、今度こそ冷静に。でも、やはりためらうように、本当に静かに扉をスライドさせた。


「……水無月、くん。あの」


 望んだ返事はなかった。

 病室は、もぬけの殻だったのだ。

 整えられたベッドには誰もおらず。サイドテーブルの上には、変わらず可愛いクマーが、愛嬌一杯に微笑んでいるだけ。


 彼は一体、どこへ行ったの?

 ……お手洗い、よね。きっと、そう。

 彼女は、自分にそう言い聞かせるように、昨日と同じベッドサイドのパイプ椅子へと腰を下ろした。文庫本を開いてみても、その活字は意味を結ばず、ただ目の上を滑っていくだけ。

 文字が、全く頭に入ってこない時が続く。


 時計の秒針が、やけに大きく聞こえだす。

 五分、十分と針が進むほどに焦燥が、胸の内で小さな火種のように燻り始める。それがやがて、抑えきれない炎となって燃え盛った。

 長すぎる。やっぱり何かが、おかしい。

 

 私が彼の元を離れた、ほんの僅かな空白に、何か悪いことが起きてしまったのではないか。満足に動けないはずの彼の傍を、どうして離れてしまったのだろう。

 私が彼の元にいないといけないのは、まさにこういう時こそだったのに。

 

 後悔が激しく胸を抉った。彼女は、弾かれたように立ち上がる。

 足早に談話スペースへ。それから院内のコンビニを覗く。けれど、そこに彼の姿はなかった。見渡す限り、どこにも居ない。

 彼の温もりが残る、あの空っぽの病室以外、戻る場所もないままに。


 行く当てもなく、彼女の足は無意識に病院の正面玄関へと向かっていた。外へ? まさか、ね。でも、このままじっとしてはいられない。思考が焦げ付き、ただ突き動かされるように大きな自動ドアへと近づいた、その時だった。


 ウィーンと。

 外からの風と共に開いたドアの向こうに、人影が一つ。よれた患者衣のまま肩で大きく息をして、額に汗を滲ませた、彼──水無月 蒼が立っていた。


「水無月く……ん!?」

「え、九条、さん……!? どうして中に?」


 互いの名前を呼ぶ声が、驚きに上ずる。

 探し求めていたはずの彼が、どうしてここに。安堵よりも先に、混乱が彼女の思考を埋め尽くしていく。

「どこに、行っていたの!? 本当に心配、したんだから……!」

 思わず、詰問するような声が出た。

 心配で、不安で、どうにかなりそうだった心持ちが、そのまま棘のある言葉になって口から溢れ出てしまう。

 私はいつだってそう。

 どうして、素直に「心配した」と、可愛らしく言えないのだろう。そんな自分が、本当に嫌になる。器だけ整えられたモノ。それが、私、九条 葵。


 その痛切な自己認識が、彼女の瞳から一瞬、全ての輝きを奪う。

 俯き、ただ唇を噛む彼女の姿に、蒼は何かを察したのかもしれない。彼は、痛む体を庇うように押さえながら、途切れ途切れに、けれど必死に言葉を紡いでいく。


「ごめん……今度こそ君を、追いかけてみたんだけど……。でも、見つからなくて……ハハ、やっぱり主人公にはなれないや」


 そうして彼もまた、己を探していたと知る。

 その事実にたどり着いた時、彼女の強張っていた肩から、全ての錘が抜けた。

 なんのことはない。懸命に互いに伸ばした手が、虚しく空を切っていただけと知り、この十数分が何だか無性に愛おしくなってしまう。

 

 どうしようもないすれ違いが、今は嬉しい。

 それが、凍てついていた葵の心を、ゆっくりと解かしていく。

 その温もりは、言葉にするには、あまりにも尊すぎた。

 

 ◆ ◆  ◆

 

「……バカ」

 九条さんは、はっきりとそう呟いた。

 それは、鋭利なフリをしているだけの、ただの照れ隠し。棘などどこにもなくて、むしろ自分の耳には、どこか甘く響く有様だった。

 

「こんなところにいたら、風邪をひくわ。……戻りましょう、病室に」


 彼女は俺の返事を待たずに、そっと傍へと寄り添う。そして、鮮やかに身を翻した。

 腕を組むでもなく、手を引くでもない。

 華奢な肩が触れるか触れないか、そのギリギリの距離を保ったまま、彼女は俺の真横について歩き始めた。それが、今の俺たちが選べる、最大限の寄り添い方なのだと。

 言葉もなく伝わってくる。


 ふわりと舞う、彼女の髪から甘いシャンプーの香りがした。

 続ける言葉を失った二つの、ぎこちない足音だけが、静かな廊下に響いている。


 初めてだったんだ。こんなにも近くで、彼女と並んで歩くのは。

 その、あまりにも近すぎる距離が眩しい。

 視界の端に、彼女の柔らかな髪が揺れて、意識したくなくても、どうしても意識してしまう──制服の上からでも分かる、胸の柔らかな膨らみまでも。

 モデルとかは関係ない。

 こんな距離で、角度で、彼女を見たことがなかったから……つい。


 彼女といると、どうにも心臓の座りが悪い。

 落ち着かない鼓動を意識しつつ、宇宙の果てよりも遠い、この十数センチを俺は大事にしていきたいと切に思う。


 病室に戻って、ベッドに腰を下ろすのを見届けると、彼女は、どこか安心したように、ふう、と小さく息を吐いた。

 そうだった、今のうちに聞いておかねばならないことがある。


「九条さん。俺のスマホとか、財布とか、どこにあるか知らないかな? バイト先に連絡しないと、さすがにまずいんだけど」


 その言葉に、彼女の表情が一瞬だけ、痛ましげに曇るのを見逃さない。

「……ごめんなさい。あなたのスマートフォン、事故の衝撃で……。画面が割れて、今はもう電源も入らないって」

「そっか……」

 やっぱりか。薄々、そんな気はしてたんだよな。

 仕方がない、公衆電話を探すか? いや、そもそも電話番号を覚えていない。必要な情報の全てはあのスマートフォンの中にある。

 参ったな。

 店の名前を伝えて彼女に調べてもらうか……そんな長考の沼に沈みそうになっていると、彼女は自分のショルダーバッグから、小さな箱を取り出してみせた。

 

「その、連絡が取れないと、困るでしょう?」

 そう言って、真新しいスマートフォンの箱を差し出す九条さんがいる。

「それ、もしかして俺に?」

「うん」

「いや、流石にそれは悪いよ……」

「ううん、私が壊したようなものだから」

「いや、それでも流石に」

 

「安心して、両親に買ってもらったとかじゃないから。私がちゃんと仕事をして、そのお給料で買ったものよ」

「いや、そういう問題ではなくて……」


「持っててよ、おねがい」

 有無を言わさぬ、静かな圧力。俺は戸惑いながらも、その箱を受け取るしかない。

 そして、左手のまだ動く指を使って、なんとか蓋を開けてみるのだ。


 中に入っていたのは、最新機種のスマートフォン。

 その本体の色は、燃えるように鮮烈な赤ときた。何だかまるで、彼女の唇の色を飾る口紅のように鮮やかな色をしている。

 そこで、俺は気づいてしまうんだ……。

 その色が、彼女がいま手にしているスマートフォンと全く同じ色であることに。


 俺はあえて気づかないフリをして、電源ボタンを長押しする。

 途端に画面が、明るくなる。

 そして、そこに映し出されたのは……。


 にっこりと、底抜けに人の良さそうな笑顔で、こちらを見つめる黄色いクマー。ご丁寧に『おやすみクマー』の壁紙がインストールされていたよ。


 奴を見て、俺の思考は再び、完全に停止する羽目になる。

 九条さん、君は一体、何回俺の思考を停止させれば気が済むんだい!?

 

「設定とかよく分からなかったから……。とりあえず、私が一番好きな画像にしておいたわ」

 ハハ。俺の新しい地獄は、どうやらこの真紅の筐体の中で、これからも永遠に続いていくらしい。

「もしかして、嫌だった?」


「いやいや、一周回って、最近は可愛く見えるよ」

「そう? よかったぁ」

 満面の笑みで笑う、『元』高嶺の花子さんがいる。

 あんな笑顔を見たら、クマーを受け入れるしかないじゃないか。もう。

 ホント、参ったなあ……。

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