第1話 その花は葵、俺の名前は蒼
九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~
第一章、始まりは突然に
まどろむような、春の陽気に包まれた授業。
やる気があるのか、無いのか。年嵩の古典教師が放つ抑揚のない声が、教室の空気を静かに揺らしている。
水無月 蒼は、沈みかけては浮かび上がる意識を、必死にノートの文字に繋ぎとめていた。
「──では、この和歌における掛詞について、説明できる者はいるか」
教師の言葉に、教室の空気が僅かに緊張を帯びる。誰もが目を伏せ、泳がせて。当てられるのを必死に回避しようともがく中に、澄んだ声がひとつ。
それがクラスの沈黙を救った。
「はい」
すらり、と流麗な所作で立ち上がったのは、九条 葵。
窓から射し込む柔らかな陽光が、彼女の艶やかな黒髪を縁取るように照らし出し、その輪郭を鮮やかに浮かび上がらせる。蒼だけでなく、クラス中の視線が自然と、彼女へと集まっていく。
「この歌における『まつ』は、木である『松』と、人を一途に待ち続ける『待つ』の二つの意味が掛けられており……」
淀みなく、そして的確に。
その声の響きまでもが、予め用意されていたかのように。
「素晴らしい。よく勉強しているな、九条」
という教師の賛辞に、教室のあちこちから感嘆としか言いようのない溜息が漏れている。
「……ちぇっ、美人なだけじゃなくて頭も良いんだから、嫌になるよな」
前の席に座る友人、小園 健太が上半身をぐいと捻り、呆れ顔で囁いてきた。授業中だと言うのに、彼はいつもこうだ。
「別に、嫌にはならないけど」
勉強が嫌いな、彼らしい台詞に苦笑するしかない。
彼女は素直に、綺麗だと思う。
整った顔立ち、モデルとして活躍する抜群のスタイル、そして今のやり取りで見せた知性。同じ高校に通ってはいても、住んでいる世界が明らかに違う。
そんな言葉がぴったりの存在だった。
健太は、面白そうにニヤニヤしながら、さらに追い打ちをかけてくる。
「それにしても、同じ『あお』で、こうも違うかねぇ」
「うるさい、そもそも『あお』じゃない。『そう』だっての」
小声で悪態をつく友人に、蒼は椅子の脚を上履きの先で軽く小突いて仕返しする。
健太は「お前も、何気に女子から人気あるらしいから、いいよな」と口を尖らせ、前を向き直る。
この手の揶揄いには慣れっことは言え、当の本人は、何のこっちゃ……である。
気の抜けたチャイムが鳴り、五十分間の呪縛が終わる。
勘違いしないで欲しいのだけど、勉強が決して嫌いなわけではない。むしろ、学年でも成績は相当上位に食い込む方だったりする。
ただ、あの古典教師の授業は、どうにも眠たくて仕方がないだけさ。
先生が重たい足取りで教室を出ていくと、それこそ堰を切ったように、騒々しさが教室へ満ち始めた。お待ちかねの昼休みだ。
今日も今日とて、購買の焼きそばパンを頬張る友人が、俺の机に広げられた弁当箱を覗き込んでくるのも、いつものことで。
「お、今日の卵焼きも完璧じゃん。一個くれよ」
「やだよ、昨日もやっただろ」
文句を言いながらも、綺麗に巻かれた卵焼きの一切れを箸で摘み、健太の手のひらへ運んでやる。こういうやり取りも、すっかり日常の一部と言えよう。
「俺……正直お前の卵焼きが一番好きかもしれ、ない……」
「うわ……きも」
「ひでぇ」
人の卵焼きをさも当然のように頬張りながら、健太はうっとりとため息をつく。
それは卵焼きか、続く彼女のことか。
「はぁ……。それにしても九条さん、綺麗すぎるだろ……」
そりゃそうか。旨そうに咀嚼しながら、教室の廊下側で友人たちと静かに食事をする九条さんの姿に、釘付けになっている。
「あーあ、九条さんと付き合えたなら、俺もう生涯で彼女一人でもいいわ。マジで。誓ってもいい」
「そんな誓い、向こうも迷惑だろ」
「言うなよ」
深々と長い息を吐く友人に、もう苦笑するしかない。そして、その矛先が当然のようにこちらへ向くことも、過去の経験からわかっている。
「で、お前はどうなんだよ、蒼」
「俺は……正直、それどころじゃないかな。美人だとは、思うけど……」
半分、他人事のように。半分、事実を織り交ぜて伝えてみた。
俺のその言葉に、健太は一瞬きょとんとした顔をするも、すぐに「あっ」と思い当たったようにバツの悪そうな表情を浮かべる。
「……ああ、そうだよな。一人暮らし、始めたばっかだったもんな。悪い、無神経だった」
「気にするな」
別に、健太が無神経なわけではないさ。
彼が生きる、ごく普通の高校生の日常では、俺の事情の方が少し特殊なだけ。
事故で両親を亡くし、祖父母に引き取られた。その祖父も昨年他界し、残された祖母は静かな余生を過ごすべく、施設にお世話になることが決まった。だから、今年の春から一人暮らしを始めた訳。
ただ、それだけの話さ。
しきりに頭を掻いて気まずそうにしていた友人だったけど、数秒後にはもう立ち直ったらしい。改めて、その立ち直りの速さにびっくりする。そして、何かを思いついたように、ニヤリと口の端を吊り上げるから、もう嫌な予感しかしない。
「でもまあ、一人暮らしいいよな! 彼女とかできたら、もうそこは愛の巣じゃねーか! 羨ましすぎるっ!」
「お前は本当に、そればっかりだな……」
こめかみを押さえながら、やれやれと首を振る。
なんならそれに、少しの溜息もつけて。
九条さんか……。
見つからないようにそっと、友人と談笑する彼女の横顔に視線を移してみる。
それは、触れることすら許されない、絶対的な完成形の姿に見えた。
不意に、視線が絡んだような。
心臓が、一瞬だけ大きく跳ねる感覚。盗み見ていたのがバレて羞恥の想いが胸を満たすけど、その瞳に写るのは多分俺じゃない。だって、完全な無関心が透けて見える視線だったから。
その瞳は一秒も留まることなく、するりと友人の方へと戻っていったよ。
……だよな、はは。
俺は自嘲気味に息を吐き、体を正面へと向けた。
卒業するまできっと、一度も親しく言葉を交わすことはないだろう。自分なぞ、彼女の思い出の片隅にも残らないかもしれない。
この時の俺は、本気でそう信じていた。
まさかこの後、その完璧な彼女の日常と自分の日常が、激しく交錯し、混ざり合うことになるなど、知る由もなかったから。




