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黄金のスクランブル交差点  作者: 美祢林太郎
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6 サンちゃん

6 サンちゃん


 テント長屋の辺りをウロチョロと観察して回っていると、ある老人が手招きして簡易テントの中に招き入れてくれた。ここで俺は勝手に老人と判断してしまったが、本当のところはどのくらいの年齢なのか識別することはできない。ホームレスの中に肌艶の良い若者は一人もいない。ホームレスはみんな、程度の差はあれ、焦げ茶色の顔に深い皺を刻んでいるので、老人に見えるのは確かだ。俺の顔は長い髪と髭で肌の色艶はわからないだろうが、年齢からいっても皺はそれほどなく、引きこもりだったので普通の人よりずっと地肌は白かったはずだ。

 この男はにこりともしなかった。ホームレスの間では相手にへつらうような愛想笑いは必要なかったようで、俺も彼に会ってから、それまで無意識に浮かべていたへらへら笑いを消していった。

 テントの中の広さは畳一畳くらいだ。俺が身寄りのない哀れなホームレスに見えたのかもしれない。確かに俺の風采はそんなものだ。俺はホームレスと並んで座っても、何の遜色もないはずだ。腰や膝だって老人のように曲がり、首を前に突き出した、むかし本で見たことのある北京原人のような姿勢で歩いていた。この十年の引きこもりで、気づいたらいつの間にかこういう体型になっていた。このまま行ったら、退化してそのうち言葉を失って四足で歩くようになって、猿になるかもしれない、と夜な夜なゴミをあさりながら妄想したこともあった。

 男は飲み口が欠け、茶渋で覆われた湯呑茶碗にティーパックを入れ、色の褪せたポットから暖かいお湯を注いでくれた。俺が黙っていると、厚めに切ったレモン一切れと大匙で掬った山盛りの砂糖を紅茶の中に入れてくれた。紅茶は湯呑から溢れそうになった。暖かくて甘くて酸っぱくて暖かい紅茶を飲むのは何年ぶりかだった。きっと働いていた時に、職場の仲間と喫茶店で飲んで以来だ。当時、俺はミルクティよりレモンティが好きだった。男のいれてくれたレモンティは、過去に飲んだどんなレモンティよりも美味しく感じた。

 黙って紅茶を飲み干すと、男から「腹は減っているか?」と訊かれ、腹が減っていることを自覚した。俺は黙って頷くと、隅っこからカップラーメンを出してきて、湯を注ぎ、3分待った。腹が減っていたのでカップラーメンがとてつもなく美味しかった。腹が減ってカップラーメンを食べたことはこれまで何度もあったので、今回のカップラーメンの美味しさはただ腹が減っていたからというわけではなかった。今日は、男を前にしてラーメンを食べている。人と一緒に食事をするなんて何年振りかだ。人と食事をすることは嬉しい事なのか? これまでそんなことを考えたこともなかった。

 男は無心に食べている俺の姿を見て嬉しそうだった。こうした笑顔に対する返礼として愛想笑いはいらないと思った。もしかしてホームレスだけでなく、世界から愛想笑いが必要とされなくなったのだろうか? 引きこもっていたこの10年間に、世界は厚化粧を削ぎ落としてしまったのだろうか?

 男が「今晩寝るところはあるか?」と訊いてきたので、「ない」とぶっきら棒に返事して、俺は彼のテントに泊めてもらうことになった。俺のアパートよりも居心地が良いように思えてきた。それは狭いテントの中で二人で寄り添って寝たせいかも知れない。人肌を感じながら寝るのは、小学生の頃におふくろに添い寝してもらって以来だ。

 俺はアパートに日帰りするはずだったのに、外泊することになった。外泊するなんて、これまでにあっただろうか? 日本料理屋に勤めていて先輩と共同生活していた頃もなかった。一つの布団で一緒に寝るほど親しい者は同僚たちの中にはいなかった。俺はこの男のおかげで、すんなりとホームレスになれるような気がしてきた。頭の片隅で、カスミアパートに帰ってこない俺をミドリさんが心配しているかもしれないという考えが浮かんできたが、それを俺はすぐに忘れることにした。ミドリさんとはあと二ヶ月もすれば、昔の職場の同僚のように、赤の他人になる。まあ、ミドリさんの思い出は何もないに等しいのだが・・・。

 男は無口な人間で、俺の経歴や私生活のことを何一つ尋ねてこなかった。だから俺も彼に何も質問することはなかった。それがここでのルールだと思った。

 翌朝起きると、太陽の下で男は椅子に腰かけた見知らぬホームレスの散髪をしていた。髪を切ってもらった人が立ち上がって「サンちゃんは天下一の散髪屋だね」と気持ちよさそうに言って、百円玉をサンちゃんの掌に置いた。この時、この男がサンちゃんという名前であることが初めてわかった。しかしその名前は、「三平」や「三太」の「サン」ではなく、「散髪屋」の「サン」から付けられたあだ名なのかもしれないと思った。きっとそうなのだろう、と俺は思う。ここでは正確な名前なんて必要ないからだ。まあ、どうでもいいことだから、これ以上考えるのはやめよう。

 サンちゃんは傍で立って見ていた俺に、無言で椅子に座るように促し、俺の注文を訊かずに、長く伸びた髪を遠慮会釈なくバッサバッサと切って散髪を始めた。俺はどんなに髪を切られても気にすることはない。だいたい好きで髪や髭を伸ばしていたわけではなく、今の髪型(これを髪型と言えばだが)を気にいっていたわけでもなかった。髪を切り終わると、モジャモジャの髭を鋏で短く切った後に、顔中に石鹸を塗りたくって泡立て、カミソリで気持ちが良いほど滑らかに剃ってくれた。さっぱりすると、サンちゃんが「顔が現れた。あんた、思ってたよりもずっと若いんだな。色白でなかなかの男前じゃあないか。ホームレスになるにはちょっと早すぎるんじゃあないか」と言って不器用に笑った。これは愛想笑いでなく、自然に出てきた笑いなんだろう。屈託のない笑いは気持ちがいい。彼の笑いが不器用に思えたのは、これまであまり笑ったことがないからかもしれない。

 サンちゃんが俺の顔の前に差し出した鏡で自分の顔を見ると、まだこんなに若かったんだと驚いた。色白の俺は、どこから見てもホームレスの顔ではない。ここではよそ者の顔だ。俺はホームレスの仲間に入れてもらえないかもしれないと心配になった。だが、サンちゃんは俺に公園の水道で頭と顔を洗ってくるように促して、前と同じように接してくれた。俺はここでは鏡を見ないようにしようと思った。

 二夜目、俺は寝ていた時に急に腹が痛くなり、すぐにテントの外に出ようとしたが、間に合わず下痢をしてしまった。テントの中に耐えられないほどの便臭が広がった。サンちゃんがすぐ目を覚まして、俺に「大丈夫か」と心配して訊いてきた。俺は下痢をすませたので爽快になっていたが、恥ずかしかったので、その声に何も答えず、腹を抱えたまま動かなかった。サンちゃんが「歩けるか」と訊いてきたので、俺は黙って頷いた。サンちゃんは俺の肩を担いで川まで連れて行ってくれ、そのまま二人で川の中に入った。9月の川の水は冷たかったが、それでも気持ちがよかった。「ズボンもパンツも脱げよ」とサンちゃんが言い、サンちゃんが裸になったので、俺も裸になった。「水が冷たいけど、おなか大丈夫か?」と訊いてきたので、今度は「大丈夫」と声に出した。サンちゃんは「そうか」と明るい声で応えた。川の土手を走る車のヘッドライトに照らされたサンちゃんの顔は、皺が深く刻まれていた。サンちゃんが「寒くないか」と訊いてきたので、「寒くない」と応えた。

 「ちょっと待ってて」とサンちゃんは素っ裸のままテントに戻り、素っ裸のままタオルと服と下着と靴を持って川に戻って来て、服を川岸に置いた。「川に浸かったついでに洗濯をしよう」と薄っぺらな固形石鹸を俺に渡し、俺はランニングシャツに石鹸を付けて体を擦り、それから衣服を石鹸で洗った。サンちゃんが俺のうんちで汚れたパンツを黙って手に取って洗ってくれた。こんなことをしてくれたのは、おふくろだけだ。サンちゃんの何気ない優しさに、言い知れぬ感動を覚えた。

 洗濯も終わり、川岸に上ってタオルで体を拭いていた俺に「これを着ればいい」と丁寧に畳まれた乾いた下着と服とズボンと靴と靴下一式を両手で手渡ししてくれた。俺はサンちゃんから渡された服を着てテントに戻った。履いた靴は、小さな俺の足に対して随分大きく、ペタペタという音がした。

 サンちゃんがテントに戻った時に、ビニールシートを全開にしていたので、随分便臭は和らいでいたようだが、それでもまだ臭かった。

 俺たちはテントに入ってビニールシートを閉じた。背中を合せて寝ていたサンちゃんがぽつりと「夕方に食べた弁当が腐っていたのかな? ごめんな」と低い声で謝ってきた。俺は黙っていたが、涙が零れてきた。いつ以来の涙だろう。他人の好意が身に沁みるとはこういうことなんだろうな。サンちゃんはどうして見ず知らずの俺にこんなにも優しいのだろう? 俺は他人に優しかったことがあっただろうか? 一つも思い出せない・・・。


        つづく

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