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黄金のスクランブル交差点  作者: 美祢林太郎
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3 俺の履歴

3 俺の履歴


 俺は子供の頃から体が弱い。すぐに風邪を引いて熱が出て動けなくなるし、何と言ってもしばしば下腹部に激痛が走ることがあった。子供の頃の俺はしょっちゅう下痢をしていたので、痩せ細って体が小さかった。

 小学校一年生の時、担任の若い女の先生が、おふくろに「お子さんは栄養失調気味ですから、たくさん食べさせてあげてください」とかわいい顔してにこやかに残酷なことを言ったのを、俺は今でも鮮明に覚えている。家庭訪問で我家を訪ねて来た先生が、我家が母子家庭で、部屋の中が殺風景なのを見て、貧しいことがわかったのだろう。おふくろが俺に満足に食事を食べさせていないと思ったのだ。そんなことを言われたおふくろは、俺の傍で正座をし、両膝の上で拳を固く握り締め、小さな体を更に小さくして、俯いて体を小刻みに震わせていた。先生は俺を助けたとでも思っていたのだろう、俺の方を向いて幾分得意気に微笑んでいた。俺はおふくろに申し訳ないことに、先生に微笑み返していた。

 俺の家は確かに貧しかったし、おふくろは料理が苦手だったけれど、それでもスーパーマーケットから色々な惣菜を買って来て、俺に毎日腹いっぱいになるまで食べさせてくれた。俺は喜んで腹一杯になるまで食べていたが、しばらくすると胸がむかついたり、腹が痛くなって、吐いたり下したりした。だけど、おふくろの喜ぶ顔が見たくて、俺は頑張って食べたんだ。しかし、段々俺は胸やけや腹痛になるのが怖くなり、食べなくなっていった。

 牛乳を飲んでも吐くようになった。俺が吐いたり下す度に、気の弱いおふくろはオタオタして俺の吐瀉物を雑巾で拭き取っていた。そのうち俺は肉や牛乳や油を避けるようになり、少しのご飯と野菜だけを食べるようになった。本当は野菜は嫌いだったんだけど、野菜を食べても吐かないから食べていただけだ。

 俺は小学校の給食を残さずに食べ切ることができなかった。おふくろが担任に俺の体質を伝えてくれて、肉料理は食べなくてよくなったんだが、それでも何かの拍子で他の児童と同じ給食が配膳されることがあった。俺は断ることもできず、恐る恐る出された物に箸をつけた。結局、そのほとんどを残し、午後からの授業の時に、食べた給食の全部を机の上にもどした。俺の吐いた物が前の席の女の子の髪にかかり、女の子は学校中に響くほどの大きな声を上げて泣いた。どのようにして彼女が泣き止んだのか俺は覚えていない。泣き止む前に俺はトイレか保健室に連れて行かれたのかもしれない。

 俺は小学校の頃からずっと友だちがいなかった。無口で話題もなく感動もしない俺に話しかけても何も楽しくはないので、同級生が俺に近づかなかったのは、子供の俺だって不思議だとは思わなかった。それでも俺は寂しくはなかった。自分の椅子に座って、ボーっと何も考えずに一日を過ごしていた。

 学年が進むと、そんな俺は意地悪をされたり、暴力を振るわれたりと、たいそう苛められるようにもなったが、俺があまりにも無抵抗でひ弱だったので、かれらも申し訳ないと思ったのか、はたまた張り合いがなかったのか、多分後者だが、そのうち無視されるようになった。

 それでもしばらくの間は、いじめっ子たちは先生に叱られてムシャクシャした時に、わざわざ俺を殴りにきた。俺は殴られても騒がなかったので、いつしか俺の存在は教室から完全に忘れ去られていった。いじめの対象は手足をバタつかせて抵抗する奴に移って行った。俺はずっと教室に一人でいたが、何の不都合も感じることはなかった。会話がなくったって、一日を過ごすことはわけないことだった。

 小学校五年生の時、放課後に体育館の裏で悪ガキ四人に代わる代わるに殴られた。その時に、間が悪いことに急に腹が痛くなって、殴られている間はなんとかうんちをするのを我慢しようと俺なりに頑張った。俺は人前でうんこを漏らす勇気はなかったし、パンツを汚したらおふくろが悲しい顔をすることがわかっていたからだ。

 俺は腹を抱えて蹲り、おそらく顔が真っ青になっていたと思う。それを見た悪ガキたちは一瞬たじろいで後ずさった。俺は我慢仕切れなくって緩んだ肛門からうんちが出てしまった。どろどろのうんちが半ズボンのすき間から流れ出し、太ももを伝わって靴を濡らした。すぐにうんちの臭いが辺り一面に広がり、悪ガキたちは「うわっ」っと叫んで、その場から一目散に逃げ出して行った。俺は、お尻にべっとりついたうんちの気持ち悪さを感じていたが、それ以上に下腹に渦巻いていた不快さから一挙に解放された爽快感に浸っていた。こんな素敵な解放感を感じることは他にない。

 翌日の教室では、悪ガキたちが俺を遠巻きに囲んで「うんち男」「クソ男」とからかい、親指と人差し指で自分の鼻を摘まんで「くさい、くさい」と囃し立てた。俺が何も反応しないので、いつしか悪ガキたちは張り合いがなくなって、俺を相手にしなくなったけれど、このことがきっかけで俺は「クソオ」とあだ名されるようになり、女子までが俺のことを、おそらく悪気はなかったんだろうし、免罪符のように思ったかもしれないが、「クソオ」に君付けして、俺のことを「クソオ君」と呼ぶようになった。同級生の女子はめったに俺の名前を呼ぶことはなかったのだけれど・・・。わかるだろうけど、クソオに君付けされたからといって、呼び名が丁寧になったわけではないし、ましてや俺が喜ぶわけがない。残酷さが日常に溶けて、より陰湿になっただけだ。俺は小学校を卒業するまで「クソオ」「クソオ君」と呼ばれ続けた。

 おふくろはどこかの飲み屋で働いていたようだが、詳しいことは俺も知らない。部屋には深夜に帰って来たり、一晩や二晩帰ってこないこともあった。見知らぬ男を部屋に連れ込むこともあった。そんなおふくろだが、俺に暴力を振るったり、大きな声で威圧することはなかった。俺と同じように存在感のない、いたって地味な女だった。

 貧乏なので、俺はいつも同じ服を着ていた。しかし、運動会の日だけは違った。運動会の前日になると、おふくろは俺を散髪に連れて行き、真っ白いブリーフパンツを買ってきてくれた。俺は足が速いわけではない。いや、いつもきまってビリッケツだ。そんな俺なのに、おふくろは運動会の日だけは特別だと言った。父兄がみんな応援に来る地域あげてのお祭なのだ、と目を輝かせて言っていた。

 おふくろが子供の頃は、お父さんやお母さんだけでなく、おじいちゃんやおばあちゃんも応援に来て、運動会に参加していた、と懐かしそうに何度も同じことを話してくれた。おふくろはリレーの選手に選ばれてアンカーを走ってテープを切ったこともある、と毎年運動会の前には自慢げに話して聞かせてくれた。おふくろが人生でもっとも輝いていた瞬間なのだろう。おふくろは、「うちの家系はみんなかけっこだけは速かったから、おまえも健康になればきっと足が速くなるよ」と俺を励ましてくれた。俺はおふくろのような自慢できることが一つもない。

 運動会には、おふくろの母親が毎回真新しい下着を揃えてくれたそうだ。おふくろは、「転んでパンツが汚かったら恥ずかしいからね」と言った。おふくろは運動会の日だけは、スーパーマーケットで巻き寿司と稲荷寿司を買って応援に来てくれた。それなのに俺はいつもビリを走った。この時ばかりは、俺もおふくろに申し訳ないと思った。

 俺はおふくろに買ってもらった白いパンツをみんなに自慢したかったけど、パンツが見えるような場面は運動会の間中なかなか現れなかった。唯一、騎馬戦で体が小さいからという理由だけで馬上の人となった俺は、敵から倒された時に半ズボンがずれて、白いパンツが出たことが一度だけあった。俺はその時目でおふくろを探して、目が合った時、にこっと笑ったのを覚えている。新品の白いパンツが見えてよかった。

 俺は中学二年生になった頃から、不思議と体調がよくなり、腹も痛くならなくなった。俺は大人になったから、体もしっかりしてきたのだろうと思った。俺は同級生よりも相変わらず体が小さいままだったが、おふくろの言葉を思い出して、走るのが速くなったのではないかと思ったこともあったが、やっぱり運動会はビリのままだった。

 俺は中学生になっても同級生から陰で「クソオ」や「クソオ君」と呼ばれていたし、友だちもいなかった。俺は一人で過ごす方が気が楽だったから、何と呼ばれようと構わなかった。たまに面と向かって「クソオ」や「クソオ君」と呼ばれても、何の抵抗もなく返事をしていた。だが、決して卑屈であったわけではない、と今でも思っている。

 俺は中学校を卒業し、掃き溜めのような高校に進学した。ゴールデンウィークの最中におふくろが車に轢かれて死んだ。深夜、泥酔したおふくろが道に飛び出して轢かれたらしい。手足がグニャグニャに曲がり、即死だった。轢いた犯人は今でも見つかっていない。

 俺は病院に行き、遺体安置所でおふくろの亡骸に会ったが、どうしたわけか俺は無性におふくろのパンティが白くて新しかったかどうかが気になった。葬儀屋が来て、おふくろの血にまみれた服を鋏で裁断して剥がして行った。おふくろのパンティは黒でうんちと小便で汚れていた。俺はおふくろに白いパンティをはかせてやりたかったが、葬儀屋は下着を持ってきていなかった。俺は葬儀屋の作業を黙って見つめるだけだった。俺は一人で火葬場に付き添い、それからほどなくして高校を中退した。

 俺が高校を中退した時、たった一ヶ月しか担任ではなかった教師が親切にも渋谷にある日本料理屋を紹介してくれて、そこに勤めることになった。道玄坂を上った裏手にある、板前が10人以上いるそれなりに由緒ある日本料理屋だった。その先生が身元保証人になってくれた。

 俺は自分が思っていたよりもずっと手先が器用で、料理人に向いていたようだ。角刈りをした俺は、最初の一年は皿洗いや店の掃除ばかりをさせられていたが、包丁を持てるようになると、すぐに魚を上手にさばけるようになったし、寿司を握ったり、天婦羅をあげたり、野菜を調理するのがすべて好きだったし、上手だった。その頃の俺は小学生の頃の腹痛のことなどすっかり忘れていた。

 俺は3人の先輩たちとアパートの一室で共同生活を始めた。何の棘もない俺は、先輩たちに自然と受け入れられた。俺は初めておふくろ以外の人と会話らしい会話をした。おとなしい人間に変わりはなかったけれど、おかしな人間とはみなされなかったようだ。俺はかれらから「おはようございます」や「ありがとうございます」の挨拶の仕方から、世間の常識というものを教えてもらった。それにパチンコや競馬、麻雀などの賭け事や女も教わった。今思い返すと、この頃が一番普通の人間らしい生き方をしていたんだと思う。

 そしてなんと言っても、俺はそれまでできなかった愛想笑いができるようになった。人間社会ではこの愛想笑いが一番大事なコミュニケーションツールだということがわかった。これさえあれば、口数の少ない俺だって、たいていのことはうまくやっていけるものだと知った。

 俺が店の常連の客に紹介されて「カスミアパート」に入居したのもこの頃だ。俺は一人住まいを始めた。十代が終わろうとしていた。

 店の人に勧められて調理師免許をとった。免許を取った時、店の人がお祝いにと言って、出刃包丁と砥石をくれた。出刃包丁は刃渡り15センチで、水牛製の口金、包丁の地金の部分に「関孫六」と彫られ、十万円以上はする高価な代物だった。俺はこの包丁で毎日料理を作って、一日の終わりにはきれいに砥いで大切に扱った。俺はいつか自分の店を持つ夢を見るようになっていた。

 こうして人生で一番充実した日々が、15年近く続いた。通勤で毎日歩く渋谷のスクランブル交差点には、いろいろな若者がいて、深夜に店を出て交差点で酔客に絡まれたことも何度かあったが、俺は適当にあしらうことができた。俺は酒が弱いこともあり、酒を呑んでも羽目を外して騒ぐことはなかった。

 俺は30歳になり、こんな俺にも後輩ができ、料理の腕の立つ俺はかれらに慕われた。それまで他人に慕われたことなどなかった俺は、幸せな気分だった。常連客から「そろそろ結婚したらいいんじゃないの?」と言われるようになっていた。俺もまんざらではなかった。

 俺はカスミアパートに入居した時にみんなから言われた「運の良い人」という言葉を思い出した。俺はきっと「運の良い人」なんだろうと思って、一人にやつく日もあった。


       つづく

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