2 立ち退き命令
2 立ち退き命令
今日から9月に入ったが、まだ茹だるように暑い。屋根の暖気が直接降りて来る2階の部屋は一段と蒸し暑い。ここしばらく雨が降っていない。ぼろ雑巾のようになったカーテンの隙間から正午の日差しが、四畳半の中ほどまで差し込んでいる。俺はいつものように掛け布団を蹴散らして、汗を掻きながら胎児のように丸まって惰眠を貪っていた。
俺の耳元で何か呪文のような声が聴こえてきて、意識が覚醒した。当初はなんて言っているか判別できなかったが、しばらく目を閉じたまま耳を澄ませて聴いていると、「クズ、クズ、クズ、クズ、クズ、クズ、クズ、クズ、クズ、クズ、クズ、クズ、クズ、クズ、クズ、クズ、クズ、クズ、クズ、クズ、クズ、クズ、クズ、クズ、クズ、クズ、クズ、クズ、クズ、クズ、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」と暗い声で呟いているのが聴き取れた。あまりに薄気味悪い声だったので、下着姿の俺は無防備な格好のまま目を閉じてピクリとも動かずにいた。声が夢の中で聴こえているかも知れないと思ったし、そのように思いたかったのも事実だ。
声の主は、「クズ」という言葉を千回以上も吐いて、ほとほと疲れ果てたのだろう、ゼーゼーと息を切らしながら、のそっと部屋から出て行くのがわかった。声の主がしばらくしたら再び戻って来るのではないかと不安に思い、俺は目を閉じたまま手探りで布団を探し、それを自分の体の上にすっぽりとかけて、おとなしくしておいた。熱くて汗が噴き出て来たが、俺はそれを我慢した。
布団の中で俺は考えた。40歳を過ぎているのに働かずに一日中部屋の中でゴロゴロしている俺が「クズ」なのは自分でも重々承知のことだ。今さらそんなことを他人から言われなくったって、十分に自分で分かっている。そんな俺にわざわざ呪いをかけるように、俺の頭に向かって「クズ」と千回も吐き出した奴がいる。何千回、何万回「クズ」と言われて罵られたからと言って、今更腹を立てることもないのだが・・・。それでもあの低い声は不気味だ。
しばらく経って、俺は暑さに耐えきれなくなり、敵がいなくなって甲羅からそっと頭を出す亀のように、布団からゆっくりと頭を出して辺りを見回し、部屋の中に誰もいないことを確かめた。入口のドアは開かれたままだ。俺はドアを閉めに行くために、意を決して布団から出た。
ドアの廊下側を見ると、
「滞納している家賃はいらないので、来月末までにアパートを出て行ってください。大家 和泉ミドリ」
と、広告の裏に筆を使って書かれた達筆の文字が並び、それが画鋲で貼られていた。この張り紙を見て、今さっき俺の枕元で「クズ」と呪詛したのが管理人のミドリさんだということが容易に推察された。この時、俺は能天気にもミドリさんの名字が「和泉」ということが初めてわかって嬉しくなったような気がした。その上、ミドリさんの名字が、予想外にきれいな響きを持っていることに感動すら覚えた。こんなことはどうでもいいことなのに、俺は何を考えているのだろう。
俺はこのアパートから退去することを命じられたのだ。俺はミドリさんからこれまで滞納した家賃を請求されたことがない。廊下で顔を合わせても、家賃について触れられたことは一度もなかった。
実は、ミドリさんの「出て行ってください」の張り紙を見て、俺はどこかさっぱりした気持ちになっていた自分がいた。現在、俺は家賃を一年くらいは滞納している。正確にいつから滞納しているか自分でもわかっていない。いい加減な奴だ。俺は家賃を払わずにカスミアパートに一年間くらい住み続けてきたことになる。小心者の俺は、居直って家賃を払わずにアパートに住み続けられるほど、度胸が据わっているわけではない。このところは、ミドリさんと顔を合わせないように、廊下から小さな物音が聴こえてくると廊下に出て行くことを躊躇ったし、たまたま廊下にいた時はゴキブリのようにコソコソっと逃げるようにして部屋に戻っていた。こうして、日々おどおどして過ごしていた。夜逃げしてアパートを出て行こうと考えたこともあったが、結局そんな勇気も行動力もなかった。所持金が一銭もなかったから、アパートを出てもどこにも住む当てがなかったのだ。
優柔不断な俺は、子供の頃から自分で何も決められない。俺はこの一年間日々悶々として過ごしてきた。ミドリさんが俺の立ち退きを宣言してくれる日を心のどこかで密かに待ち望んでいたのかもしれない。ミドリさんはおとなしくて良い人なので、俺に最後通牒を言い渡すことができずに、俺と同じように日々悶々としていたのかもしれない。溜まりに溜まった鬱積が突然の「クズ」という呪詛というかたちになって吐き出されてしまったのではなかろうか。俺の立ち退きを迫るにしても、さっきのミドリさんの声はいつもの声と違って、鬼気迫るものが感じられた。俺が仏のミドリさんを鬼になるまで追い詰めたとしたら、彼女に心からすまないことをしたと思う。
それでも、ミドリさんは俺がこのアパートを退出するまでに2ヶ月の猶予をくれると言っている。溜まった1年分の家賃もチャラにしてくれるようだし、俺を警察に引き出すこともないようだ。やっぱりミドリさんは仏だ。そんなミドリさんがどうしてあんな不気味な声を出したのだろうか? あの声はいつものミドリさんのようには思えないのだが、このアパートにはミドリさん以外誰も住んでいない・・・。
とにかく、俺は久々に風呂に入ったようにさっぱりした気分だ。俺はこれからどうしよう。この一年間、部屋に引きこもって寝てばかりいたので、このアパートを出てからどうしたらいいか皆目見当がつかない。でも、くよくよ考えても仕方がない。所持金もないのだから、ホームレスになるしかないことは明白だ。傍からは唐突な考えに思われるかもしれないが、家もなければ職もない俺に残された道はホームレスしかないことは、これまでも薄々わかっていたことだ。
2か月後には住む家がなくなるのだから。俺はホームレスになるための準備としてホームレスを調査に行くことに決めた。行き当たりばったりの俺にしてはなかなかいい考えだし、どんくさい俺にしては珍しく行動力がある。
部屋から出て一階に下りると、いつものようにミドリさんは一所懸命に廊下の拭き掃除をしていた。俺は気まずいと思って二階に戻ろうとしたが、ミドリさんは俺に気づくと、頭をもたげてにっこりと笑い、「お出かけですか」と尋ねてきて、俺から返事が返ってくるのを待たずに、すぐに顔を伏せて廊下を拭き出した。ミドリさんは島倉千代子の『からたち日記』を歳に似合わずかわいい声で歌っている。ミドリさんが機嫌が良い時に口ずさむ歌だ。枕元で、低音で「クズ、クズ」と俺に呪いをかけたのはやっぱりミドリさんではなかったのかもしれない、と俺は思った。あの声と『からたち日記』を歌うミドリさんの可愛い声とは似ても似つかないものだったからだ。それとも、ミドリさんは俺に退去を通達することができて、憑いていた悪霊がとれて、一挙に気分が晴れたのだろうか?
つづく