解放の時
「ん?」
先程まで叫んでいたリアナが急に大人しくなったのを妙に思い、フェイルは引っ張っていたリアナを見た。
リアナは一点を凝視したまま、驚愕の表情をしていた。
フェイルはその反応をおかしく思い、リアナの目線の先を見た。
「な・・・・に!?」
その目線の先では、翠が悠然とフェイルの方に歩み寄って来ていた。
血まみれの体のまま、しかし体を引きずるわけでもなく、ただしっかりとフェイルを見つめ、ゆっくりと一歩一歩フェイルに向かって歩いている。
しかし、フェイルが驚いたのはその事ではない。翠の右腕の周りに、水が渦巻いていたからだ。
「ネイシス・マスター・・・だと・・・?」
それはそれ以外のなにものでもなかった。
フェイルの目に写っている者。それは水を操る、水のネイシスを発現させた者の姿だった。
(だが、何故あいつは今まで使わなかったんだ? 使う暇がなかったわけでもないのに・・・・)
フェイルは混乱していた。翠が起き上がった事も、ネイシスを発現させた事も、全てが予想外だったのだから。
フェイルが混乱している間にも、翠はフェイルとリアナの所に歩み続け、そして、対峙した。
「・・・・・・・」
翠は何も言わずに腕を振るった。それに従い、水の刃がフェイルに向かい、放たれる。
「くっ!」
フェイルは仕方なくリアナを放し、その刃を避けた。
開放されたリアナはすぐさま翠の横に立ち、フェイルと対峙した。
「形勢逆転ですね。いくらあなたが腕利きでも、二人のネイシス・マスターを相手には出来ませんよね?」
「・・・・・仕方がない。今日は引き上げる。戦闘をしにきたわけでもないしね。引き上げだ」
フェイルはさして執着することもなく、撤退していった。さすがに引き際はわきまえていたらしい。
全ての兵が引き上げるのを見届けたリアナは緊張を解いた。
「翠、無事だったんですね。改めて、助けていただいてありがとうございました」
リアナは嬉しそうに言った。血まみれを無事と言うかどうかはわからないが、立っている以上、リアナは無事と判断したようだ。
「それにしても、あなたもネイシス・マスターだなんて驚きです。別世界から来たんじゃなかったんですか?」
しかし、リアナの質問に翠が答える様子がない。いや、正確には口は動くのだが、声が発せられていなかった。
「翠?」
明らかに様子のおかしな翠にリアナが触れようとした瞬間、翠は糸の切れたマリオネットの様に、その場に倒れ込んだ。
「え・・・!? 翠!?」
リアナは倒れ込んだ翠の身体に触れて驚いた。明らかに数ヶ所の骨折が見受けられる。
「こんな状態で、どうやって・・・」
実は翠は動けなかった為、自分をマリオネットの様に水の紐で操っているに過ぎなかった。それならば、意思があれば動くことができる。体が動かなかった翠の相手を騙すための苦肉の策だった。
リアナがその事に気付くはずもなく、今はそれよりも翠を治療するのが先だった。
一人ではどうにも出来ないと判断したリアナは、周りの人に呼び掛けた。
「誰か! 誰か助けてください! 翠が死にそうなんです! お願いします!」
しかし、その場にいた誰も反応を示さなかった。
それは当たり前の反応だった。翠は村人からすれば得体の知れない人物なのだから。
リアナは無力な自分が悔しくて唇を噛んだ。せめて応急処置だけでもしたいが、リアナには何の知識もなかったのだ。
(翠・・・死なないで・・・・・)
リアナはもうそう願うしかなかった。無闇に動かすことさえ、リアナには出来なかったから。
涙が頬を伝うが、リアナはそれを拭うこともせず、翠の手をそっと握っていた。
「レイちゃん」
その自分を呼ぶ声にリアナが顔を上げると、そこには騒ぎの始めの原因の証明書を無くした男がいた。
「まずは折れている箇所を固定しよう。それから、医者に頼みにいこう」
「でも・・・」
「大丈夫、皆がいるから」
「え・・・」
リアナが周りを見渡すと、いつの間にか村人達が忙しなく動いていた。
「レイちゃんには少なからず皆が世話になってる。そんなレイちゃんが泣いているのに、私達が何もしないわけにはいかないだろ? それに、君もこの村の住人なんだから、助け合わなくちゃ―――――ね?」
その意外な言葉に、リアナは目を丸くした。リアナは自分はずっと疎まれていると思っていたのだから。
そして次にはまた泣き出していた。今度は悲しい涙ではなく嬉しい涙だった。
「ありがとう・・・ございます・・・・」
リアナは涙ながらにそう言った。
その様子を見た男は、優しく頷いた。
翠が目を覚ましたのは、フェイルとの戦闘から三日後のことだった。
しかし、目覚めたからといってすぐに動けるわけではない。幸いにも臓器の損傷も骨折も少なく、本人の回復力の高さも加わって普通よりは早く治ったが、動ける様になるまで一週間を要した。それから完治までさらに一週間。医者に言わせればそれでも、通常ならありえない日数なのだが。
その間、翠もただ世話になるわけにもいかず、目覚めたばかりのネイシスを使い、水不足を少しでも解消しようと水の運搬をしていた。入れ物がいらないだけに、一度に運べる量は他の人が運ぶ量の比ではなく、村人達からは大いに喜ばれたのはいうまでもない。
心配していた軍の方も、二週間経った現在でも、未だに動きはない。
そんな翠が村に馴染み始めたある晩の事だった。
「えっ!? 王都シーフォードを目指すんですか!?」
晩御飯を食べていた時、翠はついに切り出した。
「そのつもりだよ。俺は元の世界に戻る為に『時の島』に行かなくちゃいけない。伝説の真偽は不明だが、今手掛かりはそこしかない。そこに行く為には、王都シーフォードに向かうのが一番だろ?」
「確かにそうですけど、怪我も治ったばかりで王都までの道程は厳しいはずです。もう少し休んでいきませんか?」
リアナは心配そうに翠に言った。
「確かにそうだけど、いつまでも世話にはなれない。明日の早朝には発つつもりでいる」
「え! そんなに早く!?」
「あぁ。時間が経つと離れにくくなるから」
翠の真剣な声に、リアナは何も言う事が出来なかった。
「リアナ、多分今しか言えないだろうから言っておく。今まで世話になった。ありがとう」
翠は深々と頭を下げた。
そのせいで翠には見えていなかった。リアナが大きな決意をした顔をしていたことに。