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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

夏の恋文

作者: 葡萄

思い返せば未だ鮮明に目に張り付いている青空がある。

高校一年生の夏休みのことだった。

なんてことのない日々の中、あの日は特別輝いているようだった。


苦しいことばかりの人生だった。

受験が終わると共に春も終わって、ピンクはアオへと移っていき、そして空を見上げることさえ億劫なその季節はやってきた。

何かを本気で好きになることなんて、この人生で一度もなかった。ぼーっと生きることさえ怠いと思ってしまうほど、自堕落で無気力な自分だった。

今から振り返ってみれば、なんて時間の無駄遣いなのだろうと感じる部分もなくない。しかし、当時自分が感じた世界への失望はどうしようもないほどの息苦しさを私に与えていた。

人も未来も自分さえもを嫌い、何もかもを消し去って過ごしていたあの日。

私は運命なんて言葉が陳腐に見えるほど衝撃的で鮮彩な、しかし切なく儚い出会いを果たした。


学校の屋上から見る夏空が嫌いではなかった。

誰もが暑さから逃げるように光を避ける中、自分だけが見上げている空の中の輝きに惹かれるものがあったのだと思う。

わざと三本ほど早くした電車が、部活開始時間の三十分ほど前に私をその光のもとへ届けた。

そう、嫌いではなかった。何を思うのも苦しいこの世界で、皆をキラキラと照らすあの球体を己の掌に奪い去るその瞬間、過去に失ったはずの何かを思い出せるような気がしたからだ。

そうして私はまた代わり映えもしない空を飽きもせずに眺めていた。


青春なんて言葉は、きっととっくに朽ち落ちている。

キラキラと輝く世界なんてものを、甘受できる人はほんの一握りなものだ。

この十六年の命になんの意味があるのかさえ本当に分からぬまま、そうして今日も無気力に夏空へ身を投げる。

友達も家族も思い出も、何一つ欲しいだなんて感じられない。

これといった事件があったわけでもないのに涸れ果てた私の心は、水を求めることさえ諦めているようだった。


だからこれでいいのだ、と私は球体を握りしめた掌を身体の隣へ投げ出して呟いた。誰に拾ってほしいわけでもないその言葉は、微かな期待をも裏切ってやはり夏の風に吹かれて消えていった。

コンクリートのひんやりとした冷たさが、熱を与えてくる光を飽和するように背を冷やした。仰向けになったが故に散らばった学校の規則通りの短髪が、何故か嫌に視界に入った。


空は青い。光は眩しく、そこに特定の色を付けることなど敵わない。

それなのに何故か私の視界には世界からゴッソリ色が抜けたように思えた。

寂しいと思うこともない。

いつも通りの世界だった。

変えてほしいと思う。しかし、変えてくれる人はいない。変えてくれる人を求めて叫ぶことすらしない。

渇ききった心のまま、ぼんやりと何一つ浮かばない未来への想像をまた一つ断った。


そんな時だった。

開け放しになっていた屋上への扉から、一人の少女が現れた。

この時期滅多に現れることのない屋上への来客に、私は少しばかり瞠目しながら上体を起こした。


「こんにちは。いい天気だね」


少女は私の存在に驚いたのか一瞬瞠目してから、優しい笑顔でそう言った。

彼女は見たことのある子だった。

基本教室では小説ばかり読んでいた私でさえ知っている、クラスの人気者であった。笑顔の絶えない可愛い容姿と、明るく優しい性格はまるで小説のヒロインのようで、初めて見た時から私は拭い切れない違和感と憧れを同時に抱いたものだ。


「こんにちは」


人と話すことをあまり好まなかった私は、彼女に倣って口角を少しばかり上げて挨拶を返した。

夏の風に彼女の白い長袖のシャツが揺れた。

夏空の下その光景は私の瞳に大きな違和感を与えた。


「暑くないのか?」


蝉時雨にかき消されそうな音量で、いつの間にか私はそう零していた。

人のいい笑顔で私と同じ日陰に入り込んでいた彼女は、私の視線に気が付いてそっと左腕のシャツを握った。


「見た目よりずっと暑くないよ。何なら直射日光がないから涼しいくらい」

「さすがにそれはないだろ」


ふざけたように笑う彼女に、私はちょっとだけ呆れてそう返した。

踏み込むことは許されないような一線が、その時確かに私と彼女の間には引かれていた。真っ白な屋上のタイルが、太陽の光を反射する。今この手にないあの球体は、また私の世界への憧れと闇とを消し去っていた。

私たちは蝉の声に耳を澄ませながら、何を話すでもなくただ夏を見つめていた。

それからしばらくして、少女は徐に口を開いた。


「―君はさ、苦しくないの?」


蝉時雨の中を、少女の少し震えたソプラノが通り抜けた。

え、と私は驚いて少女へ視線を移す。

震えていた。

彼女は微動する身体を抱きしめるように押し込めながら、熱を見つめていた。

確かに引かれていた一線はその時、運命を変えろと言わんばかりに私を内側へと押し出していた。


「……―苦しいよ」


私は彼女から視線を外して、ぽつりと言葉を吐き出した。

質問の本当の意味など、分からなかった。

だがこの状況下で、何が?と問える程私の精神は屈強ではなかったし、何よりそんなことをしてしまえば彼女の『その線』は私だけではなく誰に対しても完成してしまうものだと察した。


「…なら、どうして君は―――」


少女は言葉を続けた。

太陽が隠れる。大きな音が蝉時雨を上書きするようにベッタリと、私たちの上空を通り過ぎた。

夏空には人々の夢を乗せた航空機が少女の想いを潰して飛んで行った。

神は意地悪だった。

私は彼女の言葉を聞き取ることはできずに、ただ茫然と続くはずだった言葉の余韻を探した。しかし彼女自身が私に言葉が届いていないことを理解していたように、唇を強く噛みしめて貯めていた息を吐き出した。

今思えば、それは『彼女の線』が完成したことを表していたのかもしれない。

彼女は一歩前へ出た。


「ねぇ。こんな日に、こんな場所にいた、不幸な君。いつもつまらなさそうで、退屈そうな、可哀想な君」


少女は笑っていた。

いつものように、クラスで彼女が見せるように。先までの苦しみも切なさも葛藤もすべてを胸の奥だけに押し付けて、完璧な笑顔を張り付けていた。

真っ白なブラウスが太陽の日を反射する。

八月終盤の今、外がどれほど熱いのかなんて身をもって知っているはずなのに彼女は灼熱の中、涼し気に私へほほ笑んだ。

真っ白な少女の肌が、灰色のスカートが、フェンス越しの青を背負いながらひらりと舞う。


「覚えていてよ。私がこの世界に、この場所にいたんだって。世界が私を忘れて、また意味もなく未来へ足掻き続けても…そうやって人々が消費される社会でさえ、こんなにも儚く美しいんだって」


いっそ彼女の声が蝉の声でかき消されてしまえば、どれほど良かったろう。

私は今にも消えてしまいそうに笑う彼女の姿に、日陰から動けないでいた。

彼女の姿が夏に溶けていく。

まるで最初から決められていた運命みたいに、キラキラと輝くその笑顔が夏の闇に溶けていく。

いつの間にか遠くで聞こえていた部活の声は消えていた。

夏に囚われた少女と私は、正しくこの世界に二人きりだった。

少女が笑うと同時にちらりと見えた長袖の内側に、私は彼女の言葉を受け止める他なかった。きっと酷い顔をしていたであろう私を見て、彼女は申し訳なさそうに苦笑した。


少女は夏に溶けた。

まるで線香花火のようにスッと消えて、それきり少女は秋に現れなかった。

あの夏の日は、数十年たった今でさえはっきりと脳裏にこびり付いて離れなかった。世界は綺麗だと笑って消えた少女に、私は今でもかける言葉は見つかっていない。


二千年以上もの間築き上げた人々の文明は、果たしてどこへたどり着くのだろう。神が作ったこの世界の終わりに対して、それはどれ程まで有効なのだろう。

私たちはきっと何も知らない。知る術さえ持ち合わせてはいない。

人が作った社会で、人が歯車と化して消えて去っていく。

個性も情も築き上げた信頼だって、全てが無力になる。


あの時なんと声をかければ良かっただろう―なんて問いをもう何千回繰り返したか。

あの日以来色付いた私の視界に写る『青』は今日も美しくて。

それでも、あの時感じたような世界の尊さを表すにはどうも足りなかった。

無気力に生きていた私を無理やり突き動かしたその色は、未だ胸を彩って褪せることはない。

だから私は、打ち上げ花火のような彼女の笑顔を一生涯忘れることは出来なかったのだろう。


これはそう、私の人生をかけた夏の物語。

そして、世界に押しつぶされて消えた少女に送る最初で最後の遺書。



世界は今日もまた一人を押しつぶして神へと近づいて行く。


外は真っ白な雪が積もっていた。

新雪に反射する光は、柔らかく私の頬を照らした。






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