第80話:最も大切なもの
唯一心を許す存在ウォルエイリレンに、アクラは夜遅くに呼び出された。しかも城内の中庭という、安全とは程遠い場所へ。この後に及んで相変わらず自分の立ち位置を理解していない彼に不満を覚えると同時に、しかしその彼らしいことにアクラは思わず笑いながら向かうと、既に彼はそこに居る。
近場に腰掛けて空を見上げるその姿は、単なる青年にしか見えなかった。それこそこの城にたくさん居る兵のひとりにも、この田舎に住む若者のひとりにも、その姿にはまったくと云って良いほど警戒心がなく一見純朴な青年そのものでしかない。
「夜分に済まない、アクラ」
しかしそのなんでもない青年は、アクラが声をかけるよりも先に空から視線をそらさずに声をかけて来た。剣の道は彼の従弟ローウォルトが群を抜いて居たが、当然ウォレンもその道は通っている。アクラのように武術に疎い、しかも警戒もしていない男が近づけばすぐにわかる。
「お一人で歩くことはお止めくださいと云いませんでしたか」
見回した限りセナさえ居ない。もちろんだからと云って彼が居ないとは限らないのだが、目の見える場所に護衛が居ないというのはいささか不安がある。自分の領地ながら安全が誇れないのは情けないことだが、現実だから仕方がない。それよりも主の身の上が不安だ。
「残念ながら連れて来られるやつが居なくてな、振られてしまった」
「云い訳もプロの域に入ってきましたね」
「最終的な確認をせず、大事な臣下を一人、失うことだけはしたくないからな」
ようやくアクラを見遣ったウォレンに、軽く肩をすくめるに留めた。本当にこの人は、どこまで考えているのだろう。こうやって個人個人全員を大切にして、彼自身は本当に幸せになれているのだろうか。余計なことさえ心配したくなる。
初めて出会った時からそうだ。この人はいつだって、アクラを狂わせる。
そんな主は、アクラの気持ちに触れることなく続ける。
「アクラに一つ、云っておくことがある。今回の聖職者の騒動は、みんなへの説明なしに進むことができない。おまえは嫌うだろうが説明をするには、その信頼に足るだけの名と証人が必要だ」
「そりゃあそうでしょうね」
信頼される名と証人。それだけで反吐が出そうな言葉だが、今回は説得力が大切だ。それは仕方のないことであり、それぐらいアクラにだってわかっている。
「地位を嫌うおまえには少々嫌な話ではあるが、それでもおまえは、俺に付いて来てくれるのだな」
「──はい」
覚悟を決めて返事をしたというのに、ウォレンは罪悪感からか黙り込んだ。そんなウォレンにアクラは笑うしかない。
「ここまで協力しておいて、今さら引き返すことはできません。不肖ながらアクラ・ロスタリューのすべてを賭す覚悟であります」
「ああ、心強いよ」
この人はどうしていつも、こうなのだろう。アクラは本当に、どうしたら良いのかわからなくなってしまう。もっと威圧的にすれば良いものを、すべて命令にしてしまえば良いものを。ウォレンに従順になっているアクラなら、それぐらいしても良いものなのに。
ウォレンは静かに立ち上がって、アクラを改めて見つめ返す。上背は高くなり精悍な顔付きは最早立派な大人だ。出会った頃とは違う。それでも変わらぬ、強い信念を持った瞳が、あの頃よりもずっと強く輝いている。
「その後に降りかかる火の粉は、それなりに払おう」
「それは当然、お願いします」
「話はそれだけだ、夜遅くにすまなかったな。あまり留守にすると叱られるからな」
ウォレンが手を差し出して来たので、アクラはそれを自然と握る。トゥラスどころか将来王になる人物と手を交わすことになるなんて、昔の自分は考えたことなどあっただろうか。トゥラスなんて嫌いだ、貴族なんて嫌いだ。名前ばかり重んじるその莫迦莫迦しい風習さえ、消えてしまえと思ったのに。
最後に小さく笑うと、ウォレンは静かに歩き去る。まるでもともと居なかったかのように、そこから綺麗に姿を消した。その後ろ姿を見ながら、アクラは小さく息を吐いた。こんなにも短い時間でも、今の話をする必要があったのだろうか。しかしアクラの中からはしっかりと迷いは消えている。もしかしたらそのための時間だったのかもしれない。
捨てた名前をもう一度使う覚悟の時間。
「本当、嫌な奴だね、君って」
ウォレンが去った庭で、アクラは呟く。せっかくの気分を台なしにされたくはなかったが、文句の一つぐらいは云ってやりたい。ウォレンが居なくなった瞬間に気付けとばかりに主張して来るその存在を、殴ってやりたいぐらいだ。
「命令一つも守れないなんて、立派な侍従とは云えないんじゃないの?」
「守りましたよ、話を聞くなという点では立派に守り仰せたと思います」
にっこりと笑って、セナ・ロウズ・アティアーズは暗闇から姿を現した。いったいいつから居たのやら、戦闘経験のないアクラにはさっぱりわからない。おそらく歴戦の人物でも見抜くのは難しいのではないだろうか。
「そんな寒い場所に居ないで、早く中に入ったらどうです?」
「へえ、あんたが僕の心配でもしているわけ?」
「まさか。誠に不本意ながら、少し貴方と話をしたい。ですが私は、このような寒空の下話すのは嫌なので。心配されたかったのですか?」
「そうだったら気持ち悪いなと思っただけ」
「相変わらず図太い性格をしていますね」
それはおまえだろうとアクラは内心で毒づく。セナとは気が合わない。ウォレンへ忠誠を誓う点では一致しているが、その方向性がまるで合わない所為で、ずっと犬猿の仲だ。アクラが最初から気に入らなかったのと動揺に、態度からよくわかるように、セナもアクラを好いてはいない。
「それで、何を話していたのです?」
「君には関係ないことだ。それに、聞くなと云われただろう」
「今は話せないことだから付いて来るなと率直に云われましたが、聞くなとは云われていません。だから貴方から訊くことは背徳になりませんよ」
「あんたも相変わらず、嫌な性格しているよね」
ふわふわとつかみどころのない返答をする侍従を、アクラは睨みつける。ウォレンの周囲に居る中で、一番厄介で面倒くさくて、そうしてどうしても許せない相手。そう、気が合わない以前に、アクラは絶対に、この男を許したくはない。
「云っておくけど、僕はあんたを許さないからね」
「貴方に許してもらおうなんて、思ったこともありません」
案の定の返答をしてくるセナは、あくまで穏やかだ。
「誰かに許しを得るなど、考えたこともない。でも私は殿下に対して、間違ったことをしたとは思っていません。いつまでも恨んでいられるなんて、立派なご身分だ。貴方こそ、殿下のために何をしたのです」
わかっては居る。彼は個人的にウォレンに負の荷物を負わせてしまったことを後悔している。しかしその一方で、臣下としてあれは間違いでなかったとも思っている。精神的に辛かった時のウォレンに、血まみれの惨劇を見せ弁明すらしなかったことを、間違いなかったと断言できる。
しかしだからと云って、セナは正しかったと断言することができない。アクラには。
「逃げ回って領主で居続けるくせに、人に文句を云う貴方が、私は大嫌いです」
「奇遇だね、僕も嫌いだよ」
逃げ回って領主で居続ける自分も、そして正論ばかり吐く彼も嫌いだった。
「なら、今後も話さない方が良いですね。私としては、貴方にはそのまま領主で居てくださった方が助かる。近場に居られては不快です」
「あんたやっぱり、立ち聞きしてたんだ」
「人聞きの悪い。たまたま、聞こえてしまっただけですよ」
「どうしてあんたがそんなにもウォレン様に入れ込むのか、僕にはそっちの方が不思議だ」
ぽつりと呟いたが、その返答は響くことなく、疑問は虚空へと消えた。
・・・・・
ウォレンから招集がかかり集まった全員をそろえての話し合いは、随分と久しぶりのことだった。今まではだいたいアリスたちに説明があってから全員そろえていたのを、今回はそれをすっ飛ばしてのことで、アリスも今回ウォレンが何を云うのはまったくわからない。知っているのはセナぐらいなのだろうか。
「集まってくれてありがとう。王宮へ向かうことは変わらないが、その前に聖職者を助けてやりたいと思う。現在聖職者は自分の意思で動けていない状態だ。私に反旗を翻すにしろ従うにしろ、まずは自我を取り戻させてやりたい。しかしそれには少し手間が居るため、説明させてもらう」
ウォレンは口上が終わると、アクラを見遣った。
「これから彼を筆頭に、聖職者を戻したい」
周囲はただ、ぽかんとウォレンを見ているだけだ。おそらく意味がわからないから、反応のしようがないのだろう。アリスも然りだ。「彼」という曖昧な物云いと、領主がなぜという気持ちが混じっている。アクラは相変わらず涼しい表情で、まるで渦中の人ではないとでも云うように、辺りのざわつきを波の音ぐらいにしかとらえていないようであった。
「では、アクラ」
云われてアクラはようやくはいと前に進み出る。
「聖職者はアリカラーナというより、洗礼主というものを主として敬い付き従う術者です。ようするに、好きなように操ることなど容易い、まあ敢えて云うのなれば莫迦正直な術師です」
相変わらずの毒舌にウォレンは苦笑していたが、特に口は挟まなかった。聞いている側は少しだけざわついたものの、アクラの人柄を知っているのか別段非難の声は飛んで来なかった。
「現在法術師が功を急いでエリンケ様を洗礼主としたようですが、しかしあまり良いものではありません。下手をすればこれは、聖職者の全滅に繋がります」
「どういうことです?」
当然のようにイーリィからも疑問が出る。
「洗礼主はアリカラーナではなくても問題ありませんがしかし、結局は世襲ですので前王の意志が色濃く残されます。今回は定成王の意志が強く反映されるため、エリンケ様は選ばれし者ではありません。
まあウォルエイリレン王太子殿下の犬である私の虚言と受け取ってもらっても結構ですが、私は事実しか話しません。そして面倒なので本題に入ることにしましょうか。
まず、ウォルエイリレン王太子殿下に<洗礼の儀式>を行います」
「洗礼の儀式」は非公表ではあるものの戴冠式と共に行われるため、言葉自体は誰でも馴染みがある。ただ戴冠式とセットで認識されているため、現在王都に向かっている最中に戴冠式をやると云われているようで、少し混乱を招いているようだ。軽く首を傾げている者も居る。
「みなさまもご存知の通り、本来ならばこの儀式は戴冠式の時に行なわれるものですが、聖職者を元に戻すには一番早い方法です。このままだとまた自殺者が出たり、下手をすると聖職者同士での争いも覚悟しなければなりません。アリカラーナの国民数も、聖職者の絶対数も減ります」
混乱する周囲を置いてきぼりにして、アクラは淡々と事実を説明するため、聞いている側もそれ以上慌てることができない。
「そのためにこれから簡易ではありますが、殿下に禊を受けてもらいます。禊には人間一人と各
三人の術師、法術師、召喚師、聖職者が必要ですので、私から指名して行います。人間はいつもトゥラスから選出されますので、今回はディーミアム・バラ・ガーデントゥラス。術者はそれぞれ代表して一人ずつ、誠に勝手ながら、法術師はジーク・ロウマン、召喚師は安全面からアリス・ルヴァガにお願い致します」
いきなりアリスの名前が出て来てきょとんとしてしまう。またちゃんとした説明はあるだろうが、何が起きているのか正直なところよくわからない。そんなアリスの横から、わかり易く城主ファルーンが口を出す。
「待て待て、俺でもわかるぞ。今まともな聖職者は居ねぇよ。どうするつもりだ?」
当然の質問に、アクラは何事もなかったかのように言葉を続ける。
「聖職者は私、洗礼聖職者リアクラウド・アクト・カージナカルが立ち会います」
さも当たり前のように云い渡された言葉に、周囲のざわめきが酷くなった。質問したことも忘れたかのように、ファルーンは口を開けてぽかんとしている。
「……カージ、ナカルだと?」
「じゃあ、領将は……?」
しかしその雑談を遮るように、アクラは話を続ける。
「これに失敗すれば、殿下を洗礼主にすることができず、聖職者を手放すという手痛い結果が待っております。必ずこの名に賭けて成功させるため、どうか洗礼を行うことにご協力を戴きたい所存であります。──私からは以上です」
アクラはそのまま場を去ろうとしたが、周囲のざわつきは高かった。いったいどういうことなのかという疑問がアクラに飛び火している。
「いきなりで信じてもらえないのも無理はありません。しかし事実、私は洗礼聖職者です。名乗る名前がなかったので現在アクラ・ロスタリューを名乗っていますが、本名は先ほど申した通りです」
「あの、失礼ながら、ロスタリュー領将。カージナカルと仰いましたが、それはバークズトゥラスの?」
「おや、トゥラスと名乗った方が、わかりやすかったですか? しかしトゥラスは術師になれませんから、その名を名乗ることは許されないでしょう。そもそももう代替わりもしていますから、トゥラスなんて名乗るほうがおこがましいですよ」
「では領将は、元宰聖シオン・リアの御子だと仰るのか」
「──残念ながら、そうです」
アクラは興味なさそうに云う。
「私の母はシオン・エレク・カージナカル、父はデューク・ロスタリュー・カージナカル。莫迦な聖職者とトゥラスの子どもですよ。貴族の方々がお好きな証人が必要とあれば、今は居ませんがリューシャン・バックボーンにお願いします」
ざわざわと周囲の声が高くなるのと同時に、アリスの周りもざわついている。イーリィを初めアクラと近しいファルーンでさえ、まだ間の抜けた顔をしているぐらいだから、おそらく誰も聞いていなかった事実なのだろう。
「──まさかアクラがな」
「睦月、後で教えてくれるか」
このごたごたを一番理解できていないのはアリスだろう。ただアクラが元トゥラスでありながら隠して領主をやっていることも、本名を隠していたこともそれが大きな問題に発展することなのだと理解ができた。アリスの疑問も最もだと思っているようで、睦月は軽く頷いてくれる。
「一言で説明できるものじゃあないからな」
「簡単に云うとしたら、元トゥラスに生まれながらにして聖職者である子どもが生まれたことが発端です。身内同士で術師を巻き込んだ事件に発展し、家族もその子どもも死亡が確認されていましたが、まさかあの御子が領将だったとは……」
隣で文月が補足してくれるが、アリスにはちょっと待って欲しいことしか出て来ない。
「生まれながらの聖職者って? そんなことあるの?」
聖職者は洗礼を受けてアリカラーナとの結びつきを強くしなければなれない。修行をしなければなれない召喚師と同じようなものだ。生まれて来てすぐなれる法術師とはわけが違う。
「ほぼ伝説の域だが、極希にある。本来なら洗礼を受けないと聖職者になれないんだが、生まれながらにしてアリカラーナとの結びつきが強いのか、持っている力が強い者を洗礼聖職者と呼んでいる。簡単に云えば精霊召喚師みたいなものだ」
「おそらく聖職者とトゥラスとの御子だったからでしょう、血の関係からか本当に極希にあるケースです。カージナカルの御子以外では、この500年で2人居たぐらいでしょうか」
その類まれなる力を持っているのが、あのアクラ・ロスタリュー。しかしその子どもの死亡が確認されているとなると、そう簡単に信じられない話だろう。
その所為でざわつきが一向に収まらないのをウォレンも感じたのか、一度立ち上がる。しかしそれよりも先に、アクラが動いた。
「はいはい、わかりましたよ。本当は誰に信じてもらわなくても結構なんですけど、禊を堂々と行うに当たって発表はしなければならないと殿下の言ですので、ここはみなさんに理解して戴きたい」
アクラは溜め息を吐いた後、続ける。
「ここで誰もが望むような証人を呼んであげましょう。私の祖父、クラス・デュルマ・バークズに願います」
周囲のざわつきは余計に増すばかりだ。
「確か、行方不明だって話だが……まだご存命なのか?」
「その通り、行方不明のふりをしていただけですよ」
「ではバークズトゥラス卿はまだいらっしゃる……」
「ってか、もう面倒だからいい加減にしてもらうけど」
と、アクラは本当に面倒くさくなったのか、ほぼ素に戻る。
「僕は殿下のために命を捨てることなど厭わない。今まで呼んだことはありませんでしたが、お爺さんですか? 貴方も覚悟を決めて、そろそろその莫迦っぽい道化をやめてくれませんか。かわいい孫かこんなにもがんばってるんですから、どうにか助けてやってくださいよ」
アクラの本音が落ちた会場は、ずっと騒がしかったのが嘘のようにしんと静まり返った。そこに不似合いな笑い声が唐突に響き渡る。最初は小さく、しかし次第に大きくなるそれは、明らかに前方からだった。
「おい、やめとけよ」
流石のファルーンも現状で笑い出す部下をどうにかしようとしたようだが、そんなことはお構いなしに彼は口を開く。
「いやいや、ここで黙っちゃあ駄目でしょう。かわいいかどうかは別にして、そこまで云われちゃあしょうがない。確かにそこの阿呆は、間違いなくロスタリューの子だと認めてあげるよ」
彼はなお笑いながら、腕の裾をまくりあげ高く掲げた。少し老いた腕にもはっきりと見える紋章は、忘れ去られた頃のトゥラスの証。
「バークズトゥラスの名にかけてね」
「ジ……」
「ジークズ!」
叫んだのは他の誰でもなく、城の主ファルーンであった。