第101話:自愛と感謝
「うわぁ……!」
立ち並ぶ本棚を見てアリスは朝だと云うのに感嘆の声を上げてしまい、慌てて口を抑えた。それを見たドクトリーヌは、思わずと云った風にくすりと笑う。
当主の趣味に合わせて5人兄弟妹のアセット家には、蔵書の数が非常に豪勢だった。個人の趣味にしては多すぎる。本は貴族しか持てない高級品だが、ここにあるのはさらにそうと思わせる、すべて上質羊皮紙で凝った装丁の、価値のありそうな本ばかりだ。本などまともに見た事がなかったアリスが声を上げるのも無理はない。
朝食を終えた後にドクトリーヌが案内してくれた、最後の部屋であった。
「よろしければ、好きなものをお持ちくださいな。こんな時でも眠る前なら少しだけなら息抜きになるでしょう」
「ありがとう、アセット子卿。凄く嬉しい」
アリスが読んだ本なんて、教科書ぐらいしかない。そういえばダークが何所からかもらって来てアリスにくれたことなどを思い出すが、せいぜいそれ一冊だけだ。アスルの辺りはそこまで貧困ではなかったが、本にありつけることなんてほとんどなかった。手に入るものは高価な割に劣化してしまっていて、触るだけで壊れてしまうことも多々あった。
余程嬉しそうに見えたのか、ドクトリーヌは可笑しそうにくすくすと笑う。艶やかな白い肌、大きく澄んだ瞳、理知的な口元が上がる、その笑い方すら魅力的で上品だった。
「ドクトリーヌで結構ですわ。長ったらしかったらどうぞ、リーナでもよろしくてよ」
「えっと、ドリーではなくて?」
「うーん、なんか嫌なんですのよ、響きが。女性らしくないと思いませんこと? アリスという名前はかわいらしくて良いですわね」
「そう、かなぁ。でもリーナってとてもかわいい」
「そう云って戴けると、とても嬉しいですわ」
「私ここでは結構な年下だと思うんだが、良いのかな」
「構いませんことよ。あんまり嬉しくないことですけれども、地位が物を云うところですから」
声をかけてくれたのはドクトリーヌからだった。大した家ではないが気分転換にでもご案内しますと声をかけられた時は、どうしたものか困ったものだ。令嬢に案内してもらうなど申し訳無さ過ぎて恐縮しかなかったアリスに、緊張をほぐしてくれたのは彼女自身だった。見た目から貴族のご令嬢らしい雰囲気が強く一見話しけかけ難かったが、自然と話して見るととても穏やかで気安い女性だったのだ。
「ところでアリス・ルア、よろしければ本日お時間戴けません? ちょっとお話がしてみたいだけなのですけれど」
「構わないけど、私で良ければ」
「嬉しいですわ、ありがとうございます」
「そんな大げさな。私なんかで良いのか?」
嬉しそうなドクトリーヌを見ていると、なんだか申し訳ない気分になってくる。
「もちろん、こちらこそ私で申し訳ないぐらいですわ。加えて帰って来た兄たちも煩いので、ぜひ会って戴きたいのです」
「お兄さん?」
「ええ、昨日ワードソウド大司教がいらっしゃったでしょう? 兄たちも聖職者の混乱が解けてから事後処理を手伝い、ご一緒させて戴いたようです」
ルーンのことだとわかるのに、数秒を要した。いつものんびりと話してくれる彼を思うと、どうも大司教という称号にそぐわない。
「それじゃああの混乱期に居たんだ」
「そのようですわね、迷惑勝手な兄たちですけれども」
「兄妹がいるのは羨ましいな」
「ええ、私は随分と恵まれております。父も母も兄も優しく、ぬるま湯で暮らしている……」
そう云ってふと影のある様子を見せた令嬢は、遠くを見遣る。
「たまに思うんですの、私がこんな自由な生活をしていて良いのかって。何もせずわがままにお嫁にも行かず、迷惑なのは私ばかり。それに比べてウォレン様は多くの苦労をされて」
ウォレンと聞いてどきりとする。当初は貴族令嬢ということに緊張していたものの、ドクトリーヌは気取ったところがなく朗らかで、まさに憧れの女性だった。加えて上級貴族のひとり娘と来たら、王太子の婚約者になるのは当たり前だろう。時は流れてしまったものの、おそらく王になったウォレンの元に彼女はまた候補として上がるだろう。
「すみません、おかしなことを申しました」
「リーナさんはその、ウォレンをずっと見て来ているんだよね」
「……ええ」
「じゃあその……」
「存じております。ウォレン様は私に弱音など吐いてくださいませんのですべてとは申しませんけれども」
ドクトリーヌは静かに微笑む。それはセナや人霊たちがウォレンの昔について話すのと、同じ表情。
「ウォレン様は本当に私の世話をよく焼いてくださいました。ぬるま湯に浸かっているだけの私を気遣って、市井に連れ出してくださったり縁談に断りを入れてくださったり」
一つひとつの思い出を紡ぎだすドクトリーヌの表情は、とても綺麗だった。
「きっとメイリーシャ様が離れられてから、私を代わりに妹のように扱ってくださったのでしょうね。ウォレン様がお戻りになりとても嬉しいのですが、それ以上に、あんなにも生き生きとしているウォレン様を見ることができるなんて思いもしないことでした」
にこりと微笑んだ令嬢は、これまで以上に柔らかく微笑み、想像もしないことを云う。
「アリス・ルア、ありがとうございます。貴女のおかげですもの」
「……え、私は」
「そんなはずありません、ウォレン様はアリス・ルアに会われてからお変わりになられた。それも良い方向に。──昨日だって……」
そこまで云って、ドクトリーヌははっとした顔をした。
「昨日は邸内の警備が行き届かなくて、本当に申し訳ございませんでした」
「そんな、アセット卿やリーナさんが気に病むことじゃない」
「そう云って戴けるととてもありがたいのですが、本当にお気をつけくださいませ」
「うん、ありがとう」
それよりもさっきの話は、と思っていたところに、当の本人がやって来た。
「おはよう、アリス、アセット嬢」
「おはよう、ウォレン」
「おはようございます、ウォレン様」
ウォレンは軽く頷いた後、アリスに目を向ける。
「アリス、大丈夫か?」
「ありがとう、もう平気だよ」
「今日はほとんどが対王宮貴族への会議だ。アリスはゆっくりしておいてくれ。あ、ひとりでの行動だけは厳禁な」
「無用の心配だよ、残念ながら朝からひとりになれていないんだ」
肩を竦めて後ろに視線を送ると、ウォレンはすべて納得したように頷く。長月はあれからずっとアリスに付いて来ている。少し離れてと云えば離れてくれるから嫌なわけではないが、どうしてこんなに懸命になってくれるのか未だにわからない。
「下手な気負いは結構だよ。何かしていた方が、気がまぎれる」
「……まぁ怪我がなかったなら良いんだが、今日は念のため身体を休めてくれ」
ウォレンは少し不安そうにアリスを見つめる。変なところで気遣いをする優しい主であるが、優しくされればされるほど、気持ちは募る。
「ウォレン様、本日は私がアリス・ルアを御借り致してもよろしくて?」
「それが良いな。ゆっくり休ませてやってくれ」
「ええ、もちろんですわ。ありがとうございます、ウォレン様」
「僕たちも参加させてもらうんだよ」
「僕たちの参加は決定しているよね」
二つの声が重なって太い声を響かせたかと思うと、ウォレンの後ろからぬっと同じ顔が二つ出て来る。
「ヴェンお兄様、ディンお兄様、おはようございます」
「おはよう、ドクトリーヌ」
「久しぶり、ドクトリーヌ」
「もう、心配していたんですからね!」
「僕らよりもしょうもない王太子のがご無沙汰していただろう?」
「僕らよりも優しいだけの王太子に気を取られていたくせにね?」
「やれやれ、アセット家ではすっかり嫌われものだな」
苦笑するウォレンは振り返ることもなく肩を竦めると、彼の後ろに居た男たちは取り囲むように飛び出て来る。ウォレンと同等の背丈であったが、すらりとした細身で端正な顔立ちの男たちは、ドクトリーヌと同じ輝く金髪をひとつに束ねている。街中では俳優と間違えられそうな綺麗さを持つ人たちだったが、それが二人も居るとさらに眩しく見える。
「そして報われないまま行かず後家だよ」
「本当にどうしてくれるんだ、ウォレン」
「アセット嬢なら男が放って置かないだろう」
「そうだよ、君が居ない間にもあの忌々しいティリアーニの次男坊が来ていたらしい」
「まったく、いったいいつになったら自分の愚鈍さに気が付いて首を切るのだろうね」
「言葉が過ぎますわよ、お兄様」
憮然とした顔で諌めるドクトリーヌにようやく顔を向けた二人は、アリスにもやっと頭を下げた。
「初めまして、アリス・ルア。アセット家二男ヴェントゥエリー・サンジェルと申します」
「初めまして、アリス・ルア。アセット家三男ディントゥエリー・シャウジェル申します」
そうしてウォレンの前に立った彼らは、間違いが見つけられないほどそっくりだった。アセット家双子の二男、三男は、真面目な長男の真逆を行く、自由気ままな人たちだと聞いていた。彼らこそ聖職者のごたごたに巻き込まれていた人たちのようだ。
「ご丁寧にどうも、アリス・ルヴァガと申します。昨日から騒がして済まない」
「良いんだよ、年頃の女性が我が家に来てくれるなんて嬉しいことだ。ねぇ、ヴェン」
「本当だよ、行かず後家のまま引きこもらないといけなくなってしまったからねぇ」
厭味ったらしくウォレンを見ながら彼らは問うものの、ウォレンはまったく相手にしていない。雰囲気から毎度のことなのだろうと察する。
「もうお兄様方、ウォレン様に絡むのはやめてください! そんなんだからアセットの不良などと云われてしまうんですよ?」
「云いたいやつには云わせとけば良いんだよ」
「僕らは不良でも罪人でも、構わないからね」
「私とお兄様は構います!」
外見とは裏腹な二人にドクトリーヌが怒る様がかわいらしく、やはり兄姉弟妹というものはとても良いものに見えた。
「アリス、ウォレン様、大変なの!」
微笑ましい気持ちで見ていたアリスのもとに、慌てたようにその報告を持って来たのは卯月だった。
「どうしたんだ、卯月」
「ルジェストーバが……バルクオリンズ博士を筆頭に、王宮に攻め入ったらしいの!」
和やかな茶会は、夢に消えた。
・・・・・
卯月に案内されて向かったアセット家の談話室に、予想外の人物が座っていた。
「リズバドール叔父上……」
「お久しぶりでございます、ウォルエイリレン王太子殿下」
年配ではあるが若さを残した顔立ちの男性は、立ち上がるとその場に叩頭した。
「早くから殿下が王位に即くことを応援しながらも参上するのが遅くなってしまいましたこと、申し訳ないと思っております」
「そんなことは良いんだ、リズバドール叔父上。顔を上げてくれ」
安寧王と後宮の女性の子で、第6子。リズバドール・ジーク・ランディトゥラス。今回法術師に付いている第一王女ナナリータの実の弟であり、同じく「妾の子」として育った男。
彼はウォレンに助けられながらソファへと腰を落ち着けた。流れでウォレンとアリスも腰掛ける。周囲に居たイーリィやエリーラたちは、静かに流れを見守ってくれている。
「よく動けた……、いや、動いてくれたな」
「情けないことに我が姉ナナリータが我が家を抑えてはおりましたが、義妹のリナリーティーシアの力を借りて、どうにかここまで漕ぎ着けた次第です」
「まさかルジェの一件には、おまえも絡んでいるのか」
「はい、微力ながら力を尽くさせて戴きました。姉ナナリータとその夫ダズータは、この件に関しては完全に手を切っております。私は義兄ダズータと義弟アサジークがルジェストーバで煮え切らない思いをしていることを聞き及び、今回の件を思い付きました」
「──ではルジェの件は、リズバドール叔父上がすべて考えたのか」
「及ばずながら、ほとんどが剣を持てぬものばかりです。命を守りながら殿下を助けるため、指揮は不肖息子に委ねました。少しは殿下が王宮に帰り易くはなると思います」
「アサギが……?」
ぽつりとウォレンは思わず声を漏らす。思わずエリーラを見るものの、彼女はただ頭を振るだけだった。きっと彼女も、何も知らないのだろう。
リズバドールの息子アサギ・ケンゼット・ランディトゥラス。トゥラスだというのにその身分を一切表に出さず、一端の商人として名を馳せている彼は、ウォレンを慕ってくれていた従弟のひとりだ。だがある時にウォレンの所為で道を違え、以来会っていない。そんな彼との最近の交渉は、彼に雇われているエリーラからの「手紙」だけ。それも商人としての一言だけ。彼からの「手紙」はこの王太子軍が本格的に動かした時に受け取った。彼の文面はとても端的で、そんなことを匂わすような台詞は一つもなかった。
拒絶した自分のことを、まだ慕ってくれている。
ウォレンは当時の自分の器の小ささに溜め息しか出ない。
──わかったよ、さようなら、ウォレンさん。……楽しかったよ。
彼を受け入れることができなかったのは、ウォレンがまだ迷っていたからだ。ガーニシシャルを継ぐことも、彼からの愛情を受けられないことにも、人の命を簡単に扱うことにも。セナに相反したのと同じく、ウォレンは彼を避けた。彼は自分のしたくないことを、ウォレンのために行いを守ってくれていたというのに、彼の気持ちも知らず、彼を拒絶した。だというのにアサギは、こうしてウォレンのピンチを助けてくれている。
そんな彼の父は、申し訳なさそうに続ける。
「余計なことかもしれません。しかし私は定成王に御恩があります。所詮妾の子である私にトゥラスの座を与え、ルジェストーバに大学部まで通うことができたのは、すべて亡き定成王のおかげでございます。姉ナナリータは気が付いてくれませんでしたが、腹違いと云えど私は定成王の弟として産まれて来たことを嬉しく思います」
本来正妻の子どもではないからと、ここまで卑下した生き方をすることはない。だが彼ら姉弟には特殊な事情がある。
当たり前だが王は子を残すことが責務であり、アリカラーナはその特殊性から、当然子どもは多い方が良いとされていた。王宮貴族から選出されることが多いのは、魂の融合がなるべくうまくいくようにする為だ。近親過ぎると母子の危険性も高くなるからこそ、2代ぐらい前の王宮貴族が正妻になることが多かった。後宮に来る女性は正妻よりも血縁が薄い者たちで、当然彼女らも王の子を産むことが責務だった。要するに保険だ。
その特殊性を知っているのはごく一部の者だけだが、おそらく魂を融合させる時の拒否反応なども過去にはあったのだろう。うまくいかなかった場合は、他の子どもが必要になる。だが血が近いだけに、正妻との間に子どもが多く望めないことも多かっただろう。そのために保険が必要だった。なるべく王に近い血筋の子どもがそれなりに居た方が助かるというそれだけのことだった。
だが安寧王は後宮の女ではなく、たまたま市中から来ていた町娘ライに好意を持ち、彼女は身ごもった。町娘にしてはかわいらしいと云うぐらいで、学校にも通っていない、平凡なただの町娘であった。しかしその素朴さに引かれたのか、安寧王はその娘との間に女の子を授かり、それが第一王女ナナリータだった。
子どもは生みたい、トゥラスを名乗らせ、学院にも通わせてやりたい。
そのような事情を、安寧王はマリレイアに根気強く説明した。マリレイアは普段からゆったりとした人で、安寧王の話を特に驚いた様子もなく聞いていたと云う。
「構いませんわ」
すべてを聞き終わったマリレイアの言葉が、それだったらしい。ほっとしたのも束の間、しかし彼女は言葉を紡いだ。
「ただ、お願いがございますの」
と、普段ただ慈愛の笑みを浮かべているだけの少女のような人が。おそらく最初で最後の、マリレイアの頼み事だったように思われる。
「私だけを王后とし、後宮にはその娘だけを住まわせてください」
ぞっとするような笑顔で、彼女はそう云った。
「陛下が私以外の女性と子を残すのは当然です。授かることのできたお子に罪はございませんし、陛下の子ですからトゥラスとして生きて欲しいと思います。ただ子を産むのは、私とその娘だけにしてください」
理解できるようなできないような、そんな要望をガタルレインダーは聞き入れた。こうして町娘の子と蔑まれながらもナナリータは生まれた。ライは要望通り後宮に呼ばれ、出産してから間もなくリズバドールを身籠る。安寧王はマリレイアの要求を飲むしかなく、また彼の元に15名もの子どもが生まれたことも原因となり、集められた後宮の女性たちは去ることとなった。
ガーニシシャルは子どもに恵まれなかったというのに、後宮にまた女性を集めることをせず、ルナだけを生涯の王后にした。例外はバルバラン事件のマレルだけだ。その後はウォレンのためにまた後宮に女性が集められたのだが、それはまた別の話である。
後宮に娘を入れた貴族は表立って怒ることはできなかったものの、突然町娘に権力を奪われたことをおもしろくは思えなかっただろう。おかげでナナリータやリズバドールへの風当たりは強くなった。妾の子と呼ばれ蔑まれたのはその所為だ。リズバドールがここまで低姿勢なのも、そういった事情がある。
しかし安寧王より彼が頼ることができたのは、長兄であるガーニシシャルだった。彼もガーニシシャルに心酔しているひとりだ。そのことが、ウォレンをまた悩ませる。
「すまない。私がこれだけ無力で……」
「そんなことはございません。私たちは兄上だけではなく、殿下の力になりたいと思い、微力ながら動かせて戴いたのです」
リズバドールならそう云ってくれるだろうと思っていた。しかしウォレンの心はそう簡単に納得できるはずもない。何よりも父の存在が何よりも大きい。すべてウォレンの力で得たものなど、ほとんどないと気付かされた時の絶望は、そう簡単に忘れられるものではない。
しかしそんなウォレンの心を見透かしたかのように、リズバドールは微笑む。
「覚えていらっしゃらないかもしれませんが、あれは貴方が太子宣下を受けた時のことでした」
彼が何を話しだしたのか、ウォレンにはすぐわかった。
「貴方は毅然としたまま太子宣下を受け、堂々と城を出た。とてもご立派でした。覚えていらっしゃいますか」
「ああ、もちろん」
「あの後に私は、兄上だけでなく殿下にも忠誠を誓ったのです」
「え?」
「あの雨の中の殿下に、国を託したいと思った。それだけです」
雨など降っていないのに、あの時の雨音が聴こえた気がした。今でも思い出す、太子になることへの重みで押し潰れされそうになっていた時のことだ。
太子宣下を受けたのは、ウォレンがちょうど14の時だった。待ちに待った王太子宣下だったというのに、ウォレンの心は晴れなかった。それはちょうど、セナが暗殺者であることを知ってからのことだった。自分にそれだけのことができるのか、甘っちょろい自分がその地位を受け継いで良いのか、それが理解できずに居たのだった。
張り詰めた糸が切れたように、ウォレンは儀式の後に降り出した雨の中、こっそりと涙を流した。それはウォレンにとって、恥ずべきことだった。そんな恥ずべき姿を、リズバドールに見られてしまった。
雨音が強まる中、ウォレンは慌てて取り繕った。
「王は誰にも、弱みを見せてはならない。だから頼むから、誰にも云わないでくれ。太子への重圧で泣いていた自分を、父が自分を見てくれないで泣いている自分を。個人で泣いているウォルエイリレンのことを、決して誰にも云わないでくれ」
「──雨が酷いですから、お顔が濡れてしまいました。せめて暖かいところへ参りませんか」
リズバドールはそれだけ云って、静かに頭を撫でてくれた。泣くところのないウォレンに泣く場所をくれた、まるで父親のような暖かさに、心が凪いだのを覚えている。ただあれは、ウォレンにとって恥ずべき思い出で、誇れることではない。
だがリズバドールは今もそれを胸に秘めて、抽象的にあの出来事に意味があったのだと答えてくれた。あまり関わることのなかった人だが、ウォレンにとって誰よりも信用できる人だった。
「リズバドール叔父上の気持ち、確かに受け取りました」
「もったいないお言葉……」
「セナ、リズバドール叔父上を客間で休ませてやってくれないか」
さっきまで居なかったはずのセナだが、呼べば何所からともなく現れる。アサギに思い入れがあるのはセナも同じだった。だから彼に任せることにした。
あの雨の日から、ウォレンにはまだまだ乗り越えなければならないことがたくさんあった。王というものの真実を知った時こそ、自分が「まがいもの」であると思い知らされた。
だがそれでも、ウォレンは王を目指す。この旅で信じてくれた人たちと会うごとに、その決意を強くした。
「イーリィ」
「はい」
「合図を打ち上げてくれ。──王宮に帰る」
王太子の帰還が、始まった。




