第97話:王と王太子
ガーニシシャルとウォルエイリレンがうまく行かなくなったのに、いつという明確なものはない。たったひとりの子どもでありながら、いつまでも太子として呼ばれなかったウォレンは、別段王になりたいと願ったわけではない。ウォレンはただ、いつかはなるのであろうと漠然と思っていただけだ。いつまでも下されないままずるずると来てしまって、父が何を求めているのかわからなくなった。
そんな時、後宮の女性がひとり殺害され、ウォレンは王というものに酷く虚しさを覚えた。気が付けば溝は決定的になり、ウォレンはついに彼を父と呼ばなくなった。
彼のようには、ならない。
そんな中、ガーニシシャルはウォルエイリレンにようやく太子宣下を下した。歩く道は彼に指示されていると云えど、彼のようにはならない。ウォレンは幼いながらにそう強く決心し、確固たる自分を作ろうと思った。
だがしかし、陛下と対面すると逆らうことができなかった。そしてウォルエイリレンが20歳を迎えるという、ある夏の日のことだ。
「おまえは、私を継ぐのだな」
「はい、陛下」
「継承の儀式について、話しておこう」
その時になって初めて、ウォルエイリレンは個人というものが本当にないことを知った。
「アリカラーナを継ぐというのは、そういうことだ、ウォレン。さて、どうする」
・・・・・
10年前のある日の夕方、カレンは仕事の帰りにエースを見かけた。風が強いにも関わらず、大河岸に立ち尽くしている。少し吹いたら危ないのではないか、そう思って声をかけた。
「エース」
「……カレンか」
「どうしたの、こんなところで。危ないよ」
エースは何所かしら世間知らずで、カレンたちと知り合ったのも通貨がわからず困っている時だった。ひとまず彼を岸から引き離して、近場のベンチに座らせる。彼は拒否することなく、カレンに付いて来てくれた。
いつもなら明るく話しかけてくれるエースが、今日はまったく口を開こうとしない。どうしたんだろうと思い悩みながら前を見ると、大河の向こうに立ち並ぶ立派な屋敷が見える。そう、エースはあの世界から来て居る。カレンたちとは違う世界から、いつも気まぐれにやって来るのだ。
王都イシュタルは楕円の形をしており、その三分の一ほどが大河で分かれている。そちらは大河の近くこそ高級住宅街として名を馳せられるが、その裏でしばらく住宅地が続いた後は、下町の雰囲気を醸し出した庶民の場になる。彼らは遠く大河の向こうで優雅に暮らす人々を「お屋敷様」と呼んでいた。反対に自分たちが住むその場を「島」と呼んでいた。
エースはいつも、お屋敷様の方からやって来た。
詳しいことを話さないが、良家の出というのはわかった。彼はお金の使い方も働き方も、世の中の仕組みを知っていても、使い方は知らなかった。何より外での遊びをあまり知らなかった。全部カレンたちが教えて上げた。カレン・ルナンベス、ケィス・アードルト、レガー・グルドレイ、ラリード・サッスン。この四人がエースという世間知らずの子どもに教えたのだ。
そのことが誇らしくもあったが、気まぐれに来る両家の長男は、数年前から姿を見せる回数も少なくなり、元気をなくしていた。気付けばそれも、10年近くの友人なのだから、異変には気付く。
「エース? 顔色が悪いよ?」
「大丈夫だよ、なんでもないんだ」
「うーん、フレガーさん呼んでこようか? うちのお父さんでも少しは……」
「カレンは、父上が好きか?」
「え?」
カレンの父は商人だ。たまに珍しいものを手に入れるので、お屋敷様にもお客が居るという。そんな彼は実直で素直、愛妻家の子煩悩と、まるで絵に描いたようなお父さんだ。
「うん」
「そうだよな」
「エースはお父さん、嫌いなの?」
エースから家族の話はあまり聞かないので、珍しいことだと思いながらも話を聞いてみる。
「嫌い……か。いや、そういうんじゃないな」
「エースはじゃあ、どうしてここに来るの?」
お屋敷の暮らしなんてわからないが、ただここよりは良いだろうと思う。もちろんカレンは平凡な日常が気に入っている。たくさんお金があるわけではない、仕事もしている、家の手伝いもしている。でもそんな毎日でも充分に楽しめている。
しかしそれは、庶民として生まれて来たからである。華美である貴族として暮らして来た人々が庶民の生活に紛れ込むというのは、滅多なことではない。最初は物珍しさであるかもしれないが、ここで生活するというのはなかなか難しい。そういう知人も居ることは居るが本当に稀なことだろう。
エースはだが、簡単に云う。
「遠いからじゃあないか」
「え?」
「手に入らない、尊いものだからじゃあないか」
カレンにはわからなかった。どうしてエースがいきなりこんなことを云うのか、付いていけていなかった。それも、下町を尊いなどという貴族は初めてだ。エースはやはり、遠くに居るのだろうか。エースは貴族でも、カレンたちの友人だ。それは誇って云える。だがやはり、エースは仲間にはなれないのだろうか。
カレンのなかを不安が過ったことなど気付いていないエースは、いつもの笑顔を見せた。
「悪い、愚痴をこぼした。聞かなかったことにしてくれ」
「エース、私たち、幼馴染だよ」
居なくならないで。
そんな思いで口を開いたカレンに、エースは小首を傾げる。
「そりゃあ確かに、生まれは全然違うかもしれないけど、私たちが友だちであることは変わらない。エースのためならなんでもする、力になるよ」
「じゃあカレンの云う、エースってなんだ?」
「え?」
「俺という人間は、ちゃんと居るんだろうか」
唐突にそんなことを云われたカレンは、どうすれば良いのかわからない。今日のエースは何を云いたいのかわからない。
「居るじゃない、目の前に。私の、カレン・ルナンベスの前に、居るじゃない。気まぐれで世間知らずな、でも優しいエースでしょ」
「――そう、か」
「当たり前でしょ」
エースはたまによくわからないことを云う。貴族ってこういうものなのだろうか。不思議に思っているカレンに、エースはただ声を出して笑っている。
「ありがとう、カレン」
そうやって笑っていてくれるエースが好きだ。もちろん口に出しては云えない。いつからだろうか。自分でもわからないうちに、エースを目で追っていた。それが叶わないものだとわかってはいても、ささやかな気持ちはまだ持っていたかった。いつかエースが何所かの令嬢と結婚するまでは。
「付き合ってくれてありがとうな。おまえも帰らないと心配される。俺も帰るとするよ。迎えに来られても煩いからな」
「うん」
少しはいつものエースらしくなった気がして、それが自分の力のような気がして、それがカレンは少しくすぐったかった。
「──なあ、カレン」
二人して立ち上がったものの、エースはその場を動かずカレンを呼ぶ。こ
「もし、俺が……いや、ううん、なんでもない」
「え、何? 気になるよ」
「気にすることじゃあない。悪かったな、変なこと云って」
そう云って歩き出すエースが、急にまた遠く感じた。さっきまで一緒に居てくれたのに、突然数歩先に行ってしまった。さっきまでの誇らしい気持ちが消え去り、エースが何所かに行ってしまうような気がした。怖くて手を伸ばしかけたものの、エースの手を握る勇気もなかった。
「じゃあ、またな、カレン」
14歳のカレンがエースという少年と会ったのは、それが最後のことだ。
その半年後、カレン・ルナンベスはエースを探すべく、お館様へ方向へ出た。
もう10年も前の話である。
・・・・・
ルナがアリカラーナである事実は、極限られた人物しか、それこそ洗礼の禊に関わる人にしか知らされていなかった。ガーニシシャルの死後、シュタイン卿の動きがどうにも怪しいとわかっていたウォレンは様々な手を打っていた。
しかしそれでは、ルナは不安だった。この魂はルナにとって、一番大切なものだった。大好きな夫が自分に残してくれた宝だった。だから彼女なりの手を打った。
協力してくれる法術師、召喚師、聖職者を集めて、王宮から一時撤退する。誰もわからないのだから、事が落ち着いたらウォレンにこの魂を引き継ぐ。そのつもりでクリュード・エンペルトをスカウトした。しかし撤退する前に協力者であるグレイヴァイン・アゴアードが殺害されてしまった。
シュタインは本気なのだと理解した。ルナは早急に、王宮を去るしかなかった。アリカラーナが現在、ルナであることをシュタインに知られる前に、これ以上犠牲を出してはならない。そう誓って。
王族しか知らない幻のヨーシャと呼ばれる場所に、ルナは逃げた。精霊の加護が受けられていない場所は、王族以外誰も知らないだろう。そこはしかし、枯れるしかないと云われていたとは思えないほど綺麗な緑が輝く場所だった。そこへ王宮から逃げて来たウォレンもやって来たがしかし、しばらく経った後、彼はそこから居なくなった。ルナを置き去りにして、継ぐべき魂を置き去りにして。
彼はやはり、この魂を捨てるつもりなのだろうか。
今考え込んでも仕方はない。
クリュード・エンペルトがふいと顔を上げた時、ルナにもその違和感は感じられた。
「誰かしら」
「おそらく召喚師ですね、ご主人様」
ルナの呟きに、エンペルトはすぐに答える。王宮に居た頃には気付かなかったが彼は本当に優秀な法術師である。法術師である彼に召喚師か聖職者どちらかを探すことなど難しいであろうに、別の空気も簡単に吸い上げてしまうのだ。
「近いのかしら?」
「ええ、そうですね。領地には入れるほど近いです」
「どうして黙っていたの」
「あまり悪い気ではないからですよ。危害を加えようとするものを感じません。目的意識が随分、はっきりとしております」
「なんなのかしら」
「それはまだ、わかりかねます」
「念のため、警戒はしていてちょうだい。でもいざというとき以外の手出しは無用です」
「かしこまりました」
ルナは空を見上げた。変わらぬ綺麗な青空が続いていて、綺麗なアリカラーナの景色にしか見えない。何かが起きるようには感じられないが、あともう少しでこの国は変化していく。それをどうにかしたかった。
現在ルナは確かに国の中心であるが、それと同時に部外者だ。細かい手出しはしないようにしている。すべては次世代へ、ウォレンが継ぐアリカラーナへ。
・・・・・
「カレン、すまなかった」
エースもといウォレンは、カレンに深々と下げる。10年の時が流れていても、それが友人のカレン・ルナンベスであることはすぐにわかった。少し幼さを残していたカレンも年齢を経て妙齢の女性になってはいたが、根本的な外見は変わっていなかった。突然知り合いが目の前に現れて驚いたものの、下町での関係はすべて精算して来たつもりだった。明確にお別れを云ったわけではない。
王太子宣下をされたウォレンは、もうあの場所には行ってはいけないと思った。セナの仕事も知り、後宮での事件もあり、血なまぐさい王宮という場所で汚れているウォレンが、あのような純粋に一所懸命に生きている人たちの人生と、関わることは許されないことだと思った。
勝手にそう思って、彼らのもとを離れた。
しかし彼らにとっては、唐突過ぎる別れだったのだ。
「私もごめんなさい、叩いたりして」
「いや、俺が悪かった」
大人しいカレンがあれだけ取り乱した姿を、ウォレンは初めて見た。ケィスが居たらエースは顔面殴られていたかもしれない。それだけの酷いことをしたのだ。
王太子という地位を隠していたことも、勝手に姿を消したことも、どちらもあの時は最善だと思っていたのに、こんなにも禍根を残している。
「ついでに母上がいろいろ、面倒をかけたみたいだな。済まない」
ルナはリリアンレードンで出会ったカレンを気に入り、侍女のように扱っていたという。我が母のことながら、自由気ままな人であることはわかっている。それなりに大変だったのではないだろうか。
「ううん、ビバルディ様は……あ、ルナ王后陛下は……良くしてくださったよ」
「しかしまさか、カレンがリリアンレードン家に奉公へ出ているとはな」
「エースが居なくなって、すぐだよ。お父さんに聞いても、エースのことはわからなかったから、お館様に居れば、いつか会えるかなって」
そこまでして自分にもう一度会いたいと思ってくれていた少女を裏切ってしまった。ルナでなくても当然叱るだろう。ウォレン自身、自分を許せそうにない。カレンたちがウォレンを悪く云うはずなどないのに、当時はそれさえ信じられず、何も云わずに離れてしまった。
「カレンと最後に会っただろう。あの時、太子宣下をされたんだ。
いつか来るとは思っていたし、俺はそこに行くんだろうとわかっていた。だが、怖かった。今後自分の歩く道を聞いたら、もう下町に通っていた頃のようにはなれなかった。──だからもう、エースにはならないと決めた」
エースという男を捨てた。そうしてもう、ウォルエイリレンという人形になろうと決めたのだ。アリカラーナという道に突き進む、操り人形になろうと。その選択はその後知る事実にとって、ある意味正解だった。
だが黒いものに包まれていくウォレンを思い留めてくれたのは、ヴァルレン、カルヴァナ、ライロエル、彼らだ。 少しずつ少しずつ染み渡り、ウォレンはようやく自分を取り戻した。相変わらず父と話すことはできなかったが、それでも王太子という立場から生きて行かれた。
あの日、アリカラーナが何かを知るまでは。
あれだけガーニシシャルで固められた人生が嫌で、自分なりの王を模索してみようと思ったところでまた自分を否定されたようだった。
ウォルエイリレンという男は、何所にも存在してはならないのだと。
そうして揺れ動いていた時に、法術師に謀反を起こされ、ウォレンは王都を去った。
「勝手なことばかりで、すまなかったな」
「ううん、こうして会えたから、それだけで良い。──良かった、また会えて」
そう云って笑うカレンに嘘はない。ただウォレンにもう一度会う、それだけで奉公に出て来た少女に、何を云ったら正解かなどわからなかった。そんな彼女の強い芯に、心底感心するばかりだ。
「ありがとう、カレン」
「けど、王太子だなんて思いもしなかったなぁ。雲の上の人だったんだ」
「いや、そんなことはない。俺はそんなことのない王になる」
「え?」
「アリカラーナの神聖視を変えてやろうと、そう思っているんだ」
あの時はただ、自分というものが消えてしまうのではないかと恐れていた。だが何も無駄に年数を過ごしたわけではない。現在ルナが持っているアリカラーナの魂を消してしまえば、この国は滅びてしまうだろう。それはこの数年で調べて確実だとわかったことだ。現在のアリカラーナでは、魂と人霊が居ない限り、術師が居ない限り荒廃していくだけだ。
だからウォレンは、アリカラーナになることを受け入れる。受け入れた上で、このアリカラーナをどうして行くか、考えて行くことを決めたのだ。
「カレンはどうするんだ? もう無理して母上に付いている必要もないぞ」
「うん、リリアンレードン家に戻るよ。でも少しだけ、ビバルディ様とお話してからね」
「おまえには感謝してもし切れないな」
幼馴染の存在に強く感謝した。




