第87話:おやこ
深く息を吸って、小さく吐き出す。さっきから同じことを繰り返してみるが、胸に残るざわざわとした感じはなくなることがない。アリスはまた、小さく溜め息を吐いた。
「まだ眠らないのかい」
屋上はもしかしたらウォレンが来るかもしれない、そう思って庭先に出て来たアリスに声をかけたのは、想像していた人ではなくルークだった。ベンチに座り込むアリスに微笑む姿は、特にいつもと変わらない。
「座っても?」
「どうぞ」
断る理由もなく応じるものの、それ以上に言葉が続かない。
この人が父親というもの。事実はわかってもなかなかそれが当てはまらない。信じられないというよりも、アリスにとっては父というものがわからない。もともと存在しなかったものを充てがわれても、それを何所にどう当てはめて良いものかわからない。混乱しているのはそっちだった。
座ったルークは周囲を見回して、それからゆっくりと空を仰ぐ。今日も満天の星が綺麗に瞬いていた。とてもおかしくなっている国には見えない。
「人霊も居ないなんて無用心だね」
「みんなが勝手に来ないんです」
おそらくアリスの心中を察して近付くことをやめているのだろうが、おそらく近場には居るだろう。アリスに存在を感じられる範囲に居ることは、感覚でわかっている。だからアリスも特になにも云わなかった。
「アリスに絶対にまた会うつもりで別れたのは本当だ。でも僕は卑怯だから、君の前に現れることすらしなかったかもしれない」
ルークはアリスに目線を向けるわけでもなく、ただ星空を眺めながら世間話をするように語りだす。
「君が精霊召喚師にならなければ、こんな大事にならず、アスルで幸せに暮らせていただろう。僕はそれでも良かった。アリスが人並みに幸せであったら、それで良かった。もし君が精霊召喚師にならなかったら、会いに行くことすらしなかったかもしれない」
卑怯な父親だろう、とルークは自嘲気味に嗤って、ようやくアリスを見遣る。暗がりのよく見えないはずの中で、なぜかその時、彼の目に既視感を覚えた。
「だから今さら父親面するつもりもないんだ。ただ僕は、アリスが幸せで居てくれたらそれで良い」
そうだ、その鳶色の瞳は自分だ、とアリスは思い至る。同じ色の目を見て、アリスはなぜかその事実に驚き、次の瞬間に納得していた。父親とはそういうものなのだ、と。
「私はでも、なれて良かったよ」
アリスが今まで何も詳しいことを云わなかったのは、現実味がなかったからだ。今までラナとダークと共に暮らしていたあれが家族だと思っていた。友人の家族に会ったこともなく、ラナたちが家族というものだと、そう思っていた。だから希薄な父親について意見を求められても、どう対応して良いのかわからない。それが正直な気持ちだった。ただルークから伝わる優しさはとても真っ直ぐで、同じ瞳を見ていたら具体的にどうとは云えないが、それが父というものだと教えられているようだった。
「もちろん嫌な思いはたくさんしたけれど、アスルの生活はとても幸せだった。でもきっと、召喚師にはなれなかっただろう。法術師であることも引っかかっていた。だからたぶん、あのままあそこに居るより、今のほうがとても落ち着いている」
「──そう」
「その、だから、なんて云えば良いんだろう」
言葉で表すのがこんなにも難しいのだと改めて感じる。ルークが与えてくれる優しさや、似ているところがあること、アリスがちっとも恨んでいないこと、こういうのをひっくるめて彼に全部伝えたいと思うのに、うまい言葉が出て来ない。
「私は生きていて幸せだよ」
法術師の娘であることは、召喚師の町で暮らしていくには本当に辛いことだった。いっそのこと法術の力なんてなくなってしまったら良いのに、そうすると召喚師として独り立ちしなければならず、まったく召喚に不向きだったアリスはとても苦労した。ルヴァガというもので嫌な思いをし、あまり賑やかな暮らしではなかった。でも変わりに、得たものはたくさんある。きっとみんなそうやって、何所か割に合わないところでも生きて来ているのだ。
「ルークさんと会って、今ようやく父というものがどんなものかわかった気がする。だからそうすぐに関係は築けないと思うけど、私の父親で居て欲しいと、そう思う」
「──アリス」
「だからなんて云ったら良いのかわからないけど、ありがとう」
言葉の無力さを痛感しながら、アリスはなんとか搾り出す。
ルークはしばらく無言だった。いつも朗らかに笑っている彼から笑顔が消えているのは、若干の不安である。
「本当にリーシュカそっくりなんだから」
そう云って笑っているような泣いているような、それこそ言葉で表せないような複雑な表情をしたルークはかぶりを振ってうつむいた。
「そんなに似ている?」
「うん、嫌になるぐらい……。会いたかっただろうな、リーシュカ」
「ルークさん……」
母親という存在は、ラナのおかげで少し想像が付く。ラナはアリスの母であることを否定し、母になることも否定した。家族として支えるということを、子どものころ何度も云われた。それはアリスにとっての母親を、絶対になくしてはならないと思ったからなのだろうか。
ルークにとってはどんなものよりも守りたかったであろう人を守れなかった、その苦しみを思うと胸が痛む。
「そうだ、これを渡そうと思って探していたんだ」
そう云って差し出されたのは、少しだけ古ぼけた書簡だった。
「僕も知らなかったんだけどね、セナがこの間届けてくれたんだ。君宛のものなんだけど、受け取ってくれるかい。今でなくても良い、気持ちの整理がついた時にでも読んで欲しい」
それはリーシュカ・ルヴァガから、アリス・ルヴァガへの書簡だった。
・・・・・
「やっほーセナ」
それは影のもの同士の、下手したら誰も気付かない出会いだったはずなのに、彼は間の抜けた声でセナを出迎える。この飄々とした雰囲気は彼の父親と似つかないところで、時期キングになるとしては少し不安に思う。
しかしやはり、東雲という国の、クレナイの派生国の跡取りだ。
「スズガ、何が目的で来たの」
「え? だからアリス・ルヴァガさんを見るために来たんだよ」
そう云ったじゃんとけらけら笑うスズガを、セナはあくまでじっと見つめ続ける。東雲国の王子として生まれたからには、彼だってセナと同じく闇の世界に生きる人間だった。だからこそお互いに伝わる沈黙に、根負けしたのはスズガだった。
「やれやれ、やっぱりバレバレか。──ユウキが動いている。シノネを連れ出すなら早いほうが良い。忠告しに来たんだ」
やはり、とセナは思う。
5年。その月日を思う度に悔しさが募る。
一言で云うならば、油断していた。祖父であるマルディが死亡し、セナは東雲に渡ってゲームに参加した。クレナイは、特にマスターとなるべく人間は、東雲国のゲームに参加しなければならない定めがある。そして実力をつけて、残すところ1名となったセナは、アリカラーナに帰国した。
アティアーズ家がクレナイから脱却しようとしているとは知らずに。
それは自分の甘さが招いた結果である。自分より力の及ばない父に拘束されそこから出られない状況は、セナにとって屈辱でしかない。あくまで監禁で済ませたのは、東雲から怪しまれた際、彼には身を守る術がないからだろう。脱出してから調べるうちに、ぼろは簡単に出て来た。もう負けることなどない。
この一大事にクレナイマスターを監禁していたことに対する復讐は必ずしてみせる。
セナは自分の父を処分すると決めた。
しかしアリカラーナでそんな面倒なことが起きていたとしても、外の世界は止まってくれない。東雲国は東雲国でどうやら新たな動きが出ているようだ。現状では手札の少ないセナに、東雲までかまっていられない。
「何か云っていた?」
「いや、気付いてもいないんじゃないかな。あの娘はきっと」
おそらく何もわからず幸せに暮らしている。それが一番良い。
「ただ、セナから連絡が来ないことに怒っていた」
「でしょうね」
セナがスズガの妹シノネと婚約したのは、ちょうどアリカラーナに戻る直前だった。次に東雲に渡れば無事にシノネをゲームから救い出すことができる。そう約束していたのに、無駄に年月が流れて結局セナは未だここに居る。
「リィスさんからの依頼というより、シノネからではありませんか」
「あれ、わかっちゃったか」
そうして妹を溺愛しているスズガは、彼女のためならなんでもするのだ。そうして彼女の母であるリィスに対しても、彼は特別な感情がある。幼い頃に来た異国人はスズガにとって救いの対象だった。だからこそ今回、シノネがセナを心配している件と、リィスがアリスを心配している件とを確認するために来たのだ。そうして自国で、シノネに危険な状態が迫っていることも知らせて来た。おそらくそれが一番の本命だろう。
スズガは飄々とした態度から一変、じっとセナと同じ紅色の瞳を向けて来る。その目は既に笑っていない。
「もしシノネが移動させられるぐらいなら、ユウキを殺して欲しい。それが僕からアカツキ・クレナイへの依頼だ」
さっきまでの気軽さが消え、彼をまとう空気が変わる。綺麗な花だと思って触ろうとした瞬間に、トゲが見えてしまったかのような、アカギ家はやはり一般世界では敵には回せない存在だ。
リィス・ルヴァガも天才だった。少なくともセナにとって、敵わない人だった。
聡明で美しく実力もある、だがすべて、越え過ぎていた。越え過ぎた力は膨大になり、恐ろしい悲劇をもたらす。それをコントロールできたのは、彼女だけであった。国王から目を付けられるのは早かった。そして彼女は、隠れて汚い仕事をするようになった。後ろ暗いわけではなかったが、彼女も闇の生き物となった。元々研ぎすまされていた精神が、さらに鋭くなり、言葉一つで十二を知ることができるようだった。
幼過ぎるセナの気持ちなど、彼女にはすぐ知れてしまった。
だが、それを越えるに値する存在ができてしまった。それが彼女の娘とは、どんなに皮肉なことだろうか。
そんな彼女を慕う息子からの依頼に、セナは答えられない。
「この数年、どうやって東雲に行こうか考えていたんですよ。貴方も知っているでしょう。アティアーズは東雲、宵闇を斬ろうとしている」
「どうしてそんなことをいきなりし始めるのかなぁ」
「暗殺業が嫌になっただけでしょう」
本当に父ゴウドウは下らない男だ。
「とりあえず私は今、ここでやらなければならないことがある。それまでは貴方に任せます」
「はいはい、僕にできることはやっておくけど」
スズガは少しだけひんやりとした声で答える。
「──僕にシノネを引き止めては、おけないよ」
そんなことは、誰よりもわかっている。




