嵐がやってくる
夜の空を、暖かな色の街灯と酒場の看板が彩る。通りはすでに出来上がった人から、これから飲みに繰り出す人まで、たくさんの人で賑わっている。連なる店からは笑い声が漏れ聞こえ、どこからか陽気な音楽が聞こえてくる。
他の店に劣らず、ノックスも満員御礼。店の一番奥の丸テーブルの上には、溢れんばかりの皿と、酒のグラスが3つ。乾杯の音頭と共に、色とりどりのグラスの中身は口の中に流れ込んだ。
「平和……!」
一気に3分の1ほどを飲み終えたグラスを机に勢いよく置いて、ニーナは噛み締めるように言った。グラスの中はもちろんいつもの甘い果実酒だ。
「いや、どうなのそれ?」
「え?」
すぐ隣から聞こえたディオの声に、ニーナは口にドライフルーツを放り込みつつ視線を向けた。
私服の白いシャツを着たディオは、グラスを持ったまま呆れたようにニーナの“そこ”を見ている。
「思いっきり怪我してんじゃん。なんだよ、平和って」
視線が向けられたのはニーナの右頬に貼られた大きなガーゼだ。ニーナは「あぁ」とそこに触れて、忌々し気に口を歪める。
「あのチンピラ、ずいぶん身分不相応の武器持ってたね」
昼間の見回り、人気のない細い路地で気の弱そうな男性から金を巻き上げようとするチンピラを見つけたのはニーナだった。
すぐに声をかけ、チンピラが胸元に忍ばせていた短剣を抜く間も与えず、地面にたたきつけた。あっけない。そのまま男性の無事を確認していると、完全に伸びたと思っていたチンピラが、呻きながら何か小さな石のようなものを投げてきたのだ。
咄嗟に男性の前に立ったが、時すでに遅し。それはけたたましい音を立てて炸裂し、ニーナはそのまま男性を庇うように倒れ、壁に顔を打ち付けることになる。
すぐにトナーがやってきて、男の意識を飛ばしたので、それ以上の被害はなかった。けれど安堵はできない。今投げられたのは、見たことのない武器だ。騎士団に報告はない。音のわりに威力は小さかったので、おそらく攻撃用のものではなく目くらましのように使われるものだろう。ただ間違いなく、正規のルートで王都に入って来たものではない。
「怪我はたいしたことないんだよ。軽くこすっただけ。もう血も出てない。医務室の人がおおげさなの」
ニーナは乱暴にガーゼを剥がし、昼間の出来事を思い出して小さくため息をついた。言葉のとおり、そこにはもう小さなかさぶたがはっている。
「……一週間くらい前に、第2が捕らえた海賊がいただろ」
話の流れを見守っていたトナーが、周りのにぎやかさに溶けそうな声量で言った。視線は遠く、カウンターで常連客と談笑する店主に向けられたままだ。
「まだ公式にこっちに情報は来てないが、何人か捕らえ損ねてるらしい。恐らく、その残党が王都に入ってる。そのあたりの関係で、いろいろ裏で流れてるのかもな」
「ふーん……ことによっては、しばらく第3も忙しくなるかもね」
「あー、だから休暇取れなかったのか……久しぶりにリーゼに会えると思ったのにぃ~」
ディオは脱力したようにべったりと机に頬をつけた。
まあ、いいんだけどさ。ちょっと思い立っただけだから。別になんか特別な用事があるわけじゃないしな。と、自分を励ますようにぶつぶつ言っている。
ニーナは眉尻を下げて「残念だったね」とディオの前に料理の皿を押し出した。これでも食って元気出しな、の意である。
「ありがとな。あっ、そういえばニーナも、今度オヤジさんの結婚一周年パーティーに出るからロシトに戻るって言ってたよ、なっ!? な、なんでそんな怖い顔してんだよっ!」
「別に……」
ニーナはディオの前から皿を引いた。「あっ、なんで怒ってんだよ」と伸びてきたディオの手をかいくぐり、上に乗っていた分厚いベーコンを問答無用で自分の口に放り込む。「頼んだの俺だぞ!」きゃんきゃんわめく声を無視して、今度は自分が机に頬を付けた。
「もー……せっかく平和な気持ちだったのに」
ジェナの一件が過ぎてからの日々は平和であった。
カイトとの接点も偽の恋人になる前とほとんど変わらない回数になったし、最初のデートが効いたおかげもあって、しつこく「本当に付き合ってるの?」と聞いてくる者もいなくなった。いまだに陰でこそこそ言われているのは知っているが、そんなのには慣れているし実害もない。
だから、カイトとの偽恋人の件は頭の片隅に追いやっていたというのに、こんな気分のいい酒場で思い出させやがってこの野郎。
ニーナはじっとりとした目でディオを見上げた。
「ばーか」
「!? なんだよ。ばかって言う方がバカなんだぞ! あ、店長~!」
その発言がバカっぽい。と思いつつ、ニーナはこちらに向かってくる店主を見て頭を起こした。ディオがもう一皿ベーコンの料理を注文している間にメニューを見て、チョコレートの盛り合わせを注文する。甘党のニーナのために用意されたと言っても過言ではないこのメニュー。「お前よく甘いもの食いながら酒が飲めるな」というトナーの声は無視した。
「ベーコンとチョコレートの盛り合わせだな。あ、ところでニーナ、いとこには無事会えたかい?」
ドライフルーツ最後の一切れが乗った皿に手を伸ばそうとしたままの姿勢で、ニーナは動きを止めた。
「いとこ?」
「ああ、昼間に可愛らしい若い女の子に聞かれたんだ。“自分はニーナ・フィントのいとこで、彼女に会いに来たんだけど、どこに行けば会える?”って。いつも見回りに来る時間だったから、その旨を伝えておいたんだが」
ほんの一瞬、ニーナの目が細められた。が、すぐに、ぱっと笑みを作る。
「ああ、実は、今日は会えなかったの。見て、私、仕事中にちょっと転んじゃって怪我してたから、入違っちゃったのかな? もしまた訪ねて来たら、直接隊舎に来るように伝えてくれる?」
「ああ、かまわないさ。怪我は大丈夫かい?」
「ぜーんぜん平気。ありがとう」
店主がカウンターの中に入ったのを横目で見送って、最後の一切れを口に運んだ。やっぱりドライフルーツと酒の組み合わせは最高にいい。口の中に広がる濃厚な甘味に浸っていると、いつもより少しだけトーンを落としたトナーに「ニーナ」と呼ばれる。言わんとしていることは分かる。
口の中に残ったものを飲み込んで、ニーナは椅子の背に体を預けた。
「……いとこじゃない」
ディオが「はぁ?」と口の中に料理を入れたまま、声をあげた。
「どういうことだよ」
「いとこはみんな私が王立騎士団で働いてることを知ってるから“どこに行けば会える”なんて聞かない。みんな私より年上だし」
「……心当たりは」
「一切なし」
ニーナは水滴が浮かんだグラスを持ち上げ軽く回した。溶けた氷で二層になった酒がゆっくりと混ざり合う。
「ま、別に誰でもいいんだけど」
「いいわけあるか」
「敵だったら、ぶん殴るなりバッサリ斬るだけだし」
「お前、本当雑だな」ディオは諦めたように言って、骨付き肉にかぶりついた。
口ではそう言いつつも、ニーナはグラスを回しながら心当たりを探した。
一番可能性があるのは、今日のチンピラの仲間だろう。逆恨みされている可能性は十分にある。“可愛らしい若い女の子”というのが引っかからないでもないが、だからと言って、可愛らしい女の子がああいう人間と付き合いがないと思う理由にはならない。
けれどあのレベルなら、別に何人で来られても対応できる自信はあった。警戒するに越したことはないが、日常生活に支障をきたすほど警戒しすぎる必要はないだろう。
結論を、薄まった酒と一緒に流し込む。
「おい」
「ん?」
トナーの視線が目の端に当たる。その表情が妙に固く、ニーナは思わずグラスを置いた。
「一応気を付けとけよ。俺も、気を付けとく」
「……うん、ありがと。もしもの時は頼むよ」
「ん」
トナーは短く返し、再び食事に手を付けた。
彼があんな表情になってしまうくらいそ深刻そうな顔をしてしまっていただろうかと、ニーナは自分の頬を軽く揉んだ。
***
噂のいとこは、その翌日にやってきた。
昼食を終えたところで先輩に「午後の見回りが始まるまで時間があれば資料室の整理を頼むよ」と言われ、ニーナはトナーとディオとともに資料室へ向かっていた。第2が取り逃した海賊の残党の件は今朝方公式に報告があったが、まだ動きはない。第3としては比較的平和な午後である。
最近ばたついていたので、資料室はあまりいい状態ではない。こういう時に小奇麗にしておかないと、また次はいつ整理できるか分からない。面倒だが、誰かがやらねば。そしてそれは、往々にして、まだまだ下っ端のニーナ達の仕事だ。
というわけでマスクと三角巾まで用意したのだが、廊下を歩いていると、門の守衛が小走りにやって来て「ニーナに客が来ている」と言ったのだ。聞けば、まだ若い少女。礼を言って、すぐに向かうからしばらく待たせるようにと頼んだ。
「……例の“偽物のいとこ”かな」
「だろうな」
三人は顔を見合わせた。
そして腰に携えた剣に自然と手が伸びる。掃除をするなら見回りまで外しておくか悩んだが、今回は外さずにしておいて正解だったらしい。
「なあ、本当に心あたりないのかよ?」
「うーん、本当にないんだよね。昨日の仲間かな、とか一瞬思ったけど……“可愛らしい若い女の子”なんて言われる子が、仲間っていうのものなぁ」
「油断するなよ」
正門前に人影が二つ。ずいぶん身長差がある2人だった。
一人は“気が弱い”という文字をそのまま形にしたような男。体形はどちらかといえば小太り。上等そうな黒いジャケットを羽織り、大きな荷物を両肩にかけている。挙動不審で、視線があちこち行ったり来たりしている。怪しい。
もう一人は、ノックスの店主の言う通り“可愛らしい若い女の子”だった。“噂のいとこ”だ。歳は16かそこらだろう。気の弱そうな男と同じく、一目見て上等だと分かる淡いピンクのワンピースを着ていた。栗色のウェーブがかった長い髪は優雅に揺れ、頬はバラ色、大きな目は宝石のように輝いている。温室の花のような、まさに文句なしの美少女。
そしてやっぱり、ニーナはこの少女に見覚えがなかった。
「こんにちは」
声をかけると、少女はふんわりとしたスカートの裾を翻し、ニーナを見上げた。
「こんにちは。わたくし、ニーナ・フィントという女性を探していますの」
鈴のような可愛い声だった。花が咲いたような笑顔を見ると、警戒心がしゅるしゅるとしぼんでいく。
「あ、わた」
「失礼ですが、どのようなご用件ですか?」
私です、と名乗ろうとしたのをトナーが遮った。少女の笑顔の端が不自然に固まる。
「なぜ?」
「規則です。申し訳ありませんが、来客があった場合は用件を聞くことになっています」
「……先ほどの守衛さんは、そんなこと言いませんでしたわ」
「申し訳ありません。彼はまだ日が浅いんです。で、ニーナ・フィントにどのようなご用件で?」
笑顔が消え、少女の片眉が不快そうに吊り上がる。小さなため息の後、彼女は今までよりもはっきりとした口調で言った。
「……アリシア・ルーエンと申します。後ろにいるのは従者のトトですわ」
トト、と呼ばれた気の弱そうな男は慌てて深く礼をして、肩にかけていた荷物を盛大にぶちまけた。「しししし失礼しました」と裏返った声を上げ、必死に荷物をかき集めている。見かねたディオが手伝おうと一歩足を踏み出すと、少女は「いつものことですわ。お気になさらず」とそれを遮った。
「まったく……話の腰が折れてしまいましたわ。失礼」
「いいえ。で。ルーエンさん、なんの御用で」
「……わたくし、カイト・ディンスター様の、婚約者ですの」
ピシッ。空気が凍る音がした。
両隣の視線が、ゆっくりと自分に向けられる。
ニーナは“コンヤクシャ”の意味が分からず固まった。いや、もちろん婚約者という言葉の意味は分かる。問題はそこではないのだ。
「……婚約者?」
「ええ、婚約者」
「こっ、婚約者?」
「そう、婚約者。あなたしつこいわね! さっきからそう言ってるでしょ! さあ、さっさとニーナ・フィントとかいう女を出して!」
「い、いやぁ……」
恋愛経験はないが、この場面で「どうも、私がニーナです」なんて言えるほど空気が読めないわけではない。どう考えたって今名乗り出ると、場が混乱する。
「いったいどんな女なのかしら。カイト様をわたくしから奪い取るなんて、よっぽどの女なんでしょうね」
「……うっ」
「フォントニアの華と呼ばれるこの私と張り合うなんて、よっぽどの美人じゃないと考えられませんわ。どこのお家のご令嬢なの? こちらに来れば会えるとお聞きしましたが、なにをしている人なのかしら。あなた方、ご存じ?」
フォントニア――レオルゼ王国第2の街の名を出した少女は、目の前で冷や汗をだらだら流す女こそが探し人であるとは、つゆほども思っていないようだ。致し方ない。が、故にディオとトナーは答えあぐねていた。どう答えるのが正解なのかも皆目見当がつかないし、どう答えてもニーナはダメージを受ける気がする。
互いに顔を見合わせ、とりあえずディオが口を開こうとした、その時だった。
「おい、ニーナなにしてる。資料室にいるんじゃなかったのか」
隊長ーーっ!
3人の心の声が見事にハモった。
この上なく悪いタイミングで掛けられた声に、ニーナの肩が大きく跳ねる。
「え、ニーナ? 今、あなたのことニーナって」
「たたたたた隊長! き、奇遇ですねー。ほ、ほら、隊長の婚約者の方がいらっしゃってますよ!」
「婚約者?」
お前何を言っているんだ、というカイトの表情は、少女を見た瞬間に驚きの色に染まる。
「アリシア……」
「っ、カイト様ぁ!」
アリシアはカイトに抱きついた。「お久しぶりですわ!」と見上げる目には、うっすら涙が浮かんでいる。
カイトは一瞬戸惑ったが、すぐに彼女の背に手を回し、「どうしてここに」と尋ねた。
ずいぶん、親し気な様子だ。年齢の差はあれど、文句なしの美形の二人はお似合いである。そこだけまるで絵画のようだ。
「……なぁ」
ディオに脇を小突かれて、ニーナは夢の世界から引き戻されたように瞬きをした。
「え、な、なに?」
「なに? じゃ、ないだろ。どういうことだよ、あれ」
「こ、婚約者だってね」
「婚約者だってね、じゃないだろ! 隊長は、お前の恋人だろ!」
「う、うん。まあ、そうなんだけど」
正直、驚きよりも「そりゃそうだよな」という納得感の方が大きかった。
カイトが不誠実な人間だとも思わないが、あれだけモテれば恋人どころか婚約者の1人や2人や3人や4人くらいいたって、全然驚かない。むしろこの場合、悪いのは嘘に巻き込んでしまった自分だ。彼女はもしや被害者なのかもしれない。ニーナはじわじわと沸き上がってきた罪悪感で痛む胃を抑えながら、どうするべきか答えを探した。
「……隊長」
ふと、トナーがニーナを隠すように、一歩前へ出た。
「どういうことですか」
いつも無表情なトナーの言葉は、今日はより一層冷たい。鋭い視線が、刺すようにカイトを見た。
「婚約者がいらっしゃったなんて、聞いてませんが」
「待て、誤解だ。彼女は婚約者じゃない」
「まあ、ひどいですわ!」
アリシアが縋るように、カイトの上着の裾を引いた。トナーの眉間に皺が寄る。
「彼女、そう言っていますが」
「だから誤解だ。アリシアも、なぜそんなことを言うんだ。いつ君が俺の婚約者になった」
「常識的に考えれば、次は私がカイト様の婚約者でしょう!?」
カイトは深いため息をつき、目元を覆った。
「……父や俺がそれを了承していないだろう」
「でも、わたくしのお父様も“そうなれば嬉しいけれど”と……」
「全て仮定の話じゃないか」
「でも、でも、わたくし以上にカイト様のことを理解できる人間がいますか?! ずうっと一緒にいたじゃありませんか!」
アリシアの訴えは徐々に悲痛な色を持ち始めていた。だから、カイトも困ったような顔をしてはいるが、その手を振り払おうとはしない。
ニーナに、二人の会話の流れや関係性は見えてこない。ただ分かるのは自分が蚊帳の外の存在であることだけだ。きっと二人には何か複雑な、積もる話があるのだろう。ニーナはトナーの袖口を引いた。
「なんか込み入っているみたいだし、一旦隊舎に戻ろ」
「何言って、」
「いいからいいから」
罪悪感もあるし、これ以上ここにいると、余計こじれてしまいそうだと思った。今のうちに消えて、後でカイトの話を聞くのが得策だろう。トナーはいまいち納得していないようだったが、もう一度「いいから」と強く言うと引き下がった。
いまだ何かを話し合う二人に視線を向けたまま、じりじりと後退を始めたところだった。
「とにかく!」
いら立ち交じりのカイトの声と共に、腕が伸びてきた。カイトの手は迷いなくニーナの胸倉を掴み、ニーナは声を出す間もなく舞台に引きずり出されてしまった。目の前では毛を逆立てた猫のようなアリシアが、突然の割り込みに目を丸くしている。
「彼女が俺の婚約者だから!」
一瞬の静寂の後、「なっ!?」と顔を真っ赤にしたのはアリシアだ。そして間髪入れずに
「認めませんわ!」
と叫んだ。
「こ、こんな平凡な女性に、私が劣っているとは思いません!」
「アリシア」
「それに、彼女、騎士団の隊服を着ています! そんな危険な仕事をしてらっしゃる方に、カイト様の婚約者が務まるとは思えません!」
「そっ、そうですよ!」
再び、一瞬の静寂。
今度はその場の視線が全てニーナに集まった。まあ確かに、嘘とはいえ現恋人が、お前など婚約者にふさわしくないと罵られ、「そうですよ!」と力強く肯定するのはいかがなものか。そうは思うが、こればっかりは状況が状況だ。
ニーナは「タイム!」と高らかに宣言し、カイトを近くの植木の影に引きずり込んだ。
「まずいですって」
「まずいのはお前だ。全力で肯定しやがって。お前、自分の立場分かってんのか」
「分かってますよ。でも、恋人と婚約者だと話が大きく変わってきますよ! っていうか、本物の婚約者がいるのに私と嘘の恋人をしているなんて、さすがにダメです」
「だから誤解だ。何度もそう言っているだろう。ともかく、彼女は婚約者じゃないんだ」
「誤解ってどういう」
「お話、終わりまして?」
びくり。二人の肩が跳ねた。
振り返れば、逆光の中で美しいかんばせに青筋を浮かべたアリシアがこちらを見下ろしている。
カイトはもう一度ため息をつき、そっと耳元に唇を寄せた。
「説明は後で必ず。とにかく今は、話を合わせてくれ」
その声が、珍しく弱々しいものだったので、ニーナは渋々立ち上がった。
「あー、とにかく、彼女が婚約者なんだ」
「えー、そうです、私が婚約者です」
「ふーん。そうなんですの。でも彼女、ちっとも嬉しそうじゃありませんわね」
疑いの視線が突き刺さる。
すぐに「うっ、嬉しいですとも!」と返したが、声が裏返ってしまった。カイトの呆れたような怒ったような視線が降り注ぐ。ニーナはもう一度「すごく嬉しいです」と噛み締めるように言った。
「ほら、彼女もそう言ってる。まだ家族には話してないが、次の長期休暇の時にでも、紹介するつもりだ」
ああ……話がどんどん大きく……
種をまいたのは自分だが、ここまで大きくなって大丈夫だろうか。いつかちゃんと摘み取って、なかったことにできるだろうか。
ニーナが遠くを見つめる中、ふるふると震えていたアリシアが、ついに爆発した。
「嫌です……」
「え?」
「嫌です、わたくし、ぜったいに認めません!」
親の敵でも見るような目で見上げられ、ニーナは思わず半歩後退った。
「わたくし、あなたがカイト様との交際をおやめになるまで、ぜーったいに、家には戻りませんわ!」
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