愛について 2
化け物の方がよっぽどよかった、とは口に出さないでおく。そんな命知らずではない。なぜこうなっているのかは分からないが、カイトがかなり苛立っているのだけは分かる。ニーナの口は、無意識に「すみません」の形に動いていた。
「俺は謝れなんて言ってないだろ」
間髪入れずに飛んできた言葉で、ニーナは身を縮めた。
「は……はい。すみません」
「まあ、いい。いつまで地面に這いつくばっているつもりだ。とりあえず立て」
ニーナはのろのろと立ち上がった。部屋の中を見渡す。カイトと嘘の恋人になった時にも使った、埃っぽい資料室だ。
カイトはあの時のように古い机に腰を下ろし、じっとこちらを見ている。話し始める様子はない。ごくりと唾を飲み込む音が、体中に響く。なんだか既視感のある状況である。
重く横たわる沈黙に耐え切れず、ニーナは口を開いた。
「も、戻られてたんですね」
「ああ」
「な、なんか、他の人から、1週間か、もう少し長く出てるって聞いたので」
「寝る間も惜しんで仕事を終えたのに、俺が早く戻ったのが不満か」
「滅相もないです!」
ニーナはぶぶぶと首も首も振った。
はあ、とカイトからため息が落ちる。わけもなくびくりと体が跳ねた。
「……聞いた」
「な、何をですか?」
「俺とニーナが別れたと、王都中で噂になっていると」
その言葉を聞いて、ニーナは小さく飛び上がった。
固く結んだ唇の奥で、「ああああ」と声にならない想いが暴れ回っている。人の口には戸が立てられない。こんな超個人的な話題が、あっという間に広まってしまうというのはいかがなものか。王城勤務や騎士団の人間だったら、守秘義務とかそういうの、あるでしょ!?
なんて、今叫び出すわけにもいかない。ニーナはそれらをぐっと飲み込み、代わりに小さく息を吐いた。
「それは、」
「お前の反応からするに、心当たりがあるんだな」
言葉を遮られ、ニーナはひくりと喉を鳴らした。
「あ、あると言えば、あると言いますか……ないと言えばない気もするし」
「どっちだ」
「……どちらかと言えば、あります」
はあ。またもカイトから重いため息。
ニーナは慌てて弁明した。
「隊長! でも、私は“隊長と別れた”なんて言い方はしてませんから。王城で王女様と話しているときに、まあ、なんというか話の流れで“部下と上司の秘密のロマンスは終わりです”みたいなことを言ってしまって」
「“秘密のロマンス”?」
「なんか、そう言って楽しんでる人たちもいるそうです。で、それを、近くにいたメイドさん達が聞いてたみたいで……」
「そうか。じゃあ、やっぱり元はお前が言ったんだな」
これ以上の弁明は不要だと言わんばかりのカイトの声が、冷たく落ちた。
喉の奥がきゅっと締まったような感覚がして、ニーナは再び唇を固く結ぶ。
「お前は――」
少しの躊躇いを含んだ沈黙の後、カイトは先ほどまでよりも少し落とした声量で言った。
「お前はそんなにもすぐ、この関係を終わらせたくなるくらい、この2か月が苦痛だったか」
「い、いえ、まさか!」
ニーナは叫ぶように言った。
「そんな風に思ったことは一度もありません! 私は」
「俺は、」
カイトは言葉を遮るように言った。
「俺は、正直に言えば、楽しかった」
「――は」
完全に予想もしていなかった言葉に、ニーナは停止した。カイトは話を続ける。
「最初、お前の嘘に乗ったのは、お前への同情と手塩にかけて育てた部下を失いたくなかったからだ。それに、俺に向けられる好意からの盾にもなるだろうという計算もあった」
ニーナはまだ先ほどの言葉の意味を探り続ける脳の端で、嘘の恋人になった日のことを思い出した。カイトはいら立ち、それでも最後は「嘘の通りに行動しろ」と許してくれた。互いに利用し合うような形で、互いに気持ちはなかった。とりあえず表面だけをそれらしくしただけの、嘘の恋人生活の始まりだった。
「もちろん、嘘の恋人として過ごす日々が、面倒だと思ったこともある」
「す、すみません……」
「でも、それよりもずっと、楽しかったんだ」
カイトは机から腰を上げ、一歩、また一歩とニーナへ歩み寄った。
「一緒に酒場や港市に出掛けたり、食事をしたのは新鮮だった。“カイト”と呼び捨てにされるのも、悪くないと思った。アリシアの件では本当に救われた。感謝している。ロシトに行けたのもよかった。ニーナの生まれを知って、一緒に踊って、話して……まあ他にもいろいろあったが、それは今置いておく」
「はあ」
「気の抜けた返事だな」
「い、いえ……なんか、え? 隊長の言っていることの意味を掴み損ねていて、少し混乱しています」
「そうか」
カイトの手が伸び、流れるような動作で自分の指を絡めとっていくのを、ニーナはどこか夢心地で見ていた。
「この2か月間、今まで見たことのなかったニーナの顔を見た。豊かな表情を見ながら、側にいるのは心地よかった。ニーナを通して、新しい自分を見つけたような気持ちにもなった。正直、振り回されていた感もあったけど、それさえも悪くなかったと思う」
絡めとられた指先がもう一方の手で包み込まれ、そのままカイトの口元に導かれていく。カイトの熱を持った息が、ほう、と指先をくすぐった。
「好きだ」
「へっ?」
「嘘じゃなく、今度は本当にしたい」
希うような言葉だった。
カイトの微かに伏せられていた瞼が持ち上がり、視線がぶつかる。金色の目が、真っ直ぐに自分を見ていた。
「今、恋愛をする気がないのは知ってるし、お前に好きなやつがいるのも知ってる。でも、それでも、俺はニーナが好きだ。もう一度、最初から始めないか。友人からでいい。俺がお前を好きでい続けるのを、許してほしい」
何度も何度も、頭の中でカイトの言葉を繰り返す。そのすべてが、同じ解釈へとたどり着く。
どて。
と、ニーナは尻もちをついた。呆然と、カイトを見上げる。急に手を離されたカイトもまた、驚いた顔でこちらを見下ろしていた。
「だ、大丈夫か?」
「す、すみません、こ、腰が抜けて」
自分の顔が信じられない熱を持っているのが、自分で分かった。
ニーナは自分の掌を見た。握って、開く。自分の意思で、手が動く。その手で思いっきり頬を叩いた。痛い。夢では、ないらしい。
じんじんと痛む頬を抑えながら顔を上げると、困惑しきった表情のカイトが手を差し伸べていた。
「な、なにしてるんだ」
「夢じゃないかと。隊長が。私を?」
「夢じゃない」
「影武者とかじゃないですよね」
「なんなら俺の顔を引っ張るか?」
「いえ……そんな……命知らずなこと、」
しませんよ。そう言った声は、ほとんど聞こえなかった。心臓の音が、次第に大きくなっていく。体中を震わせるような鼓動が熱を持ち、全身を駆け巡っていく。
ニーナはぼんやりとカイトの顔を見たまま、ほとんど無意識のうちに言った。
「……すきです、隊長」
「は?」
今度はカイトから間抜けな声が落ちた。伸ばされた手の指先が、驚きで一瞬引っ込む。
ニーナはその手を両手ではしっと握り、離すものかと力を込めた。
「私、すきです、隊長のこと!」
カイトの目は見開かれ、表情は驚きで染まっている。カイトの表情がそうなればそうなるほど、ニーナの頭の中は冷静さを取り戻していっていた。
恋愛経験のない自分でも分かった。今、ここがチャンスだと、全身がびりびり叫んでいる。踏み込むなら、今だと。
「好きです」
「な、え?」
「好きです。過去も含めて、今のあなたが好きです。これからも、隣にいさせてください」
そう言い終わった時、カイトはすっかり固まっていた。まさか告白なんてされるとは、夢にも思っていなかったような顔だ。ロシトから帰るときに言った「好き」は全く伝わっていなかったんだと、悲しいようなほっとしたような気持ちになって、ニーナは肩を落とす。
「一応、ロシトから帰るときにも言ったつもりだったん、です、けど……」
「……っ、お前なぁー」
カイトは何かに気が付くと、額を押さえ、その場にしゃがみ込んだ。
「あんな言い逃げみたいなので、ちゃんと伝わると思うなよ!? 大体、“何が”好き、とも言わなかっただろう。それを聞こうと思ったら逃げ出すし、まさか自分のことだなんて……いや、多少考えもしたが、それでもあれじゃあ分からないだろ!」
「う……た、確かに。そりゃ、そうですね……」
腹に溜まっていたものを吐き出すような深いため息を同時について、顔を見合わせた。月明りだけが差し込む、埃っぽい資料室。床の上に座り込んで、不格好この上ない。ニーナが小さく吹き出すと、カイトも困ったような笑みを浮かべた。
「なんだか、いつもこんな感じですね」
「ほんとに、恰好付かないな」
困ったような笑みを浮かべたままのカイトの手がすっと伸びてきて、自分の目尻を撫でていった。甘い痺れが、触れられた場所に残る。ニーナは、二人の間に流れる空気ががらりと変わったのに気が付いた。
それは、とろりと柔らかくて、剥いたばかりの果物みたいに濃厚に甘くて、陽だまりの中のように暖かい。深く吸い込んだら、酔ってしまいそうだ。
「だから教えてくれ、ニーナの気持ちを、ちゃんと、言葉で」
カイトの言葉に導かれるように、ニーナは口を開いた。
「……私、隊長が、カイトが、好きです。最初は本当に、ただの敬愛でした。だから恋人らしくするのも、すごく変な気持ちだったし、申し訳なかった。でも、いつからか、少しずつ、カイトの今まで知らなかった顔を見る度に、嬉しくなったり楽しくなって、終わりが来るのが寂しくて、ラフィネさんに嫉妬したりもした」
カイトは何も言わなかった。ただ向けられた視線が優しいので、ニーナは迷いなく自分の気持ちを言えた。
「でも、私、今のカイト・ディンスターが好きです。今まであなたを形作ったすべての過去に感謝します。そして今、私たち第3隊の隊長として戦うあなたを尊敬していて、ただ一人の人間としても、とても好きです。これからの未来、側にいたい。カイトのこと、幸せにします」
口に出すと、想いがより一層はっきりと、自分の心の中で形になった。ニーナは無意識のうちに、演説をする人のように胸の前で拳を握っていた。
「……ふは」
少しの沈黙の後、カイトが笑った。その顔が子供のように屈託なく、少しだけ恥ずかしそうで、ニーナは思わず口元を抑えた。「かわいい!」と叫びそうになるのを堪える。
「うん。熱烈な告白、ありがとう」
「いえ……どういたしまして?」
この場合“どういたしまして”と答えるのは適当ではない気もしたが、それ以外に言葉も見つからなかった。
カイトはとろけるような笑顔を作る。
「嬉しいよ、ニーナ」
「……私も、嬉しいです」
「じゃあ、今から恋人同士だな」
「えッ」
「……“えッ”ってなんだよ」
「あ、いや、こんな流れで恋人同士になるんだと思って、少し、びっくりしました。そう……恋人同士なんですか……私たち……」
“恋人同士”!!!!
夢のような言葉が、ニーナの脳内で踊った。が、同時に別世界の出来事のように現実味がない。本当に? 自分が? 隊長と? 恋人同士?
「……なんか、嘘みたい、ですね」
「はぁ?」
「いや、だって……現実離れして、っわぁ!?」
突然抱きすくめられて、ニーナは声をひっくり返した。カイトの髪が頬の辺りを撫でている。この中途半端に宙に頬売り出された手をどうすべきか一瞬考えて、そろそろとカイトの背中に乗せてみる。正解だ、と言わんばかりに柔らかな吐息がカイトから漏れた。
「実感したか?」
「ソ、ソウッスネ……」
「はは。がっちがちだな」
「すみません」
「いいよ。可愛い」
稲妻が落ちたような衝撃だった。ニーナは思わずカイトから体を離した。
一瞬、カイトはきょとんとしたが、すぐに甘い笑みを浮かべた。その砂糖菓子のような表情が自分に向けられていると思うと、ニーナの頬にカっと熱が集まった。恥ずかしさがこらえきれず、顔を逸らす。
また、カイトが笑った気配がした。どれだけ笑われようとも、こういう時どうしたらいいのか分からないから仕方ない。石のようにじっと身を固くして、とにかくこの状況が過ぎ去るのを待つだけだ。
「ニーナ」
名前を呼ばれた。ニーナは小さく肩を跳ねさせた。カイトの声は楽しそうだ。こっち向けよ、の意味だろうが、耳まで真っ赤になっている自覚があった。今顔を上げるわけにはいかない。ニーナはより顔を背けた。
「ニーナ」
もう一度名前を呼ばれた。
今度は手が頬に添えられ、顔を上げさせられてしまう。万事休す。ニーナは恥ずかしさで溶けそうになりながら再びカイトの顔を見た。
目が合うと、世界中から音が消えたように、それ以外のことが考えられなくなった。吸い込まれるように、カイトの顔が近づいてくる。ニーナは呼吸の仕方も忘れて、その顔をじっと見つめた。
「目」
掠れた声でそう言って、鼻先が触れ合う距離でカイトが止まった。ニーナは2度ほど瞬きする。
「……目?」
「閉じろって言ってるんだ。目開けたままキスするつもりか」
「キッ!?」
豪速で現実に引き戻され、ニーナは腕を突っ張って体を仰け反らせた。
「……おい」
「いや、だだだだだって! ちょ、急じゃないですか!?」
「どう考えてもそういう流れだっただろ。それともなんだ。この日にキスしましょうって予定でも決めてするか?」
「そういうわけじゃないですけど! 勤務中ですよ!?」
「安心しろ、俺もお前も退勤済みだ」
「しっ、資料室ですし!」
「それについては共犯だな」
カイトは悪びれもせずそう言った。
即座に、反論しようと動いたニーナの口は、後頭部に回された手で「ヒッ」と情けない悲鳴を上げた。そのまま顔を引き寄せられそうになるのを、首の筋肉を使いなんとかこらえる。
「……往生際が悪いぞ」
「それって、キスする前に言う台詞じゃ、ないと思います」
両者一歩も譲らず。
突っ張ったニーナの腕と、カイトのニーナに回った腕の力は拮抗し、びりびりとした緊張感を生み出した。
普段ならどう考えてもニーナの負けだが、火事場の馬鹿力とはこのことだった。ニーナの腕は今、鉄のように固い。
無言の攻防がしばらく続いた後、「はあ」と落ちたカイトのため息で、空気が緩む。
「……別に、無理にしたいわけじゃない」
しおらしい言葉に、貼りのない声。捨てられた子犬のような目が、なにかを訴えるように自分を見て、ニーナは「うっ」と腕の力を抜いた。
「い……いや、私も、別に嫌とか、そういうわけじゃ」
「いいんだ。気にするな。気持ちを汲んでやれなくて悪かったな。気持ちが急いたんだ」
ついさっきまで岩でもひっくり返すのかと思うくらいの力が入っていた腕が、切れた糸のようにするりと体から離れていった。愁いを帯びた瞳が、名残惜しそうに視線を外し、体がそろりと距離を取る。
「待っ」
ニーナはカイトの腕を引いた。
「……待ってください。大丈夫です。隊長、私、少し気が動転して、恥ずかしかったんです。でも、嫌じゃないです。その……そういうことも、したいと、思います」
「ニーナ……」
震えるような声が名前を呼んだ。ずいぶん積極的なことを言ってしまったし、顔が茹で上がっているいる自覚もあったが、それ以上に、この人に喜んで欲しいし悲しませたくないと思う。ニーナは羞恥を堪えるように唇を噛んで、顔を上げた。
その先で、カイトは笑っていた。口の片端を勝気に吊り上げ、獲物を手中に収めた肉食獣のように。
「へ」
ニーナの口から弛緩した音が落ちた。
「そうか。ニーナもキス、したいのか」
「え、あれ、なんか、捨てられた子犬みたいな、え?」
「俺もしたいよ。ニーナに触れたい」
今度は柔らかな蔦のように両手が背中と首に回り、いともたやすく体を収められてしまった。気が付くと、鼻先が触れ合うくらいの距離にカイトの顔がある。目が合った。金色の瞳の中目を白黒させている自分がいる。囁くような声が鼓膜を震わせた。
「愛しい人、この気持ちに応えてくれないか?」
「なっ……!」
ニーナはカイトに息をかけないよう、できるだけ押し殺した声で文句を言った。
「猫かぶり! 嘘つき! 悪魔!」
べ、とカイトは舌を出した。
「さあ、観念して目閉じろ」
「うぅ……分かんないですけどぉ、“観念しろ”なんてキスするとき言います?」
「どーかな」
心の籠っていない返事に、ニーナは観念した。これ以上の問答は無用だ。多分、キスするまでここから解放してもらえない。
ニーナは目を閉じ、顎先を上げた。すぐそこで、ふっと甘い笑い声が聞こえた。
「好きだよ、ニーナ」
心を満たすこの温かな感情は「好き」だとか「愛」だとか、今この世界にある言葉では言い表せないだろうな。
唇に触れた柔らかな熱に身を任せ、ニーナは、震えるような喜びを全身で感じた。
嘘から始まったロマンスは終わり。今度は、嘘じゃない。
END
『ロマンスなんてくそくらえ』本編、これにて完結です。
ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。
読みにくいところも多々あったと思いますが、少しでも楽しんで読んでいただけたなら嬉しいです。
あと何話か番外編などを投稿して、更新を終わりにしようと思います。
それまでもう少しだけ、お付き合いください。




