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恋人ごっこ 2


「えっ、ニーナ!?」


 今日何度目かのリアクションを冷めた目で見つつ、ニーナは「二人です」と淡々と告げた。


 『ノックス』はニーナの馴染みの酒場の一つだ。店主がいい人だし、お財布にも優しい。そしてなにより昼から営業している。休みには朝昼を兼ねた食事を取りにくることもあるし、夜、仕事帰りに友人たちと寄ることもあった。が、私服で、男性と、二人で来たのは初めてだ。

 くるんと丸まった口髭が印象的な店主は拭いていたグラスを見事に落とし、最近入ったばかりの若い女性店員は、自分ではなく隣の男を見て顔を真っ赤にしつつ口元を抑えている。


「こんにちは」


 先ほどまでの、鬼のような顔はどこへやら。カイトは穏やかな笑みを浮かべ、店主へ挨拶をした。そして、自分を見て顔を真っ赤にする女性店員にも、目くばせし困ったように微笑んで見せる。彼女の顔は、茹蛸のように、ますます赤くなった。


「……店長、二人です」

「え、ああ、す、すまない。まだ空いてるから、ど、どこでも」

「じゃあ奥の席に」

「カウンターにしようか、ニーナ」

「え“っ」


 カウンターは外からまる見えで、店に入ってきた人からもよく見える。なぜ好き好んでそんなところに座らなければいけないのか、と思ったが、これは自分たちが本当に恋人であると周囲に見せるためのデートだ。むしろ見えた方がいいのだろう。カウンターだけは心底嫌だったが、仕方なく同意した。


 席に座ると同時に、ニーナの前には、いつも飲んでいるお酒とドライフルーツの盛り合わせが置かれた。


「驚いたよ、ニーナ。噂は本当だったんだな」

「……そうですね」

「よかったじゃないか、ついに恋人ができて」

「……うん、まあ“っ」

「なんだ、どうした」

「い、いや……なんでも……」


 なんでもなくはない。不思議そうに首を傾げる店主からは全く見えないカウンターテーブルの下で、カイトがニーナの脛あたりを蹴ったのだ。もちろん軽くだが、場所が場所だけに痛い。

 どうやら歯切れの悪い返事が気に入らないようだが、当の本人は穏やかな表情を一切崩さずに、メニュー表を見ていた。


「では、俺はこの酒を。あと適当につまめそうなものを2,3よろしくお願いします」

「あ、ああ……不躾で悪いが、あんた、カイト・ディンスターさんだよな」

「ええ」

「は、伯爵家の方のお口に合うものがあるかどうか」


 いつもの豪胆な店主はどこへやら。レオルゼ王国第2の街を治めるディンスター家のご子息様を前に、彼は困惑しっきりだ。けれど仕方がないだろう。そういうニーナも、さすがに初めてカイトと会った時は緊張したし、どうやって話しかけたらいいのか悩んだから。

 中身を知ってしまえば、それほど緊張するような相手ではないのだけれど、カイトの外面は完璧だ。


「そんなこと、気になさらないでください」

「そんなこと、って」

「こちらの店はニーナや部下達から、王都一おいしい店だ、と聞いています」

「そ、そうかい?」

「俺もぜひ一度、食べてみたいと思っていたんです。ですから、今日はとても楽しみでした」

「そ、そうか。じゃあ、俺の自慢の料理を持ってくるよ。3日前から仕込んでた、煮込み料理があるんだ」

「いいですね。ぜひ」


 流れるように注文を済まし、しばらくするとカイトの前にも酒が置かれた。濃い紅茶の色をしたその酒は、隣国の特産品でもある。ニーナも一度飲んだことがあるが、かなり強い酒で苦みが強い。

 乾杯をして、当たり前のような顔でそれを飲んだカイトを見て、ニーナは少し驚いた。


「お酒、強いんですね」

「そうかな? あまり意識したことはないが」

「それ結構強いですよね。苦いし。トナーから一口貰ったことあるんですけど、一口でギブアップで」


 あの時は、本当に喉が焼けたんじゃないかと思ったほどだ。


「ニーナは、甘いものが好きなんだな」

「あ、はい。苦いのはちょっと」

「意外だ。もっとこう……酒樽を抱えてそのまま飲んでるようなイメージだった」

「え……なんですか。そんな風に見えてるんですか」

「冗談だ」


 カイトは、ふっと息を零すように笑った。安い酒場を背景にしても、まるで絵画のようだ。

 「うわぁ」と出かかった声を、ニーナは寸前でこらえる。すぐ近くのテーブルを拭いていた女性店員は流れ弾に当たり、黄色い声をあげた。


「隊ちょ」

「は?」

「あ、いえ。その、なんでもありません」


 誤魔化すようにドライフルーツをかじり、息をつく。なんて疲れるんだ。心の中で小さく愚痴を言う。好きなお酒の味も、今日はいまいち感じない。


「それにしても、ニーナは随分顔が広いな」

「まあ、見回りに出るんで」

「だが、それだけじゃあんな風に親し気に話しかけられないだろう」


 ノックスに来るまでの間、何度も声をかけられた。「ニーナ! 噂は本当だったんだね」と満面の笑みで握手を求めてくる人もいれば、「ニーナの裏切り者!」と肩を揺さぶられることもあった。「あんたよくも……!」と恨みのこもった目で睨まれることもあった。街の人々に話しかけられるのは好きだが、今日ほど放っておいてほしかったことはない。


「騎士団の隊員は怖―い顔の男の人が多いですからね、女の方が話しかけやすいんじゃないですか?」

「それだけじゃないだろう」


 テーブルに料理を並べながら、店主が話に入り込んできた。


「ニーナは困っている人を放っておけないからな」

「へぇ?」


 カイトがニーナをちらりと見た。


「見回り中でも、見回りが終わったあとも、困った人がいたら助けてくれるじゃないか。そんなもの騎士団の仕事じゃないだろ、ってことまで。迷子の子供を探して街中走りまわったり、古い街灯を直したり。ああ、料理屋の新商品の試食なんかもしてるよな」

「店長、そういうのはいいですから」

「ディンスターさん。あんた、見る目があるよ。ニーナはいい子だよ」


 やめてくれー! 心の中で叫んだ。隣に座っている人はただの上司だから、頼むから店長、そんな娘を自慢する親のような顔をしないで。

 沸き上がる恥ずかしさを飲み込もうと、ニーナはグラスを手に取った。


「知ってます」


 穏やかな声が落ちて、ニーナの手が止まった。声の先を辿ると、カイトがグラスを口元に寄せたまま、柔らかな表情でもう一度「知ってますよ」と答えた。


「ニーナは、いい子です」

「……ああ、そうだ。いい子なんだよ、ニーナは。きっとあんたを幸せにしてくれるぜ」

「ええ、そう思います」


 グラスの中身がカイトの口の中に入り、喉が上下した。あれほど強い酒だというのに、その表情は変わらない。


「ちょっとガサツだけどな」

「ああ、大丈夫です。それも、よーく知ってますから」

「……そうか」


 店長はなぜか泣きそうな顔で笑って、その後「サービスだ!」とたくさんの料理を持ってきた。どれも相変わらずおいしい。おいしいのに、ニーナはその味を、今日はうまく感じることができなかった。

 今は、少しだけあの店員の気持ちが分かる。確かに、あの顔は心臓に悪い。例え、嘘だと分かっていてもだ。


 酒場の支払いは結局カイトだった。ニーナは顔を真っ青にして、「そんなの払わせられません!」と叫んだが、耳元で聞こえた「デートっていうのはこういうもんなんだよ。騒ぐな」という刃物のように冷たいささやきを聞けば、もうそれ以上は何も言えない。


「うう……」

「おい。もっと楽しそうに歩け」

「おごられてしまいました。次の訓練でどんな仕打ちを受けるのかと思うと胃が……」

「お前は俺のことなんだと思ってるんだ」


 外面のいい悪魔。

 という言葉が頭に浮かんだが、口には出さなかった。


 とりとめのない話をしながら、やってきたのは月に一度、港からほど近い場所にある広場で行われる市だ。街の飲食店が小さな店を出したり、異国の商人達が珍しい食品やら装飾品やらを、ところ狭しと並べている。それほど大きくない広場は、人で溢れていた。


「わー。港市なんて久しぶりに来ました」

「俺は初めて来た」

「え……本当に? 王都に住んでて初めて?」

「仕事の休みと被らなかったんでな」

「えー、もったいない」


 とはいえ、ニーナも仕事が忙しく、なかなか市に来ることはない。前回ここにきたのは、もう半年以上前だったはずだ。その時はディオとトナーの3人で異国の焼き菓子を食べた。その土地名産の茶葉を練り込んだというそれは、ほどよい甘さでおいしかった。


「まだ食べられそうですか。前来た時に、おいしいお菓子を食べたので探しませんか?」

「食べられないことはないが」

「甘いもの、苦手ですか」

「……まあ、どちらかといえば」

「知りませんでした」


 ニーナは、はたと気が付いた。そう言えば、この人の私生活のことは、あんまり知らないな、と。

 騎士団での振る舞いはよく知っているが、じゃあ仕事以外の時に何をしているかだとか、何を好んで食べているだとか、趣味はあるのかとか、どこに住んでいるのだとか、そう言ったことは一切知らないのだ。よくそんな相手を“恋人だ”と言ったな、とあの時の自分に呆れるしかない。


「隊長」

「あ?」

「あ、いえ、すみません。その、えー、カイトさんは」

「さん?」

「……カイト……さんは」


 カイトの刺すような視線は痛かったが、今のニーナにはこれが精一杯である。

 カイトはしばらく不服そうにニーナを見下ろしていたが、ついに諦めたように「続けろ」と短く言った。


「秘密主義ですか?」

「はぁ?」

「いえ。私、仕事以外の場面のことあまり知らないし、他の隊員と飲みに行ったり私生活で会ってるっていう話を聞いたことないので」


 微かに眉の間に皺が寄ったのを見て、ニーナは失言だったかな、と思った。カイトは視線を逸らし、唇を結んでいる。「すみません」と言いかけたとき、


「そうだな」


 と薄く開いた唇の隙間から、カイトが小さく言った。


「仕事以外のことを、考えたくない」


 それは、活気ある客引きの声や人々の笑い声にかき消えそうなほど弱く、いつも自信たっぷりな彼から吐き出されたとは思えないような小さな声だった。

 ニーナは静かに、カイトを見上げる。遠くを見る視線は、まるで迷子の子供のようだった。


「あの……」

「おーい、そこの顔のいいお兄ちゃん!」


 よく通る声が飛んできて、カイトは振り返った。

 さすが隊長。“顔がいい”と言われて当然のように振り返るなんて、普通はできない。尊敬すべきなのか、呆れるべきなのか。

 一瞬流れた不穏な空気がまだ引っかかってはいたが、ニーナは笑顔で手招きする店主の元に向かうカイトの背を追った。


「おお! 近くで見ると尚更イケメンだな」

「どうも。こちらは宝飾品を扱っている店ですね」

「そうだよ。ロンツ王国、ギーヴ特産の鉱石をアクセサリーに加工したものさ。後ろの可愛らしい彼女さんに一つどうだい?」


 笑顔を向けられ、ニーナは一瞬固まった。

 昼食をおごってもらった挙句、アクセサリーを買ってもらうなんて、精神衛生上悪すぎる。


「け、結構で」

「そうだなぁ、ニーナ」


 断ろうとした手を引かれ、半ば強引にカイトの隣に立たされる。逃げられないように、肩にはばっちりと腕が回されていた。すぐそこにある、いい笑顔のカイトを見て、ニーナの背中にはじっとりと汗が浮かんだ。


「どれが欲しい?」

「い、いえ、私アクセサリーは付けないので」

「だから買ってやろうって言っているんだ。さあ、どれがいい。欲しいもの、どれでも言ってごらん」

「いい彼氏だなぁ。ささ、お嬢ちゃん。どれでも好きなものを選んでくれ。このあたりのは、特におすすめだよ」


 商魂たくましい店主が指した場所に並ぶのは、どれも高級なものばかり。どれにも美しい大きな石がついていて、他のものとはゼロの数が一つ違う。


「い、いやー。そんな大きな石のやつは……」

「じゃあこのネックレスはどうだい? シンプルなデザインだし、石もあまり目立たないが、一級品だ。普段使いにも、パーティーなんかにつけていってもいいぞ!」

「い、いえ、私は」

「じゃあこれを一つ」


 まるでクッキーでも買うような気軽さの言葉に、ニーナは焦りを隠せなかった。「まいど!」と、鼻歌交じりに商品を用意する店主が後ろを向いた瞬間に、失礼だとは思いつつカイトの腕を強引に引いて耳元で小さく叫ぶ。


「値札見えてます!?」

「見えてるさ。ニーナに似合うと思ったんだ。お金は大した問題じゃないよ」

「余所行きの顔で話すのやめてください!」

「余所行きの顔ってなんだい?」


 こういう時はなにを言っても無駄である。言いたいことはまだあったが、ニーナは渋々それを飲み込んで、代わりにその腕からすり抜けた。ささやかな抵抗である。

 仕方ない。お金は後で返そう。そう思いながら、必死に預金残高を思い出していると、「ニーナ」と名前を呼ばれる。振り返れば、目が眩むような素晴らしい笑顔のカイトが、留め具を外したネックレスを両手で広げこちらを見ている。


「つけてあげよう」

「いや、あの、お金……」

「さあ、ニーナ」

「あのですね」

「……つけろ」

「はいっ」


 笑顔を崩さないまま、不意に落とされる氷のようなつぶやきに抵抗できる人間がいるならば教えてほしい。ニーナは骨の髄まで叩き込まれた部下根性でピシっと姿勢を正し、カイトの前に立った。

 満足げに笑みを深めたカイトの腕がニーナの首元に回る。顔が自然とカイトの襟元に近づき、ほんのりと甘い香りが鼻先をくすぐる。心臓がドキドキしているのはその香りのせいなのか、それともこんな高価な物を買わせてしまい、あまつさえつけさせているという罪悪感から来るものなのか。


「うん。悪くない」


 体を離し、カイトは満足げに頷いた。

 ニーナはもうげっそりである。その疲れは訓練の後の比ではない。


「……生き生きしてますね」

「そうだな。実に楽しい。普段は必要最低限のものにしか出費しないんだが、たまにはこういう衝動的な散財も悪くない」


 カイトは体を大きく伸ばし、周囲をぐるりと見まわした。


「ここの商人達は俺のことを知っている者も少ないようだし。値引き交渉などに挑戦するのもまた一興だろう」

「隊長、“値引き交渉”なんて言葉知ってたんですね」

「馬鹿にしてるのか。行くぞ、ニーナ。面白くなってきた」

「私は全然面白くないですよ!」


 ニーナ渾身の叫びは、見事に無視された。



 それからニーナは、市のありとあらゆる店を見て回り、カイトの買い物に付き合った。菓子や食品類は未だしも、絶対に使わないでしょうと言いたくなるような織物や工芸品にまで手を出し始めた時はさすがにニーナも止めた。

 カイトはどうやら買い物よりも、店主との会話や値引き交渉が楽しくなっているようだった。時には巧みな話術で、また時には雨に濡れた子犬のような困った笑みを浮かべたり、砂糖菓子のような甘い笑みを浮かべたりして、値引き交渉を成功させていた。成功させるたび、子供のように歯を見せて笑うので、どうにも憎めない。

 空が半分夜の色に染まり、岐路に着いた頃には、カイト腕には大きな袋が二つ吊り下げられていた。


「いっぱい買いましたね。どうするんですかそれ」

「食い物は食うし、それ以外のものは……まあ、記念に取っておくさ」

「なんの記念ですか」

「もちろん、初デートの記念さ、ニーナ」


 耳元で聞こえたはちみつのような甘いささやきに、ニーナはじっとりとした視線をカイトに向けた。


「……隊長って」

「あ? 何、隊長?」

「あ、いえ、……っカ、イト、って」

「声がひっくり返りすぎだろ。それになんだ、顔真っ青にして。普通そこは顔赤くするところだろ」

「いや、隊長の名前を呼び捨てにするなんて怖すぎて」

「別に怖くないだろ。で、なに」

「いや、すっごい今更ですけど、隊長って自分の顔がめちゃくちゃいいこと分かってますよね」


 カイトは足を止め、虫でも見るような目でニーナを見下ろした。


「な、なんですか」

「お前、ほんとに今更だな。どう考えたって俺の顔はいいだろ」

「うわ。よくそんなこと平然と言えますね」

「顔がいいからな」


 普通なら思わず二度見するような、くっさいセリフだが、この顔で言われると納得せざるを得ないのが少し悔しい。

 カイトは再び歩き始め、ニーナはその後ろを小走りに追いかけた。


「顔がいいと得だろ」

「え! まだ自分の顔のよさについて話すつもりですか」

「そうだな。うらやましいだろ、ニーナ」

「いや、そりゃあ……多少うらやましいですけど」


 ニーナはどこか呆れたようにそう言って、顔を上げた。見上げるのは暖かい色味の街灯。そしてその遥か奥、深い夜の空に浮かんだ月。息を吸うと、昼間よりもずいぶん冷たくなった空気が肺に流れ込んでくる。


「でも、隊長のよさって別にそこじゃなくないですか?」


 踊るような笑い声の中をすり抜けるように歩きながら、ニーナは続けた。


「もちろん、顔がいいのに越したことはないんでしょうけど、それは隊長の一番いい所じゃないし、隊長のこと信頼してる人たちにとってそれは別にどうでもいいっていうか……隊長のよさっていうのはもっとこう、悪魔のような仕事の振り方しつつも部下思いのところとか、目的のためなら手段を選ばない感じとか」

「へー」

「外面がいいのに執務室で聞くに堪えない悪態ついてておもし、ろい……ところ、とか? え、えへへ」


 気が付くと自宅のアパート前で、そしてカイトの神様に愛された顔に完璧な笑みが浮かんでいる。これはよくない方の笑い方である、どうやらご機嫌を損ねてしまったようだ。笑って誤魔化せないかと思ったが、誤魔化せなかった。

 ニーナは咄嗟に周囲を見渡した。が、さっきまでの喧騒はどこへやら。遠くの酒場前に、ちらほら人影が見えるが、助けを求めるにはいささか遠すぎる。

 やばい。と思うと同時に、いつかと同じように顔を思いっきり掴まれた。ただし前回と違うのは、口が完全に手の平で覆われて声が出せないことだ。そう。グーパンチが飛んで来ようと、顔に似合わない石頭で頭突かれようと、声が出ないのである。


「……ずいぶんよく、俺のことを見てるんだな、ニーナ」

「ふんふぁほほ」


 そんなこと。と言おうとしたが、音は意味をなさなかった。


「お前が俺のことをどう思ってるか、よーく分かったよ」

「あばばばば」

「そう、俺は外面はいいんだ。だが、その分、どうしてか、お前らの前に立つと少し乱暴になって、いけないよなァ」

「ひ、ひいいいいい」


 ずいと顔を近づけられ、ニーナは来る衝撃に備えて目を固く閉じた。

 が、衝撃はいつまでたっても来なかった。恐る恐る薄目を開ける。雲が月を隠し、闇が男の表情を隠した。


 唇が、そっと額に落とされる。


「……おやすみニーナ、いい夢を」


 その時、カイトがどんな表情をしていたのか、ニーナには分からなかった。けれど自分がどんな顔をしているのかは、なんとなく分かった。きっとノックスの店員のように、茹蛸のような顔をしているはずだ。


「明日、遅れないように」

「あ、は……はい」


 口元を覆っていた手が離れ、何事もなかったかのようにカイトは去っていった。

 再び月の明かりが地面を照らした時、すでにカイトの姿はない。ニーナはよろよろと自分の部屋に戻り、部屋のドアを閉める。体の力が抜けて、背中をドアに預けたまま、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。

 顔の熱は冷めない。膝に頭を押し付けながら、朝家を出た時から変わらないままの部屋の中を見る。ベッドの上には、迷いの数だけ散らばったワンピース。


「……死ぬかも」


 茹蛸になって、死ぬ。

 もう二度とデートはしない。ニーナは固く心に誓った。今日のデートで街の中の人たちも、私たちが恋人だと思ったはずだ。これで変な疑いをもたれることはないだろうから、これ以上のデートは必要ない。

すごいな。世の中の女の子達はこんな思いをしながら恋愛してるのか。尊敬する。


 ――コンコン。


 その時だ。ドアが軽くノックされた。

 時間が時間だけに無視しようとも思ったが、ノックはしつこい。しばらくの葛藤の後、ニーナはドアを開けた。瞬間、見慣れない靴が隙間に滑り込んでくる。


「はぁい、ニーナ」


 栗色の髪に、勝気な釣り目。彼女の男性のように短かった髪はいつの間にか肩あたりまで伸び、その身を包むのは漆黒の隊服ではなく、ゆとりある赤いワンピースだ。


「ジェナ」


 名前を呼ぶと、元同僚は、意味ありげな笑みを浮かべた。


「ちょっと、話、聞かせなさいよ」


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