カイト・ディンスターの見た夢 3
体の弱い女性だった。
医者の見立てでは、大人になるにつれ丈夫になっていくとのことだったが、年を重ねても彼女は病気がちで、1年のほとんどをベッドの上で過ごしていた。
「……ラフィネ」
名前を呼ぶ声が震えた。カイトはその場に立ちつくし、懐かしいその姿をただ見た。
会えなくなってもう何年も経っていることを忘れるくらい、色鮮やかなまま、彼女はそこにいた。
「ラフィネ……」
「カイト、どうしたのそんなところで突っ立って。ほら、ここ座って」
ラフィネは不思議そうに首を傾げ、ベッドの端をぽんぽんと叩いた。そんななんでもない仕草を見て、カイトは目の奥が熱くなった。泣きそうだ。振り払うように頭を振る。これは夢だ、と何度も頭の中で呟いた。
――けれど、夢にしては……
カイトはもう一度部屋の中を見渡した。
――あまりにも、鮮明だ。
毎日のようにこの部屋に入り浸り、彼女と過ごした。
寂しさや息苦しさから逃れるようにこの部屋にやってきて、このベッドの上二人で本を読んだり、くだらない話をしたりした。ラフィネはなにを話しても、興味深そうに聞いてくれた。外のことを知るのが楽しい、と。
「ラフィネ……」
カイトはよろよろと、記憶の糸に引っ張られるように部屋の中に進み、定位置だったベッドの端に腰を下ろした。
「さあ、カイト、今日はどんな話を聞かせてくれるの?」
ラフィネは読んでいた本を閉じて、こちらに体を乗り出した。
「……話、を、聞きたい?」
会話が久しぶりすぎて、どうやって話したらいいのか分からない。カイトの言葉は、なんども引っかかりながら、やっとのことで口から出た。
「ええ。聞かせて。私、まだこの部屋から出させてもらえないのよ。もう熱はとっくに下がっているのに、お父様が“ダメだ”ってうるさいの」
「みんな、ラフィネが心配なんだよ」
「それは分かってるわ。でも本ばかり読んでいても退屈なの。分かるでしょう? さあ、話を聞かせて。もう本棚の本は読みつくしてしまったし、次の本が届くまでまだ2日くらいかかるんですって」
――だめだ。
カイトは片手で顔を覆った。本当に泣いてしまいそうだった。
こんな会話を、あの時どれくらい繰り返しただろうか。彼女の鈴のような声も、退屈なときに尖らせる唇も、なにもかもがそのままだ。こうして俯く自分の背中を擦りながら「どうしたの? また家庭教師の先生に嫌なことを言われたの?」という言葉まで。
「ち、違うんだ……大丈夫」
「そう?」
カイトは深く呼吸をして、顔を上げた。ラフィネと目が合うと、不安げだった表情がふっとほどけ、優しく微笑まれる。なにも変わらない。いつもの笑顔。
「じゃあ、聞かせて」
「……なにから話せば、いいのか……」
「なんでもいいの。最近の騎士団ではどう? すっかり大人の男の人の顔になっちゃったのね。隊長になって随分経つもの、当然と言えば当然だけど」
「え?」
「恋人ができたとも聞いたわ。どんな子なの?」
血が冷えていくように、現実に引き戻された。
カイトはラフィネを見つめる。最後に会った時のまま、少女の姿でラフィネは微笑む。
ああ、やっぱり夢なのだ、と痛いくらい理解した。
「…………騎士団では」
夢だと理解すると、少し冷静になれた。涙も引っ込んだ。これは妄想だ。自分の願望が作り上げた、妄想。少女のままの彼女と、騎士団の隊服を着てすっかり大人になった自分。
カイトはラフィネに向き直り、静かに話し始めた。
「慌ただしく過ごしてるよ。毎日あちこち駆り出されて、すっかり仕事漬けだ」
「そう。上手くやってるのね」
「まあ、そうだな。上手くやってると、自分では思ってるよ。尊敬する上司も、気の置けない仲間も出来たし、信頼できる部下もいる」
「素敵ね!」
ラフィネは両手を顔の前で握って、にぱりと笑った。
「本当によかった。心配してたのよ。カイトは時々手紙をくれたけど、それだけじゃ分からないことも多いから。ほら、あなた、かっこつけだし」
「かっこつけって」
どこかで聞いたような台詞に、思わず苦い笑みが漏れた。
見習いになり王都に出てから、何通も何通も手紙を書いた。最初は見栄を張り“全て順調で余裕”とか書いていたな、と思い出す。そんな薄っぺらい嘘は、ラフィネにはお見通しだっただろうけど。
カイトはゆるりと微笑み、当時の、ラフィネと歳の変わらない頃の自分を想った。なにもかもに必死で、前ばかり見ていたころの自分を。
「恋人は?」
ラフィネは聞いた。
カイトは面食らった表情で、ラフィネを見る。真っ直ぐにこちらを見る目には、嫉妬だとかそんなものは見えない。そんなさっぱりとした表情をされてしまうと、少々傷つく。ささやかな抵抗が沈黙となり、カイトは一呼吸置いてから言った。
「……いない」
「まあ……」
ラフィネは心底残念そうに肩を落とした。
「でも、」
カイトは穏和な声で続けた。
「気になる女性はいる。多分、好意のようなものを抱いている女性が」
自分でも不思議なほど、するりと言葉が出た。言葉にすると、今まであやふやだった気持ちに形が与えられ、理解する。
ああ、そうか。俺はニーナに好意を抱いているのか、と。
「まあ!」
一転、ラフィネは目を輝かせた。
「どんな方なの?」
どんな方、と聞かれると、悩ましい。
カイトは窓の向こうに目をやって、ニーナのことを思い浮かべた。
窓の向こうには、懐かしいフォントニアの景色が広がっていて、思わず目を細める。そういえば最近、故郷に戻っていないな。
黙り込んだカイトに、続きを催促するようにラフィネは聞いた。
「変わってる方なの?」
「変わってる……そうだな。変わっていると思う。騎士団に正式入隊する女性は大抵変わり者だ。ニーナも、世間一般から見たら、変わり者だと思う」
「あら。でもいいじゃない、変わり者。私、好きよ」
ラフィネはくすくすと笑った。
「変わり者の人は、信念がある人が多いから」
「確かに」
カイトもつられるように小さく笑った。
「ニーナは不器用なところもあるし、少し向こう見ずで弱い所もあるけど、頑固で真っすぐで、一つのことを貫けるやつだな」
カイトの脳裏に、偽りの恋人期間だけでなく、今まで過ごしたニーナとの日々が浮かんだ。切り取られた一瞬一瞬が色鮮やかで、泣き顔も怒り顔も不貞腐れた顔も焦った顔も、なにもかもが尊く、輝いている。でも、やっぱり最後に浮かぶのは笑顔で、その顔が一番好きだと思った。
今まで、そんなこと思いもしなかったのに。
気持ちを言葉にすると、過去のなんでもないような日々が、とても美しい極彩色に塗り替えられていくように感じた。
「ニーナを見てると眩しい。失敗したり挫折したり悩んだりしながらも真っすぐに、命を燃やすみたいに生きて、いつも輝いてる」
そういう彼女をずっと見ていたいし、側にいたい。
「多分、そういうところを好ましく思ってるんだと思う」
カイトは言い切って、ラフィネを見た。夢の中で、元婚約になんて話をしているんだろうと思う。けれど、ラフィネはそんなことを怒りもせず、悲しみもせず、ただただ優しい表情でこちらを見て、静かに一度頷いた。
「いい人に出会えたのね」
「そう思うよ」
「よかった。本当に、よかった」
ラフィネは噛み締めるように言って、窓の向こうを見た。
同じく窓の向こうに目を向けた。景色の遠くが白んでいる。直感的に、夢の終わりが近づいているんだろうと、カイトは理解した。
「……ねぇ、カイト」
「どうした?」
「私、カイトのこと恨んでなんかないのよ」
「急にどうした?」
「ほら、あの手紙のことよ」
それが、ラフィネから残された最後の手紙を指しているのだと、カイトは少し遅れて気が付いた。
「気にしてるんじゃないかと思って」
「そりゃ、あんな風に書かれたら……」
“私のことは忘れて、広い世界で、幸せになってね。”
あまりにあっさりした、別れの手紙。別れの言葉には短すぎるそれが、ずっと、頭にこびりついて離れなかった。カイトは手を強く握りしめた。
「俺は、あれを、どう受け取っていいのか、分からないんだ」
ラフィネは「あちゃー」と緊張感のない声を出し、自らの額を軽く叩いた。
「本当に、心の底から誓って、あの手紙に他意なんてないの。いつも、自分は長くないと思って生きてきたから、言いたいことはその場で言うようにしていたし、手紙に残すことはほとんどなかったのよ」
窓の外の景色はすっかり見えなくなっていた。白く塗りつぶされた果てのない空間が、ただ広がっている。
「カイトは私の冒険だった。いつも一人、このベッドの上でガラスの向こうの空を見る私がどんな気持ちだったか、あなたは知らないでしょう? 私はいつも寂しくて、怖くて、孤独だった。あなたがドアをノックして部屋に入ってきてくれて、外の話をしてくれて、たくさんの手紙をくれて、本当に嬉しかったの。あなたを通して、たくさんの世界を見たわ。私、あなたのこと、大好きだった」
ラフィネはたおやかに笑ってみせた。
「だからあれは私の最後の願い。カイトには幸せになって欲しかったの。世界で一番、幸せな人間になって欲しかった」
だから私のことは――、と続きかけた言葉を遮るように、カイトはラフィネの手を握った。小さい手だと思って、すぐに自分が大きくなったんだと思い直した。剣を持ち続け、皮が厚くなったこの手に少し力を入れたら、小さな手は折れてしまいそうだ。
壊れ物に触れるようにそっと、その手の甲に口づけを落とす。
「俺は、」
ラフィネの目を見た。少し垂れた目が、まあるく開きこちらを見ている。
カイトは忠誠を誓う騎士のように言った。
「俺はラフィネのことを忘れない。誓って、死ぬまで絶対に忘れない」
どれだけ悲しくても、やりきれなくても、心の中にいつも存在を感じていた。残されたあの手紙を見てから一度だって、“ラフィネを忘れよう”と思ったことはない。忘れようと思って忘れられるような、易い愛ではなかった。
「でも……でも、安心してくれ。俺は今も幸せで、これからも、もっと幸せになる。ラフィネを忘れなくたって、ちゃんと前を向いて生きている。きみの存在が心の枷になることは、未来永劫ない。俺は、ラフィネに出会えて、感謝しかないんだ」
夢の終わりが近い。部屋の窓や家具の輪郭が溶け合い、混ざり合って白くなっていく。こんな夢を見ることも、もうないだろうとも思う。カイトは握った手を、今度は祈るように額に当てた。
「ありがとう」
「……私こそ、どうもありがとう」
最後に、ラフィネの顔を見ることはできなかった。世界は白い光に包まれ、もうなにも残っていない。けれどきっと笑ってくれただろうと思った。
目が覚めると、頬が濡れていた。
見慣れない天井は、宿屋のものだ。
カイトはゆっくりと体を起こし、自分の掌を見下ろした。手にはまだ、あの華奢な手を包んだ感覚が残っている。それを抱きしめるように、カイトは背中を丸めた。
どうしようもないほど理解した。こんな風に、ありもしない想像を夢に見て救われるほどには、もう彼女との出来事は過去になってしまっているのだと。
窓の向こうでは、空が白み始めている。
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