あなたはわたしの光 3
腕が体から離れた後、カイトがこちらに背を向けしゃがみ込んだのを見て、ニーナは首を捻った。
どうしたんだ。急に気分でも悪くなったのだろうか。捻った首は「早く乗れ」というぶっきらぼうな言葉で、さらに捻られた。
「え? の、乗れ? ど、どこにですか?」
「……背中にだ」
「いや……いやいや、隊長の背中に乗るわけには」
「足、痛いだろ」
そう言われて自分の足を見れば、ハイヒールで森の中を走りまわったり戦闘したりしたつけが、あちらこちらで血となってにじみ出ていた。とはいえ、今言われるまで痛いなんて微塵も思わなかった。だから別に、
「“大丈夫”じゃないよな」
「え?」
先を読んだようにカイトが言った。
「“大丈夫”じゃないよな」
いいからとっとと乗れ。
最早脅迫のような響きの言葉に抗う術など、ニーナは持っていない。しばしの葛藤。が、結局首を縦に振るしかなかった。
そろそろとカイトの背中に乗る。男女の体の差は理解しているし、カイトが自分よりもずっと力があることも知っている。けれど、筋肉の申し子のような人ではない。決して軽くはない自分の体を預けるのは申し訳ないこと極まりなかったが、あっけないくらい簡単に背負われてしまった。
月明かりが照らす夜道を、静かに進む。まだフィント家は遠い。パーティーの賑やかさは、ここまでは届かない。足音は一つ。カイトの呼吸の音が、よく聞こえた。
ニーナは、へぶし、と間抜けなくしゃみをした。よりにもよって、こんな時に、こんな間抜けなくしゃみ。自分の空気の読めない体に泣きたくなっていると、今度はぶるりと体が震えた。すっかり水分を含んで重くなったドレスが、体に張り付いて気持ち悪い。そして、そんな濡れ鼠の自分を背負わせてしまっているのも申し訳なく、ニーナは自分を背負って歩くカイトの後頭部に向かって、何度目かの謝罪をした。
「すみません」
カイトは振り返らない。けれどなんとなく雰囲気がピリついている。まだ怒っているのだろうか。居心地の悪い沈黙を誤魔化すようにニーナは話を始めた。
「重いですよね。いや、さっき軽いって言ってくれましたけど、やっぱり。ほら、今、服が水を吸ってさらに重くなってるって言うか。全然、脱ぎますよ私。ちゃんとインナー着てますし。へへ、なんちゃって」
最後に軽い冗談を付け加えたつもりだったが、カイトには響かなかった。それどころかだだ滑りだ。恥ずかしい。
沈黙はますます居心地の悪い、緊張感を伴うものになり、ニーナは視線をあっちへこっちへ迷わせながら話題を変えた。
「あー、あの、あれですよね。家の窓、割れちゃってましたよね。どうやって誤魔化しましょうかね」
返事はない。胃がずんと重くなった。
「パーティーもう終わっちゃいましたかね。せっかく選んだプレゼントなのに、渡し損ねちゃいましたね……すみません」
自分で言って、改めて落ち込んだ。
何もかも空回りしている気がする。パーティーだけじゃなくて、あの時、父の問いかけにカイト・ディンスターという名前を出した時から、ずっと。
自分勝手な嘘で、カイトを巻き込んで、トナーを傷つけて、結局パーティーもまともに参加できなくて。なにもかも空回りだ。
水を含んだドレスが、ますます重く感じる。母のドレスだって結局、汚してしまった。
どこまでも、恰好付かない自分が情けない。
そんな自分の気持ちを代弁するかのように、カイトの口から重いため息が漏れた。
「すみません」
反射的に出た、もう何度目か数えるのも億劫なニーナの謝罪をはねのけるように、カイトが口を開いた。
「別に怒ってない」
「ほ、ほんとうに……?」
「ああ。お前は、そういうやつだよな、って改めて思ってただけだ」
「そういうやつ」
「かっこつけってことだよ」
一瞬、言葉に詰まった。ニーナは狼狽えを隠し切れない声で「……え?」と聞き返した。
「か、かっこつけですか?」
「なんだ、その反応。今まで知らなかったのか」
カイトはちらりと振り返った。目が合うと、揶揄するような笑みを浮かべ、またすぐに前に向き直ってしまう。
「お前はかっこつけだ。なんでも自分で解決できるみたいな顔しやがって」
「……も、申し訳ありません」
結局また、口癖のように謝罪がするりと口からこぼれた。カイトは呆れたように笑って、また「別に謝ることじゃない」と言った。「はぁ」と気の抜けた返事をしたところで、ニーナは改めて先ほどの言葉を思い出す。
――かっこつけ。
お、落ち込む……
項垂れると、追い打ちをかけるように言葉が続いた。
「いいかニーナ、よく聞け。俺はお前を、器用な人間だとは思わない」
「う……まあ、器用な方ではないですけどぉ」
「天才的な何かがあるわけでもないし、いつも必死だ」
「そうですが……」
「そのくせ、かっこつけ。それで様になってるときもあるけど、今回は空回り。周りでどれだけひやひやしてる人間がいるか知ってるか?」
「……隊長ぉ」
これ以上は聞いていられなくなって、ニーナは懇願するようにカイトの肩を持った。
「もう分かりました。反省してますって」
「でも、」
「えぇ~……」
結局、話は続くらしい。こちらの反応を完全に無視して話を続けようとするカイトを一度睨んではみたが、当然こっちの表情が見えているわけではない。ニーナはもう諦めた。視線を逸らし、森の木を見る。緑はリラックス効果があるとかないとか、誰かに教えてもらった気がする。これは空回りを続ける自分への罰のようなものだ。甘んじて受けようじゃないか。
「でも、」
カイトはそこで一度言葉を切り、深く息を吸った後、再び話を続けた。
「ニーナのそういう姿に、みんな勇気をもらってる」
「…………え?」
予想とは180度違う言葉に、ニーナは戸惑いがちに視線をカイトの後頭部に戻した。その首筋を、髪から垂れた水滴が流れていく。
「ニーナは器用じゃないし、天才的ななにかもない。それなのに、かっこつけで、何でも自分で出来るみたいな顔してる。でも、だから誰よりも真っ直ぐ努力を続けられるし、誰かのために自分を犠牲にするのに迷いがない。今まで、嫌な思いをしたり、辛い思いだってしてきただろ。それでも、折れなかった。強い人間だよな」
一呼吸置いた後、柔らかな言葉が続く。
「そうやって生きるニーナの姿を見てると、不思議と、自分の人生が肯定されたような気になるんだ。勇気をもらえる。この仕事をしていると、誰にだって心が折れそうな瞬間が来る」
情けなくて、人には言えないけど。カイトは小さく笑って、付け加えた。
「……隊長にも、そういうことがあるんですか」
「あるに決まってるだろ。俺をなんだと思ってるんだ」
一瞬振り返ったカイトと目が合う。呆れたような笑みを口元に浮かべ、すぐに視線は前方へと戻った。ニーナの目には、また、カイトの後頭部だけが映る。少しずつ乾き始めた、髪が微かに跳ねているのが見えた。それがゆらゆらと、歩調に合わせて揺れている。
「……そういう時、誰かのがんばりや生き様が、勇気をくれる。強い光みたいに、導いてくれる。ニーナは俺にとって、そういう存在だ。いや……きっと、みんなにとって、ニーナはそういう存在なんだろうな」
揺れる毛先が、なぜか、泣きたくなるほど愛おしい。
ニーナは無意識のうちに、カイトの肩に添えた手に力を込めていた。
「だから、あんまり、なんでも自分一人でなんとかしようとか思うなよ」
隊長。と、呼んだはずだったのに、喉が掠れて声が出ない。
「ちゃんと周りを見れば、味方は思ってるよりも、ずっと多い。格好つけなくたって、ニーナはずっと、格好いいよ」
ニーナは天を仰いだ。
空はいつもと変わらずそこにあり、夜は今日も暗い。濡れたドレスはまだ乾かないし、顔も髪もぐちゃぐちゃで、傷跡を隠していた化粧も取れてしまった。
月が静かに浮かび、星が瞬いている。
世界は何も変わらないのに、今、目に映るすべてが、なにもかもこの上なく美しく見えた。
思えば、泥の中を、もがくように進んできた人生だった。
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