あなたはわたしの光 2
「……は?」
あまりに突拍子もないベルロスの説明に、カイトはこの場にそぐわない間の抜けた声を出した。一瞬ゆるんだ腕の力を目ざとく見逃さなかったベルロスがばたついたのを、再び床に押し付け、もう一度聞き返す。
「お前が、言った?」
「そう言っただろ!」
やけくそに、ベルロスが叫んだ。
「鉱石の流通に関する権利を自由にしたかったんだよ! だからニーナ・フィントと結婚して、上手く取り入ろうと思ったのに……なのに、あの女が断りやがったから、僕が“ニーナ・フィントがカイト・ディンスターと付き合っていると言った”って噂を、あの男に頼んで流させたんだよ! そうして騎士団で立場がなくなったあの女が弱ったところでもう一度声をかけて、今度は上手く関係を作るはずだったのに!」
この説明を聞くのは2回目だったが、カイトはうまく理解できずにいた。
この男が、目の前で地面に押し付けられて顔を歪めている男が、この嘘の恋人関係を始めることになった原因だと? じゃあニーナが両親に咄嗟についた嘘は何だったんだ。ニーナのついた嘘と、この男が流した嘘の噂が合致する……こんな……こんな最悪な偶然がこの世にあるのか。いや、そもそもだ。そもそも、
「なぜそんなくだらないことを……」
「っ、くだらないだと!」
カイトの口からつい漏れ出た言葉に、ベルロスは顔を真っ赤にして怒鳴った。
「そりゃあ、君には分からないだろう! 君のような立派な家の育ちで、何一つ不自由せず、地位も名誉も人望もある人間には、ド田舎のしなびた商人の息子の気持ちなんて、分からないだろうさ!」
ベルロスの目は、怒りと憎悪、嫉妬でぎらぎらと燃えていた。
あまりの語気に気圧されて、カイトは一瞬言葉に詰まったが、すぐさま腕に力を込め、さらにきつくベルロスの腕を締め上げた。うう、とベルロスが呻き声を上げる。苦痛に顔を歪めても、ベルロスの口は止まらなかった。
「僕を見下してきたやつらを見返してやるんだ! あの鉱石は間違いなく金になる。ギーシーズ商会はもう一度成り上がるんだ!」
カイトはベルロスのことも、ギーシーズ商会のことも知らなかったが、彼の言葉でなんとなくの事情は察することができた。多少の同情はあれど、この世に履いて捨てるほどある、ありがちな話でしかない。
「……巻き込まれた側からすれば、お前の境遇なんて関係ないだろ」
「“巻き込まれた”?」
は、と吐き捨てるような笑いを浮かべ、ベルロスはあざ笑うようにカイトを見上げた。
「ニーナ・フィントのことを言ってるのか? むしろあの女は馬鹿だ。あんな剣を振るう男女を誰が選ぶんだ? ただの行き遅れじゃないか! 僕に選ばれておけばよかったのに」
「……口を慎めよ」
「お前だってどうせ本気じゃないんだろ? ディンスター家の次男なんて、黙っていたって良家の美女が寄ってくる。どうせ暇つぶしで、普段とは違う女に手を出しただけ」
「おい」
は、とベルロスは口を中途半端に開けたまま止まった。
「ぺらぺらうるせぇんだよ。聞いたこと以上を、勝手に話すな」
はらわたが煮えくり返りそうだった。本当にこのまま腕を折ってやろうか、と暴力的な考えが頭をもたげたが、理性がかろうじて押しとどめる。自分は一刻も早くこの男から情報を聞いて、ニーナとあの男を追いかけなければいけない。
カイトは一度深呼吸をし、心を立て直した。
「それで、俺達が本当に恋人だったから焦って領主印に手を出したのか」
「……っ、そうだ。最悪、領主印があれば書類を捏造できる。オルト・フィント始め、ロシトは平和ボケしているからな。上手く僕に利益が入るように手を回すことも容易い」
「なるほどな」
馬鹿馬鹿しくて呆れることしかできないが、ベルロスの言っていることは嘘ではなさそうだ。
「あの男は?」
「……雇った。名前は知らない。“何でも屋”だと言っていた。金を積めばどんな仕事でも請け負うと」
「“何でも屋”、ね」
きっと、そんな可愛らしい言葉で片付けられるような人間ではないだろう。対峙した時の殺気からするに、相当な場数を踏んだ手練れのはずだ。
「で、その何でも屋はどこへ行った」
「それは……」
ベルロスは口を結んだ。
ここまで吐いたくせに、何をいまさら。本当に中途半端な男だ。虫唾が走る。
「おい、本当に腕を折られたいのか?」
「そっ、それは……」
「まだ分からないか。もうお前の計画は終わってる。仮にお前が領主印を手に入れようとも、書類を捏造しようとも、すべては王立騎士団第3隊隊長、カイト・ディンスターが聞いているんだ。お前の利になることは通させない」
目の前の男の心がぐらりと傾いたのが、よく分かった。カイトは考える暇を与えず、とどめを刺す。
「腕を折られ痛みにもだえ苦しみながら牢屋入るか、俺に減刑の余地を残させるかはお前次第だ」
数秒の後、ベルロスは絞り出すように言った。
「ここから西へ真っ直ぐ、森を抜けたところに、川がある。渡ってしばらくいくと、ギーシーズ商会の所有する倉庫がある。領主印はそこに置いてくるよう、依頼してある」
***
あっけない仕事だったな。とベルロスの従者――もとい、ベルロスの雇った何でも屋は思った。
薄暗い森の中、視界が開け、川が見えてくる。
もう随分前に、自分を追ってきていたあの女の気配はなくなった。ちょっとくらいは楽しませてくれるかもと期待したけれど、残念。後はこの川を越え、ベルロスの指定した倉庫まで行って、そこにこの領主印を置いてこれば仕事は終わりだ。あくびが出る。
「……退屈な仕事だ」
次の瞬間だった。
頭上の木の葉が揺れた。あ。と、気付いた時には遅かった。暗闇に浮かんだ白いドレス。振り切ったと思った女が降ってきた。
あっという間に、背中が地面に叩きつけられるように当たる。腹の辺りに馬乗りになった女――ニーナ・フィントが凶暴な笑みを浮かべていた。
「さっきはどーも」
ニーナは自分の下の、何でも屋を見下ろした。
驚きに染まっていた顔が、徐々に喜びの色に変わっていく。解せない、と思った。ニーナは右足のハイヒールを脱ぎ、そのまま握る。
「よくそんな靴で追いついたね」
何でも屋は驚いたように言った。
「……この山は私の庭みたいなもんなんで。あんたみたいな小悪党が行く先も、そこへの近道もよく知ってるの」
追いかけている途中で気が付いた。辿りにくいように走ってはいるようだが、このまま行った先の川を越えると、確かギーシーズ商会の所有する倉庫があったはずだ、と。予想は大当たり。近道をして待ち構えていたところに、獲物がかかった。
「さすが、王立騎士団第3隊所属は伊達じゃないねぇ」
何でも屋は感心したように言う。
ニーナは眉をひそめ、ハイヒールの踵部分を何でも屋に向けた。
「そうね。このハイヒールの踵一つで、あんたが今夜の出来事を、一生後悔するほどには痛めつけられる」
「いいねぇ。興奮する。女の人に乗られて脅迫されるっていうのも、なかなか」
「……随分余裕じゃない」
「まあね。あ、ちなみに俺は本来、どっちかっていうと、上になりたいタイプなんだけど」
さすがに、顔をしかめた。ニーナはハイヒールの踵を男の喉元に強く押しつけた。これくらいの力なら、痛いし、それなりに息苦しさを感じるはずだ。けれど、眼下の男は眉一つ動かさない。こちらが優位なはずなのに、なぜだか心がざわついた。
「……ねぇ、自分の状況分かってる?」
「分かってるよ」
何でも屋はけろりと肯定した。けれど、本当に分かっているのだろうか。だとしたらこの余裕はなんなのだろうか。ニーナは何でも屋に、この状況を言い聞かせるように言った。
「ベルロスを捕まえてるのは私なんかの何倍も怖い人間よ」
「ああ、だろうね。カイト・ディンスター。一回くらいやり合ってみたかったんだけど」
「彼はもう解放されない。何を考えているのかも吐かされる」
「そりゃそうだろう」
「つまり、この計画は失敗してるってことよ。あなたがその領主印を持って逃げたって、なんの意味もない。あなたの依頼主は、それを使うことはない」
「だろうね」
何でも屋の最後の返事は、あくびまじりだった。
ニーナはますます困惑した。そこまで分かっていて、なぜこんなにも余裕でいられるのだろうか。もしかして、どこかにほかの仲間でも隠れているんじゃないのか。注意を一瞬、周囲にも向けた。何でも屋が下で小さく笑いを漏らす。
「そんな警戒しなくたって、俺は一人だよ」
「ずいぶん親切ね。舐めてんの?」
「さあ」
またも掴みどころのない生返事。もうこれ以上の会話は無意味だ。ニーナはハイヒールの踵を押し付ける力をさらに強め、温度のない声で告げた。
「領主印を出しなさい」
何でも屋はゆっくりと、口の端を吊り上げた。
「……いいことを教えてあげるよ、ニーナ・フィント」
何でも屋はそろりと右手を上げ、人差し指を立てた。
「ちょっと。勝手に動く、」
「俺がベルロスに頼まれた仕事は3つ」
「は?」
「1つは今回のパーティーへ、従者として付き添うこと」
何でも屋はもう一本指を立てた。
「もう1つは、焦ったベルロスが急遽追加したものだ。領主印を盗み出し、ギーシーズ商会の所有する倉庫へ置いてくること……どうして、そんなことを急に頼んだと思う?」
ニーナは答えなかった。この男と楽しくおしゃべりをするつもりはなかったし、これ以上この男のペースに巻き込まれてたまるかという気持ちもあった。次に口を開いたら、少し痛い目をみせてやろうか。
何でも屋はそんなニーナの思惑を知ってか知らずか、笑みを崩さないままもう一本指を立てた。
「 “ニーナ・フィントがカイト・ディンスターと交際していると言った”。という噂を王都、および幾つかの騎士団の支部がある場所に流して、立場のなくなったニーナ・フィントを自分のものにする」
「…………は?」
「その計画が狂ったからだよ」
「……なに言、っ!?」
動揺が、ニーナの体から一瞬、力を奪った。
その隙を何でも屋は見逃さず、あっという間に拘束から抜け出ていった。
ニーナが体制を立て直した時には手遅れ。何でも屋は、領主印の入った袋を手の上で遊ばせながら、ゆるい笑みを浮かべて立っていた。ハイヒールの踵を押し付けた場所以外、彼にダメージを与えることはできなかったようだ。「くそ」と悪態をつくと同時に、先程の言葉が頭の中で再び流れる。
――“ニーナ・フィントがカイト・ディンスターと交際していると言った”という噂を王都、および幾つかの騎士団の支部がある場所に流して”
「……どういうこと」
「なにが?」
「さっきの台詞!」
「言葉の通りだけど」
またもあくびを一つ。何でも屋は続けた。
「ベルロスの最初の依頼さ。“ニーナ・フィントはカイト・ディンスターが交際していると言った”。そんな噂を王都、および幾つかの騎士団の支部がある場所に流して、騎士団での彼女の立場をなくす”」
「なんでそんなこと……」
まず頭に浮かんだのは、あの時交際を断ったことへの復讐。けれどその腹いせにしては、規模も大きいし金もかかりすぎている。なにより、それが領主印を盗み出すことに繋がらない。じゃあ一体――
ニーナはハッとした。
「鉱石ね」
「だーいせーいかーい」
ニーナが苦々しく言うと、何でも屋は気の抜けた声で返した。
「お父様が会わせたい言ったときから、ベルロスは鉱石の利権に上手く絡むために……」
「みたいだね。彼、人生の一発逆転を狙ってたみたいだし。まあ、まさかあんたに交際を断られるとも思ってなかったみたいだけど」
よくよく考えれば父とリエッタさんからあの嘘が漏れるなんて考えにくいし、あの場に他の人はいなかった。どうしてあの時適当についた嘘が王都にまで届いたのか分からなかったけれど、まさか、こんな、こんな地獄のような偶然が――
ニーナは全身から力が抜けそうになった。
じゃあ、この2か月の苦労は一体なんだったのか。怒りを通り越して泣きたい。こんなことが原因で、振り回されていたなんて。
「ま、よかったんじゃん? あんた、この噂がきっかけでカイト・ディンスターと恋人になれたわけだし」
慰めるような何でも屋の言葉に、ニーナはぴくりと反応した。
「……待って。あなた知ってたの? 私と隊長が本当に付き合ってるって」
「まあね。何でも屋なんで、いろいろ知ってるよ」
「どこまで」
「さあ。具体的に知りたいならお金払ってもらわないと」
「……理解に苦しむわ」
未知の生物だ。ニーナは思わず額を押さえた。さっきからこの男の考えが、一切読めない。
「知ってたなら、なぜベルロスに言わないの。そうしたらこんな急に無茶なこと頼まないはずよ」
もし、もっと早くからベルロスが私と隊長のことを知っていたら、こんな急に領主印を盗み出そうとは思わないはずだ。じっくりと時間をかけて計画を練って、バレないようにする方法はいくらでもある。そういう助言を、この男ならできるはずだ。なのになぜ。
ニーナの怪訝な視線に、何でも屋は他人事のように返す。
「そうだろうけど、そんなこと依頼されてないからね。俺がベルロスに金を貰って頼まれた仕事は、この3つだけ。俺は金でしか動かないからね。でも――」
何でも屋は一度言葉を切って、ニーナを見た。
一瞬で、先ほどまでと空気が変わった。肌を刺すようなピリピリした緊張感。思わず手が腰に伸びた。が、当たり前だが剣はない。柔らかなドレスの生地を、指先がかすめただけだ。
「でも、依頼されたことはやる。ベルロスの計画が成功しようがしまいが、俺には関係ないんだ」
ぐらり、と何でも屋の体が揺れたと思ったら、瞬きの間に距離が一気に詰められていた。息をつく間もなく叩き込まれる拳や蹴りをニーナは受け止める。
剣さえあればもう少しまともにやり合える自信があるが、素手での接近戦はやっぱり不利だった。容赦のない回し蹴りを顔をすぐ横で受け止める。髪が揺れ、腕がびりびりと痺れた。
「俺、女性を痛めつけるのは趣味じゃないんだけどなぁ」
「言ってることと、やってることが、合ってないわ、よっ!」
お返しだと言わんばかりに、今度はニーナが回し蹴り。咄嗟に後ろに飛んだ何でも屋の前髪を、ハイヒールの底が掠めていく。
「やるねぇ!」
はじけるような声で、何でも屋が叫んだ。
「とっても楽しい! 最高だ!」
頭がおかしい。ニーナは渋い顔で目元を流れる汗をぬぐった。
こっちは全然楽しくない。あー、足が痛い。不慣れな格好で、丸腰の戦闘。母の形見のドレスは汗や砂埃で汚れてしまったし、久しぶりにしたしっかりしたメイクももうドロドロだろう。最悪だ。
何度目かのパンチを避けて、舌打ちをする。
だめだ。集中を切らすな。
――もうすぐ、来るはず。
「そこまでだ」
暗闇に、鋭い銀色が浮かんだ。何でも屋の背後から、首筋にピタリと当てられたそれは、剣。持ち主はニーナの待ち人、カイトだ。
よかった、間に合った。「……隊長」ニーナはほっとしたように言って、大きく息を吐いた。
「……ニーナ」
「はい」
「お前後で覚えてろよ」
「え“」
え!? めちゃめちゃ怒っていらっしゃる!?
絶対零度の視線にニーナはびくりと肩を跳ねさせた。安ど感も疲れも一瞬で吹き飛び、狼狽するしかない。
カイトは何でも屋に視線を向け、ニヒルな笑みを浮かべた。
「……お前がおしゃべり好きで助かったよ」
「しまった。楽しみすぎちゃったな」
何でも屋は目尻に笑みを浮かべ、両手を上げた。
「お前にはいくつか聞きたいこともあるが、まずは領主印を渡してもらおうか」
何でも屋は緩慢な動きで、胸元から領主印の入った小さな袋を取り出した。
「渡せ」
小さく頷いたわりに、何でも屋は動かない。
カイトが何でも屋の首筋に当てた剣が、ゆっくりと皮膚に食い込んでいき、血がぷくりと浮かんだ。「死にたいか」と最後通告が続く。
「……あーあ」
何でも屋が天を仰ぎ、がくりと項垂れた。その動きでまた深く剣が食い込む。
痛みを想像して思わず眉を寄せると、何でも屋と目が合った。ニーナは小さく息を飲む。何でも屋の目が冷めきった色で、興ざめだ、と悲し気に語っていた。
「痛み分けだね」
「は?」
「俺は金が何よりも大事だけど、命がなければそれも楽しめない」
何でも屋は素早く体を翻すと、手に持っていた領主印を大きく投げた。領主印は真っ直ぐ川へと向かい、小さな音を立てて、丁度真ん中辺りへ沈んでいった。
「なっ!?」
この川はそれほど流れが速くないが、この時間だ。数メートルでも流されてしまうと、もう見つけられないかもしれない。ニーナは一目散に、領主印を追って川に飛び込んだ。何でも屋は、隊長がなんとかしてくれるはずだ。
冷たい水が、体を包んだ。
この辺りは一番深い場所でも2mあるかないか。普段ならこれくらいの深さは全く苦にならないが、いかんせん今は夜で、泳ぐのには最も適さない部類の衣服であろうドレスを着ている。体が思うように動かない。領主印の投げ込まれた軌跡を追って、ほとんど勘を頼りに川底に手を伸ばす。
――どこだ。
時間が経てばたつほど、見つけるのが難しくなるだろう。この潜水で、見つけてしまいたい。
いくつかの石を撫でたところで、指先が、周囲とは明らかに違う感触のものに触れた。拾い上げ、両手と目で確認する。領主印だ。念のため、袋の中も見る。間違いない。
ニーナはほっと胸を撫で下ろした。
するとすぐに、あの男がどうなったかが気になる。浮上しようと水面を蹴り上げたところで、体が何かに引っ張られた。
――え?
何度か水底を蹴るが、もう少しのところで水の上に出られない。恐らくスカートの裾が何かに引っかかっているのだろう。引っ張ってはみるが、引っかかっている部分が見えないこともあって、どうにもうまくいかない。力任せに引っ張ればスカートを破けそうな気もするけれど、お母さんのドレスを破くのは気が引ける。いや、もう散々汚したくせに何言ってるんだって話だけど……
ニーナは顔を上げた。あと数センチ浮上できれば息が吸えるのに。自分の運のなさに、恨めしい気持ちになりながら、領主印を握った腕だけを水面に出す。
ここから投げたら、岸まで届くだろうか。でもな。届かずまた探す羽目になるのは避けたいところだな……
そんなことを考えていると、近くで大きな入水音がした。
白い空気の泡。
なにが、と反応する前に、体がぐんと浮いた。
「っぷはっ!」
あっという間に水面に出され、ニーナは空気を大きく吸った。真っ先に手に持っていた袋を確認する。中身はちゃんと入っている。さっきの衝撃で落ちてしまったのではと心配だったので、安堵の息が出た。
「こんの、馬鹿!」
「え? あ、あれ? 隊長? どうしてこっちに」
「あ!? どうしてこっち、だと?」
すぐそばに、同じようにびしょ濡れのカイトの顔があって、ニーナは混乱した。どうやら先ほど水の中に飛び込んで自分を水面に引き上げたのはカイトらしい。ということは、
「隊長。あの男は、」
どうなったんですか。
そう、最後まで聞けなかったのは、カイトの表情が怒りで歪んでいたからだ。
「なにが、“あの男は”だ」
「……たいちょ」
「こんな泳ぎにくい恰好で、後先考えずに夜の川に飛び込むなんて正気か!?」
後先考えず、なんて言われると流石に反論したくなった。別に後先考えてないわけじゃない。あの瞬間、最善だと思う選択をした。
「慣れ親しんだ場所です。どれくらいの深さかは把握してます」
「それで? 結局服の端を引っ掛けて、水から上がれなくなってたところまで計算づくか?」
嫌味っぽい台詞だ。ニーナは先ほどまでよりも強い語気で返す。
「領主印はちゃんと岸に投げるつもりでした!」
「“領主印は”? それで、お前はどうなる」
「それは」
「意識を失うまで水の中にいるつもりか」
「……両手が使えれば、すぐに外れました」
「確証のない話は受け付けない。万が一があった時、俺はお前の家族にどうやって説明すればいい」
「……でも、あの男を確保する方が大事でしょう」
「俺はお前の方が大事だ」
もうこれ以上何も言うなと言外に滲ませた言葉に、口を噤んだ。
ニーナはカイトに抱えられるようにして岸まで泳ぎ、陸に上がった。ドレスのスカートを軽く絞ると、びしゃびしゃと、水が落ちる。
横目でカイトを窺うと、不機嫌な背中が白いシャツを脱ぎ、乱暴に絞っているところだった。靴や上着を川に飛び込む前に脱いでいるあたり、状況判断がちゃんとできる人だなと思う。急にドレスのまま川に飛び込んだ自分が滑稽に思えてきた。自分では最善の判断をしたつもりだったが、例えば先に二人であの男を確保して、その後川に入っていれば、どちらも逃さす済んだのかもしれない。
カイトは顔に張り付いた髪を絞るように後ろに撫でつけた。振り返ったカイトの姿は、慣れ親しんだ仕事中の様子を思い出させた。
「着とけ」
投げつけられた上着を受け取る。ニーナは「大丈夫です」と言いかけたが、カイトの半ギレの目に押され、すごすごと袖を通した。
くしゅん。と、くしゃみが一つ。
ぶるりと体が震えた。そういえば、まだ風邪気味だったな、と思い出す。
「……領主印、俺が持ってく」
「……すみません。お願いします」
差し出されたカイトの手に、領主印を乗せた。
あまりの気まずさに顔が見れない。さっき川に飛び込んだことを謝った方がいいだろうか。悶々としていると、急に腕を引かれた。胸板に顔をぶつけ、「むぶ」と間抜けな声が出た。すぐに背中に腕が回り、逃げられないように抱きすくめられる。
「……簡単に、お前を失う選択をさせないでくれよ」
ふと、アリシアを海賊から逃がした夜も、こうやって抱きしめられたなと思い出した。
濡れた服越しに、少しだけ速いカイトの鼓動が伝わってくる。ニーナは目を閉じ、「ごめんなさい」と小さく謝った。
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