恋人ごっこ 1
レオルゼ王国の王都は、淡い色の煉瓦で作られた建物と、瑞々しく輝く植物たちによって彩られた美しい都である。また、美食の街としても有名で、王城から港まで続く一本道の両脇には腕自慢達が店を連ねている。王都の外からだけでなく、国外からの客も多く、街は一年中賑わいの中だ。
そんなこの街が、ニーナはとても好きだ。
もちろん、故郷のロシトのような小さな村も大好きだけれど、やはり王都は特別だ。活気があって、人々が笑顔で、新しいものがどんどん入ってくる。
だから休日は、決まって街の中を歩いた。見回りの時に仲良くなった店に顔を出すこともあるし、顔なじみの店で友人達と酒を飲むこともある。人と会うことが、ニーナは一番好きだった。
「いやだ……」
けれど、今は外に出たくない。
これが久しぶりの休日だろうと、今日が素晴らしい快晴だろうと、街で月に一度の市が開かれていようと、外に出たくない。新しい紺色のレースのワンピースを着ようとも、お気に入りの靴を履こうとも、とにかく外に出たくない。
体は重く、足は鉛のようだった。
「行きたくない……」
もうかれこれ30分ほど、こうして玄関のドアに頭を擦りつけながら、ニーナはどうにかして今日の外出を避ける方法を考えていた。が、いい案は一向に浮かんでこない。もちろん病欠も考えたが、昨日の夜すでに「お前のことだ。明日、体調を崩すなんてこと、絶対にないよな」と釘を刺されている。
「うう……」
頭を抱えて唸り声をあげたところで、ドアが乱暴にノックされた。その振動が頭にも伝わり、痛みでその場にしゃがみ込む。
「ニーナ! いつまで待たせるつもりだ!」
ドアの向こうから、“今日外出したくない理由”が、雷のように叫んだ。
***
「デデデデデデデート」
「デが多い」
「隊長、ティオーネ視察で頭を強く打たれたのでは?」
グーが脳天に落ちてきた。ニーナは頭を抑え、痛みに耐えるように体を丸めた。
どうやらティオーネで頭を打ったわけではないらしい。虫でも見るように見下ろす視線が、そう言っている。
「じゃあ、どうして戻って早々デデデートの誘いなんて……」
カイトがティオーネの視察より戻ってすぐ、ニーナは隊長の執務室へと呼ばれた。何か仕事を振られるのかと思っていたが、少し疲れが浮かんだカイトの口から出たのは「明日は非番だったな」という確認だった。戸惑いがちに「ええ」と頷くと、「じゃあ、明日はデートだな」と返される。
なにが“じゃあ”なのかは分からないし、そもそも、しばらく“デート”が何なのかも分からなかった。
でーと? なんだっけ、何かの件で追っかけてた人物の名前? それとも作戦名だっけ? なんて、無言のまま頭の中の引き出しをひっくり返していると、カイトの表情がじわじわと曇り始めた。
「……恋人の、それだ」
と言われて、ようやくニーナは「ああ…」と合点がいった。なるほど、人の名前でもなく、作戦名でもなく、恋人のそれね。なーんだ。
「…………えっ?」
「なんだ、その間抜けな面は」
「……え? デ、デートですか? た、隊長と私が?」
「そうだ」
「隊長と私がデデデート!?」
「そうだと言っているだろう」
急にそんなことを言い出すなんて、頭を強く打ったとしか思えなかった。それ故に出た「ティオーネ視察で頭を強く打たれたのでは?」は、心からの心配だったのに、その返答がグーパンチだなんてひどすぎる。と、ニーナは心の中で文句を言いながら、再び姿勢を正す。
カイトは呆れたように息を吐く。
「恋人なんだ、一緒に外出しないほうが変だろう」
「まあ……」
「ディオとトナーのように疑っている人間も多い。見せつけとくのも悪くない。これから2か月間、毎日“本当に恋人なんですか”なんて聞かれるのは面倒だろう」
「そうですね。確かに、一発、デートしといた方がいいかもしれません」
「……おい」
突然、カイトの纏う空気が冷たくなった。
ニーナはすぐに自分が何かしらの失言をしたことに気が付いた。が、何が失言かは分からない。ぞっとするほど美しい笑顔に見下ろされ、口の端がひくついた。
「俺が忙しいのは知っているな」
「はっ、はい、もちろんです」
カイトの長い人差し指が、ニーナの鎖骨の中央辺りに触れる。
「俺はもう2か月、ろくに休んでない」
「それは……心中お察しします」
「そして明日は2か月ぶりの貴重な休みだ。その、俺の、貴重な休みを、お前とのデートに使ってやろうって言っているんだ」
指先が、強くそこを押した。ニーナはよろめきそうになるのをこらえ、ごくりと息を飲んでカイトを見上げた。
「それを“一発デートでもしとく”なんて、ずいぶんぞんざいな発言だな」
「そ、そんなつもりは……」
「明日は必ずデートらしい服を着ろ。間違っても隊服なんか着て来るんじゃないぞ」
「デ、デートらしい服……」
「それから、俺のことを隊長と呼ぶな」
「え“っ」
可愛げのない声が出た。
隊長は、隊長である。隊長は、隊長以外何者でもない。それを隊長と呼ぶなとは、どういうことなのか。頭が、“隊長”という文字の山で埋め尽くされかかったとき、
「カイトだ」
そう告げられ、意味を理解すると同時にニーナは顔を青くした。
「む、無理です。隊長を呼び捨てにするなんて」
「無理じゃない」
「無理ですよ!」
悲鳴じみた声が出たところで、カイトの手がニーナの顔を掴んだ。両頬を親指と人差し指で強く押され、ニーナの口元が蛸のように情けなく歪む。
「無理……?」
眼前に迫る美しい顔には青筋が浮かび、掴まれた両頬は骨が軋みそうなほど痛い。頬を冷や汗が流れた。
「ニーナ、もう一度確認だ。明日は俺を“隊長”と呼ばないよな」
確認、というか、命令だった。
「呼ばないよな」
「呼びまひぇん」
命の危機を感じ、考える前に口が動いた。
カイトはようやく満足げに「そうか」と言って、ニーナの顔から手を離した。
「では、明日10時、中央広場の噴水前だ」
そして現在、時計は10時を30分ほど回ったところだ。
ついにノックされたドアの内側で、ニーナはがたがたと震えていた。なぜ自宅を知っているのかとパニックになりかけたが、よくよく考えれば入隊時に提出した個人情報の書類に自宅の場所もばっちり書いてあった。
「この俺を待たせるとはいい度胸だな! いるのは分かってるんだぞ!」
「ひっ……ひぃ」
「ドア蹴破られたくなかったらとっとと出てこい!」
こんなのまるで借金の取り立てだ。ニーナは借金をしたことがないので、借金の取り立てが本当はどんなものか知らないが、多分こんな感じだろうと思う。これは払わざるを得ない。ドアが叩かれるたび、古い蝶番が悲鳴を上げているのが分かる。とりあえず本当にドアが蹴破られてしまっては困るので、両手で抑えてみた。
すると不思議と、あれほどうるさかったノックがぴたりと止んだ。不思議に思い、恐る恐るドアに耳を寄せる。
「……おい」
地獄の底から湧いたような声が聞こえ、ニーナはそのままの姿勢で固まった。
「……猶予は、あと30秒だ」
ごくり、とニーナの喉が鳴った。
「30秒経ったら……」
……な、なんでそんな不吉なところで言葉を切るんですかー!
30秒経ったら何が起こるのか分からないが、完全にろくなことではない。だから、
「今なら、許してやる」
その言葉を聞くと、ほとんど無意識にドアを開けている自分がいた。目に飛び込んできたのはいつもとは違う靴だ。けれどいつも通り綺麗に磨かれている。そして隊服よりもいくらか楽そうな黒のパンツに、グレーのジャケット。開けられた第一ボタンの隙間から微かにネックレスのチェーンが見えた。そして、いつもと変わらずばっちりと髪型決めた隊長と、ばっちりと目が合った。
カイトの額に浮かんだ青筋に、引きつった笑みが浮かぶ。ニーナはとりあえず、「お、おはようございます」とあいさつをした。
「……随分、遅かったな」
「すみません、隊」
「たい……?」
俺を隊長と呼ぶな、と言われたのを思い出し、慌てて言い訳をする。これ以上怒りを重ねるのは、どう考えたってよろしくない。
「あ、いえ、た、たい、たい、たい……太鼓をたたいていて、遅くなりました」
「…………へぇ、太鼓」
「……た、たいこ、です」
「俺はお前が太鼓を叩いてるから待たされたのか。なるほど」
「すすすすすみません」
「構わないさ」
「口と行動が合ってませんよ!」
構わない、と言いつつ自らの胸倉をつかみ上げる腕をばしばしと叩く。言い訳は見事に失敗したようだ。自分でも、この言い訳はさすがにナシだと思うけれど。ニーナは半べそかきながら、叫ぶように言った。
「許してくれるって言ったじゃないですかぁ!」
「許してるさ、ニーナ」
嘘だ。
目は口程に物を言うというのは本当だと、ニーナは思う。カイトの目はとてもじゃないが自分を許す目ではなかった。
「さあ、デートに行こうか」
カイトは笑った。ニーナもつられるようにして、一応笑った。笑顔は引きつっていたが。
「覚悟決めろよ」
これって本当にデートですか。デートって、そんな、覚悟を決めなきゃいけないものですか。ニーナは心の中で、カイトに問いかけた。
答えはもちろん返ってこないけれど、多分、違うだろうと思う。
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