仮初のロマンス劇場 2
フィント家はロシトの大通りの突当りに位置する。
王都で目にするような貴族の人々が住む家に比べるとずいぶん慎ましい大きさだが、白く塗られた3階建ての建物は、鮮やかな森を背に、青々と草木が茂る庭に囲まれて、その白さが一層引き立って美しい。家主の性格を表わすように家の正面の門は一年を通し開け放たれ、広場から続きになった庭では、時折、住民たちが結婚式やパーティーを行っている。
人目を避けるように裏門をくぐり、玄関前の階段の一段目に足をかけたところで、待ち構えていたように勢いよくドアが開いた。
「お帰りニィーナァ!」
両手を広げて飛び出してきたのは、父親だった。体を揺らし飛び跳ねるようにしてこちらにやってくると、熊のように大きな体でニーナをぎゅうぎゅうと抱きしめる。「会いたかったぞ! 元気そうでなによりだ!」と、体と同じくらい大きな声の歓迎で、耳が痛い。
この騒がしい歓迎はいつものことだ。ニーナは父親の気が済むまで無抵抗を貫いた。そろそろ骨が痛いというところで、ようやく解放される。
「ただいま戻りました、お父様」
そっと父親と距離を取りつつ、後ろで唖然としているカイトに向き直る。
「騒々しくてすみません。父のオルト・フィントです」
「やあ、オルトだ。ああ、君が! ニーナの! 会いたかったよ!」
ニーナの父親――オルトの標的はカイトに移った。オルトは焼きたてのパンのように大きな二つの手で、カイトの手を包むように握ると、弾けるような喜びを表すかのごとく、ぶんぶんと勢いよく上下に振った。
カイトは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしつつも、なんとか「初めまして。カイト・ディンスターです」と短く名乗った。
その騒がしい光景を横目で見つつ、ニーナは、オルトの後ろからひょこりと現れたリエッタに近づいた。
「ただいま戻りました」
「待ってたわ。忙しい所、わざわざありがとう」
リエッタはふんわりと笑い、ニーナの体を控えめに抱きしめた。ニーナも控えめに、リエッタの背中に手を回す。リエッタは2か月前に会った時よりもほんの少し、ふくよかになっている気がした。幸せ太りは継続中らしい。
「おいしい紅茶とお菓子を用意してあるの。夕食も、あなたの好きなものをたくさん用意したわ」
「嬉しいです。もうクタクタで、お腹もペコペコです」
「ふふ、そうね。ほら、あなた! お客様とは中でゆっくりと話しましょう」
リエッタの声掛けで、ようやく解放されたカイトは、オルトの圧に押されふらふらとしていた。
フィント家は、王都に住む貴族達のそれと比べ、外も中も慎ましくいぢらしい。
床はふかふかの絨毯でもピカピカの石造りでもない木の床で、綺麗に磨かれてはいるが古さも目立つ。豪華な調度品も、高貴な絵画もない。「窓から見える綺麗な庭と生き生きと輝く自然が、この家を飾ってくれるんだよ」と笑う父親なので、これからもそういったものがこの家に持ち込まれることはないだろうと、ニーナは思っている。そして同時に、そんな素朴なこの家が、とても好きなのだとも。
「まずは部屋に荷物を置いてから話しましょう」と言うリエッタに先導され、ニーナとカイトは階段を上がった。ゲストルームは2階に上がってすぐのところにある。
階段を上りきると、ふとカイトが手すりに目を遣って、小さな笑いを漏らした。
「落書きがある」
「……ああ」
手すりの低い場所に、いびつな形で“ニーナ!”と文字が彫られている。「昔、遊びで彫っちゃったんですよ」と、当時を懐かしみながらニーナは続ける。
「こっちには兄と姉のもあるんですよ」
「へぇ……ん?」
ニーナが指さした方を見て、カイトは動きを止めた。
「兄? 姉?」
「はい。あれ? 知りませんでしたっけ?」
「…………大昔に、書類かなんかで見たような、見てないような」
カイトは口元を抑え、視線を斜め上に上げた。
申し訳なさげな表情に、ニーナは苦笑しつつ「まあ、そんな話しませんからね」とフォローする。
「ほら、こっちが姉のレイナが彫ったので、兄はこれです。この変な犬のやつ。名前はリオです」
ニーナは少し離れた場所にある犬の絵を指さした。犬と言われなければ何か分からない動物のようなものが、間抜けな顔で笑っている。「兄は絵を描くのが好きなんですけど、絵心はずっとないんですよねぇ」と、しみじみ言う。
「レイナさんとリオさんは夕食前に来るそうよ」
ゲストルームのドアの前で待っていたリエッタが、思い出したように言った。
「ニーナさんが帰って来るって言ったら、一緒に食事をしたいって」
「そうなんですか。嬉しい。二人の子供達も?」
「いいえ。今日は兄弟水入らずでだそうよ。二人は今晩は一度帰って、明日の朝から、子供達や奥さん、旦那さんと一緒に来て準備を手伝ってくれるって」
ニーナは「楽しみ」と顔を綻ばせ、カイトに「二人はもう結婚してて、子供もいるんです」と付け足した。
「へえ。何歳離れてるんだ?」
「姉とは6つ。兄とは10離れてます」
「結構離れてるんだな。二人はここに住んでるのか?」
「ええ、二人ともロシトに。医者なんですよ」
リエッタは、そんな二人のやり取りを見て、笑顔のまま首を傾げた。
「二人は、いつもどんな話をしているの?」
「え?」
質問の意図が分からず、ニーナはつられるようにして首を傾げた。リエッタが慌てて付け加える。
「あの、別に変な意味じゃないのよ。ただ、カイトさん、兄姉がいることも知らなかったようだから、普段どんなお話をしているのか気になって」
そう言われて、ニーナは固まった。
そりゃそうだ。ただの同僚ならばまだしも、恋人に家族の話をしないというのは、さすがに不自然だ。いかんせん、普段は仕事漬け。最近はそうでないとはいえ、やはり、普段の会話の多くは仕事に関するものが多い。
ぎぎぎ、と効果音がつきそうな歪な動きで、ニーナはカイトの方に顔を向けた。「どうしましょう?」と目で訴えかけるつもりだったが、カイトは平然としていた。それどころか、余所行きの爽やか好青年顔で、困ったように微笑んでいる。
「大した話はしていませんよ。けれどやっぱり、仕事の話が中心になってしまいますね」
「まあ、そうなの」
「ええ。それに、ニーナはあまり、自分のことは話したがらなくて」
「あら」
「彼女、恥ずかしがり屋なので」
ね。と、砂糖まみれの甘ったるい同意を投げられたが、カイトの細められた目は口調ほど甘くはない。からかいや怒りじみたものがちらついている。ニーナは「はは……」とどっちつかずの笑みを返すしかできない。
リエッタは吞気に「そうね」とカイトに同意を示した。予想外の同意に、ニーナは反論する。
「私、自分のこと“恥ずかしがり屋”なんて、思ったことないですよ」
「自分のことって、自分じゃ案外分からないからな」
「そうよ」
今日初めて会ったばかりだというのに、仲良さげに頷き合うカイトとリエッタを見比べ、ニーナは納得いかないと口を曲げた。
恥ずかしがり屋だなんて、本当に自分では思ったことがない。カイトはともかく、リエッタさんまでそんなことを言うなんて、そんなに分かりやすく出ているのだろうか。
「分かるよ」
突然の言葉に、ニーナは目をぱちくりさせながらカイトを見上げた。
「……私、口に出してました?」
「口には出してないけど、顔に出てた」
そう言って、カイトは悪戯っぽく目を細めた。
ゲストルームのドアを開け、カイトと共に部屋の中に入る。光が射しこむ大きな窓と、大きなベッドが一つ。リエッタが用意してくれたのであろう瑞々しい花が棚の上やバスルームに飾られ、部屋の中を明るく彩っていた。
カイトはクローゼットの前に荷物を置き、部屋をぐるりと見渡した後、「素敵です」と溶けるような笑みを浮かべ、リエッタに礼を言った。
「狭くて申し訳ないのだけれど」
「いいえ、そんなことありません。それに、上手く言えないんですが、落ち着きます。どことなく、懐かしいような」
「そう? 気に入っていただけたなら嬉しいわ。バスルームは自由に使って。屋敷の中も自由に歩いてくれてかまわないわ。飲み物や食べ物も、私に言ってくれたらすぐに用意するわ」
「ありがとうございます」
カイトの生家に比べたら質素だろうけれど、その表情はお世辞や嘘を言っているようには見えなかったので、ニーナはほっとした。自分の荷物を持ち直し、「じゃあ、私も部屋に行きますね」と部屋から出る。
「あら? ニーナさんも一緒じゃないの?」
「え?」
リエッタは笑顔を崩さず、けれど不思議そうに言った。
「お付き合いをしているから、てっきり一緒の部屋に泊まるんだとばかり」
ニーナは持ち直したばかりの荷物を落とした。
そんなこと、考えてもみなかった。カイトと同室。その言葉の並びだけで、破壊力がすごい。
変な想像をしないように、ぶぶぶと勢いよく首を横に振る。
「イイエ」
「そう?」
「ベッド、一つですし」
「そうだけど、二人ならゆとりをもって寝られるわよ?」
「まだ、け、結婚とかも、してないわけです、し」
「そんなこと、気にしなくていいのよ」
気にしてくれ! ニーナは内心頭を抱えつつも、必死に冷静を装い言った。
「本当に、自分の部屋でいいですから。カイトは慣れない長旅で疲れてますし、広いベッドでゆっくりして欲しいんです」
「……それならそれでもいいのだけれど、」
リエッタは渋い表情を作った。
「ニーナさんの部屋、今、物置みたいになっちゃってるのよ」
「……はい?」
物置みたい。
リエッタのその言葉通りになってしまっている自室を見て、ニーナはよろりと戸口にもたれ掛かった。2か月前に帰ってきた時には、こんな風になっていなかったのに。
ベッドはかろうじて無事だが、床は大小様々な箱で埋め尽くされ、机の上は山崩れを起こした書類で覆われている。
「どうしてこんなことに……」
確かに父は片付けがそれほど得意ではないが、かつて、体調を崩していた時でさえも、こんな風に整理整頓ができなかったことなどなかった。足元を遮る箱を避けながら部屋の中に足を踏み入れると、3歩目にしてなにか角のある固いものを踏んで、足首が変な方向に曲がった。
「いっ……も~、一体何が、」
犯人を拾い上げ、今度は「げぇっ」と目を剥いた。まさかと思い、つるりとした絹の小袋の口を開けると、予想通りの金色の印が見えた。
「領主印こんなところに放っておいたらダメでしょ!」
領主印は、国王からの賜り物で、領主から次代の領主へと代々引き継がれていく物だ。重要な書類から手紙まで、“その土地の領主がしっかりと確認した”ということを保証するために押されるもので、紛失なんてしたら一大事である。そんなものをこんなところに転がしておくなんて、冷や汗が出る。
「やだ。きっと机の上から落ちたのね」
リエッタはため息交じりに言った。
「執務室の机の上はもう酷い有様で、最近はお客様も多いから重要な書類や手紙はあなたの部屋で読むことも多いのよ。ごめんなさいね、あなたの部屋をこんなにしてしまって。てっきり、カイトさんと一緒の部屋を使うと思っていたから片付けをしなくて……」
「いえ、それは別にいいんですけど……執務室の机の上が酷い有様って、お父様どうしちゃったんですか?」
部屋に入ってきたリエッタはニーナから領主印を受け取ると、山崩れを起こしている書類を再び積み直してから、机の引き出しの中にそれを入れた。
「ほら、例の件よ」
「……例の件?」
例の件、という言葉で指されるものが思い浮かばず、ニーナはリエッタの言葉をそのまま返した。
リエッタはニーナの反応に首を傾げつつも、当然のように言う。
「“鉱石”のことよ」
長めの沈黙の後、ニーナはたっぷりの戸惑いと一緒に、再びリエッタの言葉をオウム返しした。
「……こ、鉱石?」
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