仮初のロマンス劇場 1
はっくしょーん!
森の中に響き渡った盛大なくしゃみに、近くの木から鳥が一斉に羽ばたいた。ニーナは鼻水を啜り、小さく息を吐いた。まごうことなき、風邪である。
頬にじっとりとした視線が当たる。視線を辿れば、自分と同じように馬車の荷台の上で、積み荷の隙間に挟まるようにして座るカイトと目が合った。上等そうな白いシャツを着て、下ろした金髪が揺れている。いい家の人間らしい装いの彼が、こんな場所で縮こまっているのは似合わない。つい、へらりと笑うと、カイトの眉間の皺が深くなった。
しまったと思った時にはもう遅い。カイトがゆっくりと口を開いた。
「……一つ、中年オヤジみたいなくしゃみはやめろ」
「……隊長、そんな決めつけはよくないですよ。中年オヤジさんにも、エレガントなくしゃみをする人もいます」
ニーナの反論に、カイトの目が鋭くなった。殺気立っている。くだらない反論はするなということらしい。ニーナはまた垂れてきた鼻水を控えめにすすり「すみません」と返した。
初老の男性と年老いた馬に導かれる馬車は、ほとんど歩きと変わらない速度で、ゆっくりとなだらかな山道を下っていく。空は青く、日差しは暖かい。
王都からロシトまではおおよそ1日半の旅だ。
ロシトは山間の小さな街で、その四方は山に囲まれている。山の麓の街まで王都から馬を乗り継ぎおおよそ1日。そこで眠り、麓の街からはロシト行きの荷物を運ぶ馬車に乗る。荷物も人も一緒の、心温まる旅である。残念ながら「これに乗ってロシトへ行く」と教えた時のカイトは、“心温まる”とは程遠い表情をしていたが。
ともあれ、旅ももうほとんど終盤だ。つまり、慣れない馬車の荷台で縮こまっているカイトの機嫌の悪さと疲れは、ピークに達しているということである。
「二つ」
苛立ちの篭ったため息一つ。カイトは説教を続ける。
「風邪ひくなって言っただろ」
「……え? 風邪? なんのことです?」
「おい」
「えへへ」
「笑って誤魔化すな」
「……そんなこと言ったって、ひいちゃったものは仕方がないじゃないですか」
ニーナは不貞腐れたように、荷台の縁に体を垂らした。
「どうせお前のことだ。あの時雨に濡れて、ろくに拭きもしなかったんだろ」
「ひどいですよ、隊長。私のこと、信用してくれないんですか」
「ああ」
迷いのない肯定にニーナはますます項垂れた。残念、大正解です、隊長。
こんな風に自分の行動を予想できるいい上司だと思うべきなのか、それとも、自分のことを信用してくれない疑り深い上司だと悲しむべきなのか。
「忙しかったんですよ」
「言い訳はいい。とにかくこれ以上ひどくならないように気を付けろ。ここまで来て、体調を崩してパーティーに参加できないなんてなったら最悪だぞ」
「はぁい」
森を抜けると牧歌的な風景が広がる。故郷の香りだ。ニーナは視線だけを動かして、遠くに見える家々の連なりを見た。いつもこの風景を見ると、「帰ってきたな」という気持ちになる。
「三つ」
「え? まだ続くんですか」
ニーナの非難めいた驚きを無視して、カイトは続けた。
「今までなあなあになってたが、ここでは俺を名前で呼ぶのを忘れるなよ」
「あー……」
そういえば、すっかり忘れてたな。と、顔を上げる。ニーナは「分かりました」と短く返した。
自分の上司を呼び捨てにするのは抵抗があるが、それでも以前に比べたら随分気持ちが楽だ。なんだかんだ、この関係を続けてきて、慣れたのだろう。
「四つ」
「多いですね」
「これが一番大事だ。恋人らしくしろよ」
「……」
「返事」
「そうですね。心得ています」
こっちは逆に、この関係を始めた時の方が抵抗感は少なかったかもしれない。もちろん、恋人らしく振る舞うことは恥ずかしかったけれど、あの時は全部演技だった。けれど、今は意識してしまっている。演技なんて割り切れない。
欲深いな。
ニーナは自分に呆れた。諦めなければと思うのに、恋人らしく振る舞ったら、結局その先を望んでしまう気がする。
「はっ……くしゅん」
くしゃみをもう一つ。カイトは呆れたように言った。
「今晩はしっかり休めよ」
「はい。隊ちょ、いえ、カイトもゆっくり休んでください。巻き込んでおいてあれですけど、ロシトは仕事を忘れてのんびりするには最高ですよ。当然支部もありませんし、綺麗で豊かな自然とおいしい田舎料理で、癒されること間違いなしです」
「へぇ」
カイトはぐるりと周囲を見渡した。放牧された牛やヤギが、馬車の近くをのろのろと歩いていく。ロシトの家々の連なりともすいぶん近づいて、藁を積んだ馬車ともすれ違った。
「確かに、田舎だな。事件も起こりようがない」
「ええ、そりゃもう」
ニーナは深く頷いた。
「この馬車は家の近くまで行くので、降りたらまず私の家へ行きましょう。ディンスター家と比べると狭いと思いますけど、我が家で一番広いゲストルームに案内するので、どうぞ自由に過ごしてください」
「なんだ。街を案内してくれないのか?」
「いえ……それは、希望があればしますけど、」
予想外の提案に驚きつつも、ニーナの視線は気まずげに逸らされた。
「私が恋人連れて帰るなんて、街中大騒ぎになりそうで……いろいろ根掘り葉掘り聞かれると思いますよ」
「別に。どうせパーティーに参加したらそうなるんだ。構わない。それより、ロシトの街に興味がある」
ニーナは目をぱちくりさせながら「意外です」と改めてカイトを見た。「意外?」とカイトは首を傾げる。
「興味あるに決まってるだろう? どんな場所で育つと、人間こんなにたくましく育つのか」
「……あぁ、それはどーも」
口の端を楽し気に吊り上げたカイトに、ニーナは気持ちのこもらない返事を返し、再び馬車の縁に体を寄せた。
***
馬車は人気のない道の、小さな集荷場の前で止まった。御者に運賃を支払い、それぞれ荷物を持って降りる。変な姿勢で座っていたせいで、体が痛い。先に降りたカイトは、ぐぐっと大きく体を伸ばした。けれどニーナは体を伸ばすこともせず、周囲の様子を警戒するように視線をあちこちへ向けていた。
その姿を見て、カイトは呆れたように言う。
「そんなに警戒したって、どうせいつか住人には会うんだろ」
「タイミングの問題ですよ。こんな疲れた状態であれやこれや聞かれるのは面倒です。それに、ロシトの人達は、カイトの想像の10倍くらい遠慮がない人達です」
ロシトは小さな街だ。住民たちは大きな家族のようで、互いのことをよく知っている。もちろん、そんな関係が心地いいときもあるが、よくない時もある。山に囲まれ平和極まりないここでは、おしゃべりは最大の娯楽の一つだ。ゆえに、大きな出来事や噂話はあっという間に広まってしまう。
自分が恋人を連れてくるということだけでも大事件なのに、それがどう見ても不釣り合いな外の男なんて、住人に会った瞬間にアウトだ。あれやこれやと聞かれて、なかなか解放してもらえないだろう。その光景を頭に浮かべ、ニーナはぞっとした。
「とにかく、今は誰にも会わずに家に着くことが先決です」
ニーナは自分の発言を肯定するように、深く頷いた。
「誰にも会わず、ねぇ」
「ええ。安心してください。私、いい道を知ってるんです」
人気のない道や、家までの裏道は頭に入っている。問題はない。ニーナは力強く言った。
カイトはそんなニーナを見てため息を一つ。ゆっくりと指さした。
「いる」
「へ?」
「うしろ」
言葉につられるように振り返り、ニーナは絶望した。
「あら、ニーナじゃない」
一瞬、時が止まった。
振り返った先に立っていたのは、ワンピースにエプロン姿の、ふくよかな体形の女性だった。ニーナはこの女性をよく知っている。名前はネネット。ロシトで最も人気のある酒場の女主人で、この街随一の情報通でもある。
どこかきょとんとしているネネットと、呆れきったカイトを交互に見比べながら、ニーナの脳内に浮かんだ言葉は「終わった」であった。
「帰ってきたのね」
「えへへ、ええ、まあ」
如何ともしがたい状況に、ニーナは半笑いを浮かべた。
「オルトさんとリエッタさんのお祝いに来たのね。うちも、たくさん料理やお酒を持っていくつもりなの。あなたの好きなファジルの煮物を……」
どうやらネネットは先ほど一緒に旅をしてきた荷物を引き取りに来たらしい。話をしながらも、集荷場に置かれた荷物の宛名を確認しながら、いくつかの麻袋を抱え込んだ。「ね?」と、何かについて同意を求められたが、話はほとんど右から左へ抜け出てしまっていたので、ニーナは「あはは……まあ」と曖昧に返すことしかできなかった。
「ところで、」
一呼吸置いて、ずいとネネットがこちらに近づいて、耳元に口を寄せた。
――きた!
ニーナは体をこわばらせ、ごくりと唾を飲んだ。ネネットの目がぎらりと輝く。
「あの、えらく顔のいいお兄さんは、誰なの?」
「…………ん?」
こそりと尋ねられた問いに、ニーナの眉間に皺が寄った。
思っていた質問と違う。てっきり、「聞いたよ! いやだぁ、いい男じゃないか。で、どこで知り合ったんだい? どこが気に入ったの? お金持ちなのかい? いつ結婚するんだい?」といった類の質問を無遠慮にされるのだと思っていたので、肩透かしをくらったような気分だ。
いやいや、待て待て。そもそもロシトの人たちは隊長の顔を知らないのだから、まず確認が必要なのだろう。ニーナは深く深呼吸し、答えようと口を開、
「馬車で一緒に来たんだろう? 何か話したんじゃないのかい? 商人さん?」
出鼻をくじかれた。ネネットはニーナの口が開くのを待てず、さらに質問を重ねる。
「ずいぶん、お上品な身なりの人だと思わないかい? ロシトじゃ見ないよ、こんな人」
「いや、ネネットさん……」
「それともギーシーズの」
「ネネットさん!」
このままネネットの自由に話させていては、ここから一歩も動けない。ニーナはネネットの言葉を遮り、すっかり蚊帳の外だったカイトの腕を引っ張り、隣に立たせた。
こうなってしまっては仕方がない。一呼吸置き、ニーナは意を決した。
「こちら……カイト……ディンスターさん、です」
ニーナの気迫に押されたカイトも、同じく意を決したように頷く。「カイト・ディンスターです」という名前を言うだけの自己紹介は、やけに重い響きをしていた。
ネネットは息を飲み、これでもかというくらい目を見開いた後、
「……ど、どなた?」
と眉間に皺を寄せ、難しい顔をした。
「……いやいや」
一瞬、何を言われたのか分からなかったニーナは、改めてもう一度隣に立つ人物を丁寧に手で示しながら、「この人がカイト・ディンスターさんです」と、先ほどよりもゆっくりと言った。が、ネネットの表情は変わらない。それどころか、首を捻り「はて」と言わんばかりの表情だ。
「だから、この人があのカイト・ディンスターさんなんですって」
「あの」
「そう、あの、私の恋人の!」
「えぇっっっ!?」
ネネットは仰天した。
「恋人!?」
体を仰け反らすだけでは足りず、声までもひっくり返っている。
なんてわざとらしい反応を! なんだか腹が立ってきた。もう知っていることをこんな風に驚いて、からかうつもりなんだ。ニーナはいらいらをぶつけるように言った。
「そう! 知ってるでしょ!」
「知らないに決まってるでしょ!!」
「ほら知らないって!……え? 知らない?」
どういうことだろうか。ニーナは狼狽えた。てっきり自分をからかって、大げさな反応をしていたのだと思っていたが、ネネットの表情を見るに、本当に知らなかったらしい。
「な、なんで知らないの?」
「なんでって、あんたそんなこと今まで一言でも言ったことがあったかい!?」
興奮しきったネネットに激しく体を揺さぶられながら、「いや、まあ、それは、ないけど」と、ニーナは途切れ途切れに返した。
それにしても、なぜ。王都にまで噂が届いていたのだから、当然知っているものだと思い込んでいたのだが……
が、とにもかくにも、こうなってしまえば口を滑らせたのはニーナの方だ。
「カイトさんね、あなたどこの出身なの。何の仕事をしているの。どういうなれそめでニーナとお付き合いを。不躾だけど、結婚は考えて」
ネネットは息継ぎを忘れたように質問を繰り返し、カイトは完全にたじたじになっている。あのカイト・ディンスターをここまでたじたじにできる人間は、少なくとも第3隊にはいない。顔を引きつらせたカイトを見て、ニーナはつい吹き出した。
即座に、射殺すような目で見られ、ニーナは慌ててネネットとカイトの間に入る。
「ネ、ネネットさん。彼、長旅で疲れてるから」
「そうは言ったって、こんなとんでもないことを聞いて、黙ってられるかい!?」
「また明日、パーティーの時にでも。まだ家にも行ってないし」
「そうねぇ……」
ネネットはニーナとカイトを見比べた。確かに二人とも疲れている様子だと頷いて、引き下がる。
「じゃあまた明日、詳しいことを聞けるのを楽しみにしているよ」
それはそれでぞっとするような宣告だったが、とりあえず一旦この場を切り抜けることには成功だ。いくつかの荷物を抱え、笑顔で手を振りながら去っていくネネットに手を振り返しながら、ニーナとカイトはすでに徹夜明けのようにげっそりとした顔に気の抜けた笑顔を張り付けた。
「口滑らせやがって」
弧を描いたままのカイトの口から、地獄の底から湧き出たような声が出てニーナは小さく飛び上がった。恐ろしくて顔は見れない。
「王都にまで噂が流れてるんだし、てっきりロシト中が知っているのかと……すみません」
ややあって、カイトのため息が落ちた。
「ま、普通はそう思うよな。俺も、そう思い込んでた」
「彼女は、けっこう、というか街一番の情報通なんで、まさか知らないなんて……本当にすみません」
ネネットは職業柄というのもあるが、どういう情報網をもっているのかと思うほど、いろいろなことを知っている。誰と誰が喧嘩しただの、浮気しただの、結婚するだの。だから、この恋人関係だって知ってて当然なのだ。というか、知らないなんて、あるわけがない。
違和感に首を傾げながら、ニーナは、もう一度振り返り「明日待ってるからねー!」と叫んだネネットに手を振り返した。
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