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ただの日


 分厚い雲に覆われた鈍色の空を見上げ、ニーナは深く息を吸った。濃厚な雨の気配が漂っている。顔周りの髪の毛にまとまりがない。もう間もなく雨が降り始めるだろう。そのせいか、普段なら多くの買い物客でにぎわっているこの通りも、人通りはまばらだ。

 隊服の上着を脱ぎ腰に巻いて、薄い灰色のトップス姿になったニーナは、馴染みのパン屋の軒先のベンチで、少し早めの昼食を口に押し込みながら、どこか早足に過ぎ去っていく人々を見た。笑顔の人、あまり元気がなさそうな人、ぼんやりとした人。次々に視界を横切っていく。

 ふと、街中の音が遠のいた。ニーナはパンを咀嚼するの止め、湿っぽい空気を吸った。


 時々、こんな風に、世界を果てしなく遠く感じる時がある。


 地面から、むせ返るような血の匂いが立ちのぼってくる。薄暗い地下倉庫の中、あの男――ジオルドに突き立てた剣を握る感覚が甦った。血で滑る手を、絶対に離すものかと力を込めた、あの瞬間が。

 正直、あの日の記憶が今もはっきりと残っているわけではない。焼けた本のように、曖昧な部分も、抜け落ちた部分もある。けれどその分、残った部分はより鮮明に感じる。

脳が焼けるような殺意や、憎悪、剣のぶつかる音。怒声。痛み。あの後しばらくは、まともに眠れず、食事をとるのも一苦労だった。当時のことを思い出し、乾いた笑みを落とす。


「ニーナ」


 聞きなれた声に現実に呼び戻され、ニーナは入れっぱなしになっていた口の中のパンを飲み込んだ。


「悪い。待たせた」


 小走りにこちらへ向かってくるカイトの姿を捉え、ニーナは立ち上がった。

カイトもニーナ同様、隊服の上着を脱ぎ、見慣れない白っぽい服を着ている。


「謝るのはこちらです。忙しいのに、昼休憩にまで付き合わせてしまって、すみません」

「構わない。誘ったのはこっちだし、二人からの贈り物なんだから二人で選んだほうがいいだろう」


 “結婚1周年パーティーなんだから、俺達からなにか贈り物をした方がいいだろう。”

 というのは、カイトからの提案だった。休みに入るまでに仕事を片付けることやトナーとのことでいっぱいいっぱいになっていたニーナは、贈り物のことをすっかり失念していた自分に呆れるしかなかった。


「なにかアイディアは?」

「いろいろ考えたんですけど、無難にお酒がいいんじゃないかと。父もリエッタさんも、好きですから」

「なるほど。お前が酒飲みなのは親の遺伝か」

「そうですね。特に父の遺伝かと。母はあまり好きではなかったそうですから」

「今好きだと、」


 そこまで言ってカイトは、はっとしたように口を噤んだ。


「すまない。“再婚パーティー”だったな」

「いえ。別に気にしないでください」


 ばつの悪そうなカイトに、ニーナは微苦笑し、続けた。


「母は5歳の時に亡くなっているので、実際、もうほとんど母との記憶はないんです」


 ニーナは、視界の端に飛び込んできた、まだ若い母親と小さな子供の背中を見送った。

 自分がああして母と手を繋いで歩いた記憶はもうない。多分、昔は覚えていたのだろうけれど、今は声も笑った顔も思い出せない。母と聞いて浮かぶ姿は、父の部屋に飾られ、笑顔を浮かべた肖像画の中のそれだ。


「私にとってはむしろ――」


 一つ呼吸を置いて、ニーナは足元に視線を落とした。


「むしろ、母が亡くなったあとの父の姿の方が印象的で」

「父親の?」

「はい」


 最愛の人を失った後も、幼いニーナの目には、父親は普段通り振る舞っているように見えた。領主としての仕事をこなし、村の人々を助け、子供達に豪快な笑顔を見せる。


「母を亡くしても、父は気丈に振る舞っていました。よく笑って、強くて優しくて、人助け好きな変わり者の領主のままです」


 誰もが、彼を「強い人だ」と褒め称えた。最愛の人を亡くしても、子供やロシトを守る強い人だと。


「でも、ある夜、父が泣いているのを見たんです」


 眠れない夜、訪ねた父親の部屋。灯りが漏れる扉の隙間から部屋の中を覗き込むと、背中を丸め小さくなった父親が、体を震わせながら泣いていた。声を外に漏らさぬようにするためか、口をクッションに押し付けている。時折、くぐもった音が聞こえた。音は、母の名だった。


「父が倒れたのは、そのすぐ後です。医者は心労だと」


 ベッドに横たわる憔悴しきった父を見たとき、このまま母に付いて行ってしまうのではないかと、とても怖かったのを覚えている。家の中は、太陽を失った世界のように、ずっと冷たく重い空気が充満していた。


「今でこそ元気ですけど、それから何年も父の体調はよくなったり悪くなったりを繰り返していました。きっと父は、なかなか母の死を受け入れられなかったんだと思います」


 顔を上げると、カイトが難しい顔をしていて、ニーナは慌てて話を変えた。こういう顔をさせたくなくて、誰かにこの話をするのは避けていたというのに。


「だからリエッタさん――父の再婚相手を紹介されたときは、とても驚きました。けれど、同時にほっとしたんです」


 ニーナは相好を崩した。


「リエッタさんは元々あまりお酒を飲む方じゃなかったらしいですけど、父と親しくなってからお酒が好きになったと言っていました。時々、庭で飲んでいるそうですよ。あ、ええと、庭でっていうのは、リエッタさん花が好きで庭にけっこうたくさん花を植えてて、綺麗で、」

「……そうか」


 カイトはニーナの背中を慰めるように軽く叩き、一歩前へ出た。くるりと振り返った表情は、先ほどまでのように難しいものではなかった。


「酒はどこで買うか決めたのか」

「あ、いえ、まだ……そこら辺の店に適当に入ろうかと」

「なら、行きたいところがある。いいか?」

「構いません。というか、むしろ助かります」

「決まりだ」


 カイトは白い歯を見せた。




 二人がやってきたのは、港近くの酒屋だった。古い建物が多いこの辺りでは目立つ、白く塗り直されたばかりの壁の建物。外からは中がほとんど見えず、ドアの入口近くに控えめな看板が一つ出ているだけ。ぱっと見では何の店なのか、そもそも店なのかも分かりにくい。入りにくい雰囲気だ。

 海の香りのする風を受けつつ、二人は店内に入った。

 まだ新しい店なのだろう。ほのかに塗料の匂いが残っている。それほど広くない店内の中央に少し大きめのテーブルが置かれ、四方の壁に備え付けられた棚には、繊細な飾りの施された美しい酒瓶が整然と並べられている。いつも酒場で飲むものとは違う、高級感のある酒たちにニーナは感嘆の息を漏らした。


「贈り物なら、ここがいいと思ったんだ」


 カイトは店の中をぐるりと見渡しながら言った。


「最近できた酒屋だ。少々値は張るが、希少なものが多いし、何より見た目がいいだろ?」

「見回りの時に近くを通ったことがあったんですけど、こんなお店だったんですね。どれも綺麗……」


 店の奥から、エプロンを付けた若い男が出て来た。華やかな雰囲気の男だ。カイトに負けず劣らず、綺麗な顔をしている。彼は「いらっしゃいませ」とからりとした挨拶をした後、こちらを見ると目を丸くした。


「あれ? カイトじゃないか。久しぶり」

「ああ、久しぶり」

「来てくれるなんて思ってもみなかった」

「店を出した時に知らせてくれただろう」

「けれど君のことだからなぁ。開店パーティーにも来なかった」

「仕事だって言っただろ。それに、ちゃんと花は贈った」


 親し気な挨拶を交わす二人を、ニーナは交互に見た。どうやら知り合いらしい。

 会話が途切れると同時に、男性の視線がこちらに向けられる。ニーナが名乗る前に、カイトが口を開いた。


「ニーナだ」

「こんにちは、ニーナさん」


 男性は、穏やかな春の海を連想させるような爽やかな笑顔を作った。爽やかすぎる。ニーナは“爽やか”という言葉をそのまま立体化したような目の前の男性から発せられる圧に気圧され、どもりながら「ど、どうもはじめまして、ニーナ・フィントと申します」と返した。

 途端に、爽やかな男性の目に好奇の色が宿った。

 こちらが少々不躾に感じるくらいの視線が、足の先から頭のてっぺんまでをなぞっていく。


「なるほど、君が噂の」

「噂の……?」


 その先を男性から聞くことはできなかった。変わらず笑顔の口元がさらに意味深に曲がったと同時に、カイトがいら立った声を出したからだ。


「おい、あんまりじろじろ見るな」

「えぇ? 僕、そんなに見てたかな?」

「見てた。悪いな、ニーナ。こいつはこんな見た目だけど、なかなかの変人なんだ」

「はぁ」


 見た目と中身の乖離が激しいのは、隊長もたいがいですけど。ニーナは、心の中で呟いた。


「こいつはラト・カータ。古い友人だ」

「えっ、友人!?」


 一瞬の沈黙。の後、すぐ隣から伸びてきた腕が、両頬を掴んで引っ張った。


「おい、なんだその“隊長に友達なんていたんですね”と言わんばかりの驚き様は」

「いたたた、まさかぁ、そんなこと」


 思ってましたけど。ニーナはその言葉を飲み込み、代わりに「痛いです」と自分の頬を引っ張る手を軽く叩いた。カイトの手は引き下がったが、向けられた視線はまだ不機嫌さを残している。

 だって仕方がない。カイトに友人がいるなんて当たり前のことを、ニーナは今まであまり想像もしたことがなかったのだから。カイトは、仕事中毒者ばかりの騎士団の中でもトップクラスの仕事中毒者だ。休日なんてあってないようなもので、一年中隊舎にいるか、いない時はどこか違う街へ出ている。友人と過ごすところなんて、想像もつかない。

 ニーナはちらりとラトを見た。ラトは驚いたような表情をしつつも、どこか愉快そうだ。


「こらカイト、女の子にそんなことしたら可哀想じゃないか」

「ですって、隊長」

「何か言ったか」

「……いえ」

「だーかーらぁカイト、女の子にそんな凄んだらだめじゃないか」

「隊長はラトさんの爪の垢を煎じて飲んだ方がいいのでは?」

「口が随分元気だな。明日までにもう一つ二つ書類仕事でもするか?」

「ラトさん、隊長はすばらしい方ですよ」

「あはははは」


 ラトはひとしきり笑った後、目尻に溜まった涙を拭きながら言った。


「で、今日はどうしたのかな?」

「ええと、贈り物を探しに来たんです。父が再婚して丁度1年で、故郷であるパーティーに参加するので、その手土産にお酒をと思いまして」

「へぇ。二人で参加するの?」

「はい」

「いいねぇ」


 ラトはまるで自分のことのように顔を綻ばせた。それからぐるりと店の中を見回すと、右手の棚へ向かい、青い瓶を手に取った。裏のラベルに目を落としながら尋ねる。


「ご両親の好みは分かる? 甘い方がいいとか、強いのが好きとか」

「そうですね……どちらかと言えば甘い方が好きだったと」

「じゃあいくつか候補があるよ」


 ラトは青い瓶を元の場所に戻すと、その隣にあった濃い赤い色の酒が入った瓶と、入り口近くにあった薄いピンク酒が入った瓶を手に取って、ニーナの元へ戻ってきた。


「僕のおすすめはこの二つかな。赤い方はローサっていう国のお酒だよ。ハーブを混ぜ込んで作られたもので、香りもいい。薄いピンクのものはイズアンのもので、甘味の強い果実酒」


 ニーナはラトの両手の瓶を交互に見比べた。どちらも見た目がかわいい。説明を聞く分に、どちらを贈っても喜ばれそうだが、そのせいでどちらに決めたらいいのか悩ましい。二つを交互に見比べながら唸っていると、予想外のところから助け舟が出た。


「試飲すればいいだろ」


 そう言ったのはカイトだった。


「えっ!? い、いいんですか?」

「もちろん、試飲もできるよ。用意するね」


 ニーナは慌てて隣を見た。けろりとした表情のカイトが、目線だけでこちらを見下ろしている。


「お前は本当に表情豊かだな。顔に言いたいことが全部書いてある」

「うぐ」

「“勤務中にお酒飲めるなんて最高~。ああ、でもいいのかな。悪いことしてるみたいだな~”」

「……似てませんよ」


 カイトのモノマネはお粗末極まりないものだったが、言ったことは全部正解だ。ニーナは不貞腐れたように顔を背けた。


「一口だけだ」

「だってさ」

「分かってます」


 ラトがテーブルの上に二つのショットグラスを並べた。赤色と薄いピンクの水面が誘うように揺れている。ニーナはごくりと唾を飲んだ。美味しそう。蜜に誘われる蝶のように、まずは赤い酒のグラスに手を伸ばし、半分を飲む。続けてもう一方もグラスの半分を飲んだ。

 ニーナは、天を仰いだ。


「ああ~。背徳の味がします。元々美味しいんでしょうけど、さらにその100倍くらい美味しく感じます」

「じゃあ全部飲めばいいだろ」

「残りは隊長に」

「は?」

「共犯ですよ。部下一人に罪を被せる気ですか」


 ニーナは二つのグラスを持ち、ずいとカイトの前に出した。


「俺はいい」

「まあまあ、そう言わずに」

「お前が決めたらいいだろ」

「二人からの贈り物なんだから、二人で決めないと」

「そうだよ、カイト。君も飲んでみなよ」


 ラトの加勢により、2対1。ニーナの勝ちである。カイトは仕方なくグラスに残った酒を飲んだ。


「ああ~……」


 カイトもまた、天を仰ぎ、絞り出したような声を出した。


「うまい」

「ですよね。背徳の味」

「どっちも美味いけど、俺は赤い方が気に入った」

「あ。私もです。こっちの方が、後味がすっきりしてますよね。飲みやすい」

「じゃあこっちで決まりかな」

「はい。ラトさん、包装もお願いします」

「かしこまりました」


 ラトは店員らしい笑顔で頭を下げると、グラスを持って店の奥へと戻っていった。

 ニーナはテーブルの縁にもたれかかるようにして立ち、ふう、と息をついた。カイトも安堵の表情を見せる。


「いいのが見つかって一安心だな」

「隊長のおかげです。いいお店を紹介してくれてありがとうございました」

「かまわない。ご両親、喜んでくれるといいな」

「はい」


 静かになった店内に、ドアの向こうから女性の笑い声が届いた。

 昼休みも間もなく終わる。再び隊服に袖を通したら、喉に微かに残るお酒の甘さを忘れて、今日中に片付けなければならない仕事と向き合わなければいけない。


 しばらくすると、大きな袋を持ったラトが店の奥から戻ってきた。酒瓶の入った赤いベロアの箱は、旅に備えてさらに二重に包まれている。

 それを受け取って店を出ると、灰色空の街が二人を待っていた。


「もう降りそうだね。荷物、気を付けて」

「はい。どうもありがとうございました」

「いいよ。カイトも、来てくれてありがとう」

「ああ、また寄る。ラトも気を付けてな」

「うん。じゃあまたね、ニーナちゃん。いつでも寄って」


 ラトはそう言って手を振った。

 手を振り返しながら、ニーナは少しだけ切なくなった。多分、もうこの店に来ることはないだろう。カイトとの関係が終わった後、わざわざ一人でこの店に顔を出すのは気まずい。でも素敵な店だったから、もし誰かが贈り物で悩んでいることがあったら、勧めよう。そう心に決めて、ニーナは「はい」と笑顔で頷いた。


 重たい灰色の空からぽつりぽつりと雫が落ち始めた。

 カイトは手を開き、そこに落ちた水滴を見て顔をしかめる。


「降ってきたな」


 ニーナもそれに倣って手を開く。掌に冷たい水滴が触れた。


「隊長はこのまま隊舎に戻られますか」

「ああ。午後からは会議や人に会う予定が詰まってる」

「私はこのまま港に行きます。第2隊の人に呼ばれてて」

「そうか。荷物、持っていこうか」

「いえ、大丈夫です。港から隊舎に戻る途中で、家に置きに行きますから」


 カイトからの申し出を断り、包みを抱え直す。ありがたい申し出だったが、こんな大きな包みを持って隊舎に戻れば、明日からのことを聞かれるだろう。すでに山ほど迷惑をかけておいてなんだが、やっぱりそれは申し訳ない。


「そうか。じゃあ次に会うのは明日の朝だな」

「はい、そうですね」

「風邪ひくなよ」

「そんなやわじゃないです」

「どうだか」


 カイトは皮肉げに唇の端を上げた。

 何か言い返してやろうとニーナが口を開きかけた時、右瞼に雨粒が落ちた。「わ」小さく声をもらし、反射的に右目を閉じる。カイトの手が伸びてきて、前髪を払いそこに触れた。親指が水滴を拭い、吐息交じりの笑みを残して去っていく。


「またな」

「……はい、また」


 こんな些細な接触や、短い言葉のやり取りだけで浮足立ってしまう心臓を、咎めるように軽く叩いてニーナは港へ向かい駆け出した。


 にわかに強くなり始めた雨が、石畳の道を灰色に染めていく。



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