知らなければ 2
ノックスは今晩も賑わいのなか。
そんな中、店の一番奥の二人掛けのテーブルは、世界から置いてけぼりになったかのように、重い沈黙が落ちている。
ニーナは気まずさから逃れるように体を縮めながら、ジョッキを口元から外せずにいた。
正面では、この重い空気の中心であるカイトが、テーブルに並んだつまみを黙々と口に運んでいる。
一体なぜこんな空気に……
ニーナはうっかり出そうになったため息を、再び酒と一緒に飲み込んだ。
仕事が終わって飲みに行こうと誘ってきたのは隊長のくせに、この沈黙はなんなのか。
思えば、昨日執務室を訪ねたあたりから、カイトの様子はおかしい。ずっとピリピリしているし、執務室では「好きなやつがいるのか」なんて爆弾を投げ込まれた。途端にトナーとのことやカイトへの思いが浮かび、逃げるように執務室から出てしまったが、一体なぜ、あんな質問を急にしてきたのか。疑問は解けないままだ。
「最近どうだ」
「えっ」
「なにか変わったことはないか」
変わったこと。そう言われて、またトナーの顔が浮かんだ。
キスを拒んだ夜から、トナーとは業務上必要な言葉しか交わしていない。今までのような軽口もないし、一緒に食堂へ行くことも、飲みに行くことも当然ない。ルミナスに行く前、笑いあったことは、もうずっと遠い過去のことのようだ。
思い出すと、心臓が掴まれたように痛む。けれどこの出来事を、誰かと共有するつもりはなかった。
ニーナは、平たい笑みを作り、言った。
「ありません」
カイトの目が鋭くこちらを捉える。
目ざとい人だ。多分、自分がなにか隠しているのには気付いているだろう。けれど、どれだけ聞かれても、トナーとの件に関して、隊長に話すことはなにもない。
ニーナはもう一度「ありません」と強く言い切った。
「……分かった。ならいい」
再び落ちた沈黙。けれどカイトの目はニーナをその視界の中心に据えたままだった。
「ニーナ」
「はい」
「好きなやつがいるなら、ちゃんと言えよ」
ぼたり。ニーナのジョッキに付いていた水滴が、テーブルに落ちる。続いて、動揺の隠し切れない音が、一つ落ちた。「え」
「な、なんの話ですか」
「もし、自分には関係ないと思うなら、今から俺が話すことは、酔っ払いの独り言だと思って聞き流せ」
「はい?」
「好きなやつがいるなら、言えなくなる前に、ちゃんとそいつに気持ちを伝えろ」
「急になん、」
「俺はもう、言えないから」
「……もう言えないって……」
ニーナの頭に、ずっとこびりついていた台詞が、再び形をくっきりと表わした。
『カイト様は、わたくしのお姉様の、婚約者だったんです』
アリシアの声で鮮明に再生された言葉を、頭の中で反芻してから、ニーナはゆっくりと自らの言葉にした。
「アリシアさんの、お姉さんの、ことですか?」
カイトはぴくりと片眉を上げた。
「知ってたのか?」
「はい……詳しいことは知りませんが、アリシアさんから隊長には昔、婚約者がいたと聞きました」
「そうか」
カイトは一度視線を宙に泳がせ、それから口の端に小さな笑みを浮かべると、視線をテーブルの上のグラスに落とした。度数の強い、深い赤色の水面は、ノックスのざわめきに反して静かだった。
「ラフィネ・ルーエン。婚約者の名前だ」
カイトの口が、とても滑らかに一人の女性の名前を紡いだ。
心臓が、不安げな音を立てた。ニーナは半ば無意識に、自らの太ももの辺りを強く抑えた。
「12年前に死んだ。生まれつき体が弱くて、人生の半分以上をベッドの上で過ごしてた」
ざわめきが遠のく。カイトのわずかに伏せられた瞼を、男性にしては長いまつ毛が縁取っている。頬に落ちたその影が、ランプの揺らめきに合わせて揺れていた。
「生まれた時から、結婚することが決まってた。うちは代々そうなんだ」
それほどの驚きはない。
ディンスター家ともなれば当然だろう。地位が高くなればなるほど、自分のように見合いや結婚話を断れるような人物はいなくなる。ある人達にとって、結婚は愛の結果などではなく、家と家を繋ぐ一つの手段であることは理解している。「そうですか」ニーナは静かに頷いて、カイトの言葉を待った。
「ラフィネはルーエン家の長女で、俺より半年早く生まれた。それからは、ずっと一緒だった。俺は気が弱かったし、友達がほとんどいなかったから、しつこいぐらい彼女につきまとってた」
気が弱い。つきまとう。
さらりと出た言葉だったが、ニーナは聞き流せず「ん?」と声を上げた。
「気が弱い?」
「意外だろ。今でこそこんなだが、昔はそのせいで結構荒んでた時期もあったんだ」
「す、荒んでた? 隊長がですか?」
「ああ。ディンスター家次期当主の優秀な兄と比べて、俺はどちらかといえば出来が悪かったからな」
「出来が悪い!?」
思わず大きな声が出た。誰か別の人物の話を聞いているんじゃないのかと、ニーナは不安にさえなった。話から見えてくる少年の姿は、今のカイトとは真逆だ。
カイトは酒をあおった。
「俺のところに寄ってくるのはディンスター家次男と仲良くなりたいやつばかり。俺には兄さんのような素晴らしさはなにもなかったのに、誰もが俺を褒めちぎる。子供ながらに気を使われてるのが分かるんだ。俺と自分の子供を仲良くさせようと、親が子供に言い含めるところを何度も見た」
まあ、今は、親の気持ちが分からなくもないけれど。
カイトは自嘲するように小さく付け足した。
「けど、ラフィネは正直だった。俺が馬鹿なことをしたら馬鹿だと笑うし、とんでもない悪口を言い合って喧嘩もした。ほんとうに、ただ普通に接してくれるんだ。親でもない、兄弟でもない、友人でもない、恋人というには幼い。けれど、俺にとって、彼女はその全てであったように思う」
そう言った時のカイトの表情は、慈愛に満ちていた。
この人は、こんな風に思い出を語ったりできるのか。ニーナは、なぜか打ちのめされたような気持ちになった。そしてすぐに自己嫌悪が追いかけてくる。なんで、こんな風に思ってしまうんだろう。性格が悪い、嫌な人間だな。
「だからラフィネに騎士団の見習いになることを勧められた時は、ちょっとショックだった。やっぱり俺のこと、嫌になったんだって」
「彼女が?」
「ああ。“カイトは小さな世界でうじうじしすぎよ。騎士団は、家も育ちも関係なく、ただ実力主義の世界だそうよ。あなたも一度挑戦してみたらいいんじゃないの”って、な」
「うじうじしてる隊長が想像できなさすぎて……」
「はは。だろうな。今でも家族に会うと、当時のことは笑い話だ」
カイトは愉快そうに言って、天を仰いだ。
暖かな色の灯りに照らされたカイトの目が、遠い日の幸福を眺めるように細められる。「最初はいやいやだった。けれど実際騎士団の見習いになると……」言葉の音、一つ一つが色彩豊かに輝いていた。
「見習いになると、俺はただのカイト・ディンスターだった。ディンスター家次男だろうがなんだろうが、実力をつけなきゃ褒めてもらえない。失敗すれば怒鳴られるし、みんな平然と、模擬戦闘で俺に剣を向ける。けれど、だから、だからこそ、教官に認められた時は嬉しくてたまらなかった。友達ができた時は、夜眠れなかった。入隊が決まった日、初めて嬉しくて涙が出た。日に日に、世界が広がっていくようだった」
「隊長……」
「けど」
そこでカイトは一度言葉を切った。表情がふっと陰り、視線が落ちる。
「……入隊式の日だ。夜、家に帰ってすぐ、連絡があった。ラフィネが死んだと」
そう言って、カイトは一つ呼吸を置いた。
「大急ぎでフォントニアに戻って、そこにいたのは棺に入ったラフィネだった。今でもよく覚えてる。花いっぱいの棺の中で、本当に眠ってるみたいだった。いつもみたいに、名前を呼んだら目が開くんじゃないかと何度も名前を呼んだ。けど、結局目は開かなかったんだ」
言葉の語尾が、少しだけ震えているように感じた。わずかに垂れた頭。落ちた視線の向こうでは、きっとその光景が鮮明に浮かんでいるのだろう。
ニーナは指一つ動かさず、カイトがその過去から視線を外すのを待った。
「……手紙が残してあった――なんて書いてあったと思う?」
問いかけに、ニーナは答えられなかった。静かに首を横に振る。
「……“私のことは忘れて、広い世界で、幸せになってね”。それだけだ」
カイトはようやく顔を上げ、ニーナが今まで見たことがないくらい、下手くそに笑った。
「ひどい女だよな。別れの言葉にしては、あっさりしすぎだ」
悪戯っぽく言って、すっかり冷え切ったソースのかかったパンを口に放り込む。沈黙を嫌がるような速度でそれを飲み込んで、カイトは話を続けた。
「ラフィネの目に、俺がどう映っていたのか知らない。手がかかる弟のように思われていたのかもしれないし、最後の瞬間にやって来なかった薄情な人間だと思われているのかもしれない。一つだけ分かるのは、俺はラフィネにたくさんのものをもらったけれど、なんにも返してないってことだけだ。もっと恋人らしいことをしていればとか、もっと会いに行けばとか、自分のことばかりじゃなくて彼女の話を聞いてやればとか、後悔ばっかり残って……それからは、仕事に打ち込んだ。仕事をしていると気が紛れるし……そうすることで、償いたいんだ」
「……償いたい?」
「ラフィネに何も返せなかったことを、こうやって騎士団の一員として誰かを助けたり守ることで、償ってる気になってるんだ。国のためだとか、そんなんじゃない。ただの自己満だよ。嫌な隊長だろ」
「そんなこと!」
ニーナは机に手を付き、勢いよく立ち上がった。
そんなことない。あなたは素晴らしい隊長です。そう言いたかったのに、視線を合わせたカイトは穏やかな笑みを湛えている。その表情が静かに語る。慰めの言葉も、否定の言葉も必要はないと。
「そんなこと、ないです……」
ぐっと言葉が詰まり、否定の言葉は尻すぼみに消えた。
情けなさで項垂れるように席に戻る。テーブルの角に腕をぶつけ、ジョッキの水面が不規則に揺れた。
カイトから小さな笑い声が漏れ落ちる。
「別に、お前が落ち込むようなことじゃないだろう」
「落ち込んでなんかいません」
小さな子供を慰めるような、優しくて少しだけ荒い手に髪をかき乱されながら、ニーナは顔を上げられなかった。俯いたまま、不甲斐なさに唇を噛む。
そうしている自分は、本当に子供のようだった。
初めて恋を知り、そんな形のないものに振り回されて、ままならない心に苛立つ。こんな風に自分の心が自分のものでなかったことなど、人生で一度もない。こんな気持ちになるくらいなら、恋なんて知らなければよかった。
「だからニーナ。今は……」
カイトは頭をかき乱す手を止めて、柔らかな声で語りかけた。
「今は無理でも、この嘘の恋人期間が終わったら、好きなやつにはちゃんと伝えるんだ……いつか、後悔しないように」
――絶対に、言わない。
ニーナは固く結んだ唇の奥でそう決めた。
私はこの人に、なにもあげられない。あげられるものなんて、なにも持っていない。
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