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いつだってあなたが世界を変える 6

***



「やったー!」


 宿に戻った瞬間、ディオが拳を天に揚げ、勝利の雄叫びを上げた。


「待ってろ、ルミナスの酒とうまい料理ぃ~!」


 ルミナスで過ごす最後の日の仕事は、昨日とは打って変わって恐ろしいほど順調に進んだ。おかげで、予定していた時刻を大幅に前倒しして、仕事が終わったのだ。

 こうなれば、もう後は街に繰り出し、飲みに行くだけ。

 3人は着替えを済ませ、夕日が染める街へと出かけた。

ディオは持ち前の人懐っこさで、ルミナスの隊員達から美味くて安い酒場情報をたっぷりと仕入れている。選び抜かれた1軒に入ると、すでに中で待っている人物たちがいた。


「ディオ! ニーナ! トナー!」


 手を振るのは、見習い時代の同期達だ。正式入隊後、ルミナス支部の勤務になってからはほとんど会うこともなかったので、懐かしさにニーナの喜びが爆発した。


「ロッドにリュート!」


 飛び跳ねるようにして駆け寄り、再会のハグをする。


「ひっさしぶりだな!」

「元気だったか?」

「で、お前ディンスター隊長と付き合ってるんだって?」

「真っ先に聞くのがそれ!? っていうか、なんで知ってるの!?」

「そりゃあ、噂だよ。鮮烈だろ。あのニーナが、王都一のモテ男と付き合ってるなんて」

「ド新人の見習い隊員が、総隊長に素手で喧嘩を売るようなもんだからな!」

「……またわけのわからない例えを……」

「ま、とにかくだ。いろいろ聞かせろよ!」


 テーブルの上はあっという間に料理と酒でいっぱいになった。

 ルミナスの料理はおいしく、酒も最高だ。話は盛り上がり、何度も腹を抱えて笑った。


 帰るころには足元がふわふわしていた。明日朝一で帰るのに、少し飲みすぎたかもしれない。ニーナは反省しつつ、人で賑わう通りを踊るように歩いた。

 3歩ほど前を、トナーとディオが笑いながら歩いている。何を話しているのかは聞こえないが、二人ともとても楽しそうだ。

 ふと、遠い昔のことを思い出した。

 そういえば、いつかこんな光景を見たな。

 ニーナの脳裏によぎったのは、ずっと昔、まだ見習いになったばかりの頃のこと。トナーと友達になりたいと言って、ディオの顰蹙を買ったときのことだ。あの時頭に思い描いた光景は、まさに今この瞬間を見ていたのかもしれない。


「――おい」


 突然、トナーが振り返った。


「ふらふら歩くな」

「そーだそーだ。置いてくぞ、ニーナ」


 街灯の灯りに照らされて、二人の輪郭が暖かな色でぼうっと光っていた。

 それを見て、ニーナはなぜか泣きたくなった。


「早く来いよ」

「……うん」


 作った表情は、へにゃりと歪んで情けない。ニーナは駆け寄り、二人の間に入った。


「でさ、覚えてるか、あの時食堂でロッドがさぁ~……」


 思い出話に終わりは来ない。ディオがいつかの馬鹿話を、つい先日の出来事のように話す。ニーナの脳裏にはその時の光景が、鮮明に浮かんだ。誰がどこに座って、なにを食べていたのかも思い出せる。

 自分がどんどん感傷的になっているのが、よく分かった。

 酒場まではそれなりに距離があったように感じたが、帰りは一瞬。灯りが煌々と輝くルミナス支部を横目に捕らえつつ、気が付いたら宿の前だ。

 足を止める。ふう、と誰からともなく息をついた。

 ここに泊まるのも、今晩が最後。明日の朝一番には、王都へ向かって出発しなければ。

 しばしの間忘れていた現実が、駆け足でやってきた。


「……さて、部屋戻ってとっとと寝ますかね」


 ディオは大きく体を伸ばし、名残惜しそうに言った。

 宿に向かって再び足を踏み出しかけた時、ニーナの腕が引かれた。

 腕を引くのは、トナーだ。見上げた先の表情があまりにも真剣で、酔いが一瞬で冷めた。


「俺、ニーナにちょっと話がある。ディオ、先部屋戻ってて」

「――おう」


 ディオは全部分かったかのような顔で、ほほ笑んだ。「がんばれよ」と口だけが動く。それが、どちらに向けたものなのかは、分からないけれど。


 腕を引かれ、向かったのはつい昨日、ディオと二人酒を飲んだベンチだ。腰を下ろしたトナーの横に、ニーナも遅れて腰かけた。

 会話はない。

 トナーは壁に背を預け、空を見上げた。満天の星が待っている。

 ニーナは静かに、足元に視線を落とした。名前も知らない小さな白い花が、ひっそりと咲いている。


「……俺が何話したいか、分かるよな」

「……なんとなく、は」


 初めて会った二人のような、ぎこちない話出しだった。


「とりあえず、悪かった」

「とりあえず」

「いきなりキスして」

「……悪いと思ってたんだ」

「でも、後悔はしてない」


 トナーは夜空の星を見上げたまま続けた。

 会話がうまく続かず、不自然な沈黙が流れる。ニーナは居心地の悪さから逃げ出すように、身じろぎした。


「……なんで」


 気が付いたら口から出ていた。

 何に対する“なんで”かは、正直なところ自分でもよく分かっていない。


「好きな理由が聞きたい?」


 トナーは小さく笑った。


「いや……まあ、それもある、けど」

「……なんで、かぁ」

「理由、ないの」

「いや、山ほどある」


 予想外の言葉に、ニーナは言葉を詰まらせた。


「ニーナを好きな理由は、山ほどある」

「……どうも。でも、絶対言わないで」


 ニーナは恥ずかしさに耐え切れず顔を覆った。

 普段のトナーからは想像もできないような甘ったるい響きの言葉に、実はべろべろに酔ってるんじゃないのかと思った。けれど指の隙間から覗き見たトナーは、とても穏やかな顔をしていた。


「最初に、俺を明るい世界に引っ張りだしてくれたのは、ニーナだったよな」


 トナーは夜空を見上げたまま、懐かしむように言った。


「あれから、いろいろ、あったな」

「うん」


 覆っていた手を離し、再び足元の花に視線を落とす。

 いろいろ、あった。大きなことも、小さなことも、10年の間の出来事はすべて、今のニーナを作り上げた大切な宝物だ。

 きっと今、トナーもその一つ一つに思いを馳せているのだろう。


「10年は長いけど、思い出すと一瞬だった」

「そうだね。あっという間だったね」

「時々、考える。もし、あの時、地下倉庫でニーナに助けられていなかったら。もし、ディオとニーナが俺と友達になろうとしなかったら。もし、最初の試験で、隣に立っていたのがニーナじゃなかったら」

「……それは、私も、時々思うよ」


 もし、出会わなかったら、きっと人生はもっと違うものだっただろう、と。

 ディオとトナー。私たちはたくさんの“もしも”を共に進んだ、仲間だ。


「ありがとう」


 あまりに優しい響きの言葉だった。10年前、出会ったばかりのあの頃は、こんな風にトナーと話す日が来るなんて想像もできなかった。

 だから、ニーナは不安になった。


「……やめてよ、そんな……思い出話して“ありがとう”なんて、今生の別れの前の挨拶みたいな……」


 その不安が、杞憂などではないと、トナーの顔を見て理解した。

 みたい、などではないのだ。トナーは、本当にーー。

 ニーナの顔からさっと血の気が引いた。


「答えを聞きたい」


 トナーは落ち着き払った声で言った。けれど真っ直ぐにこちらを捉える瞳の奥には、確かに煌めくものがある。

 耐えられず、ニーナは視線を下げた。


「ニーナのことが好きだ。付き合ってほしい」


 いつかの日のように、トナーの指がニーナの指先を絡めとった。手は、骨ばっていて、冷たい。けれど絡んだ指先から、なにか熱いものが伝わってきた。

 は、とニーナは息を吐く。

 頭の中を、過去の宝石のような日々が、猛スピードで過ぎ去っていく。

 考えても考えても、答えは出ない。


「ニーナ」


 名前を呼ばれた。ニーナはゆるゆると顔を上げる。そっと、頬にトナーの手が添えられた。

 ああ、キスをされるんだと思った。

 目の前にトナーの顔がある。相変わらず、夜を映したような瞳は美しい。


「嫌なら、嫌って言って」


 祈るような言葉だった。

 どうか、嫌と言わないで。そんな、言葉の裏側に隠れたトナーの祈りを、ニーナはしっかり感じ取っていた。


「……私は……このままで……」


 トナーとディオと3人で、腐れ縁組と笑われながら過ごしたい。くらだないことで笑ったり、必死になって涙を流したり、そんな日々を過ごしたい。このまま、ずっと、変わらずに、


「変わらないでいられる。ニーナが、俺を受け入れてくれるなら」


 ニーナの心を読んだように、トナーは続けた。


 今、崖の上に立っている。でも、ただの崖じゃない。前も後ろも、自分の足元以外には地面がないやつ。そんなこと、現実ではありえないけれど、ニーナは今まさに、そこに立っている気分だった。イエスでもノーでも、ここから落ちて、世界が終わる。今まで大切にしてきた一つの世界が。

 今考えられることは、どちらに落ちた方が痛くないか、だ。

 たぶん、受け入れてしまった方が、痛くない。

 トナーのことは嫌いじゃない。むしろ好きだ。愛してる。でも、それは男性としてではない。

 でも、ほら、ディオも言っていた。愛の名前は小さなきっかけで変わったりするって。このキスをきっかけに、気持ちは変わるかもしれない。トナーを男性として、恋人として好きになるかもしれない。

トナーと付き合ったら、きっと幸せだろう。お互いのこをとよく知っているし、気楽だ。今まで通りディオと3人で飲みに行ったりもできるだろう。


「ニーナ」


 熱っぽい声が間近に迫っていた。

 ニーナは静かに目を閉じた。深く息を吸い、止める。



『ニーナ』



 馬鹿みたい。

 馬鹿みたいだ。

 こんな時にまで、思い出すのがあの人の声だなんて。


「……いや」


 唇が触れるまで、あと一センチもなかった。


「……いやだ……」


 自分のものだとは信じられないくらい、今にも泣きだしそうな声が、口から出た。


「トナーごめん……でも、私」

「……ん。分かった」


 わずかな沈黙の後、あっけなくトナーは離れた。

 深呼吸を一つ。立ち上がり、歩き出す。それ以上の言葉はない。

 ニーナは立ち上がり、トナーの名前を呼ぼうと口を開いた。トナーの背中を、長い髪が揺れている。開いた口からは、何も言葉が出ない。その背中にかけるどんな言葉も、今の自分にはないのだ。

 夜風が冷たい。

 力なく、ベンチに腰を戻す。

 たくさんの“もしも”を共に進んだ友人が、去っていく。トナーはその姿が見えなくなるまで、一度も振り返りはしなかった。


 夜空を見上げた。満天の星空は、変わらずそこにある。

 夜風が前髪を揺らす。星が瞬く。トナーを、思い出す。

 目元を腕で覆って、ニーナは唇を噛んだ。


 痛い。

 痛い。痛い。痛い。心の奥の一番柔らかい所が、痛い。

 最悪だ。こんな風に、気付きたくはなかった。こんな風に、受け入れたくはなかった。


「……たいちょう……」


 ああ――私は、隊長のことが、本当に好きなのだ。



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