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いつだってあなたが世界を変える 1


 今年は豊作でな。見習いの数が多すぎる。というわけで、今からもう一つ試験だ。今から隣のやつと軽く試合をしてもらう。ルールは簡単。相手に「まいった」と言わせる。な、簡単だろう? 残ったやつは、正式な見習いとして業務に励んでもらう。


 そう言って、教官役の男性は、ゆるりとほほ笑んだ。

 ニーナは入団初日の突然の試験に、ひどく肩を落とした。せっかく一つ目の壁を乗り越えたと思ったら、息つく間もなく次が来た。しかも、なにが“簡単だろ?”だ。ここまで残った人間を「まいった」と言わせることが、どれだけ難しいか。

 ――なんとかなりそうな相手だったらいいけれど。

 ニーナはそっと隣の男を見た。見て、背中を冷たいものが駆け上がっていくのを感じた。

 ……生きてるよね?

 そんな心配を持ってしまうくらい、隣に立った人物には生気がなかった。まるで幽霊だ。目は虚ろ。体は女性のように細い。顔には血の気がなく、深い夜のような髪色が肌の白さをいっそう際立たせていた。それなのに、纏っている空気は手負いの獣のように鋭く、禍々しい。


「あの……よろしく」


 握手を求め手を伸ばすと、男の目だけがぎょろりと動いた。瞳の奥はがらんどうで、こちらを見ているようで、見ていない。ニーナは顔が引きつりそうになるのを必死にこらえ、名前を名乗った。


「ニーナ・フィントよ」


 男から返事はなかった。


 結局ニーナが男の名前を知ったのは、それから2日後。

 彼に叩きのめされたニーナが、医務室のベッドの上で目を覚ました後のことだった。




***


 王都を出て小さな森を抜けると、“色彩の街”ルミナスに辿り着く。

 王都ほどの大きさはないが、美しい湖に隣接したこの街は、色彩の街の名にふさわしく一年を通して美しい風景に彩られている。街の門を抜けると、王都とは趣の違う木製の建物が目に入る。保養地や観光地として広く名を知られている街だけあって、にぎやかだ。

 周囲を見渡し、ディオは感嘆の声を上げた。


「きれいだな~! なあ、ニーナ!」


 突然声をかけられ、ニーナは、はっと顔を上げた。態勢を崩し、馬から落ちそうになるのを寸前でこらえ、同じように馬に乗って隣を歩くディオの顔を、きょとんとした顔で見る。


「あ、ごめん……な、なに?」


 ニーナの答えに、ディオは訝しげな表情を浮かべた。


「大丈夫かあ?」

「う、うん。大丈夫。急に声かけられたから、ちょっとびっくりして」

「ふぅん。ルミナスに着いたとはいえ、まだ一応警護中なんだから、あんまりぼーっとすんなよ」

「うん、ごめん」


 ニーナはため息をついてから、雑念を吹き飛ばすように頬を一度叩き、顔を上げた。

 仕事に集中しなければ。前を進む馬車には、高価な品々や重要書類が山のように積まれている。

王都からルミナスまでが近くとも、ほとんど犯罪が起こらない安全な道だとしても、警護の仕事である以上警戒を怠ってはならない。いつ何時、何が起こるかなんて分からないのだから。



 警護の任務が与えられたのは、随分急だった。

 “明日朝、王都を出る馬車をルミナスまで無事に送り届けること。”

 それをカイトから聞いたのは、出発前日の夕方だ。なんでも、荷主である商人が、先日の海賊騒ぎを聞きつけ、高価な品を運ぶのが不安になったらしい。

 行程は全3日。明日の朝一番に出発して、夕方にルミナスに到着。次の日、荷下ろしの手伝いをして、ルミナス支部に立ち寄る。翌朝一番にルミナスを出て、昼過ぎには王都に戻ってくる。チームはお前、それからディオとトナー。いつもの腐れ縁組だ。

 げ。

 今は、今だけは聞きたくなかった名前が上司の口から出て、ニーナは一瞬口ごもった。けれど、仕事は仕事だ。二つ返事で了承する。と、今度はどこから聞きつけたのか、隊舎中から人が集まってきた。

 なあ、ルミナス行くんだって。じゃあついでにこれもロベア商会のロビー会長に届けてくれないか。ルミナス支部のドルストさんから、この書類のここにサインをもらってきて欲しい。ルミナス支部の資料庫のどこかに押し込まれているであろうこの本を……

 噴き出したようにありとあらゆる要件をおしつけられ、結局ルミナスに2泊、行程は全4日に伸びることとなった。



 馬車を無事に商人が所有する倉庫に預け、ルミナス支部の隊員に夜間警護の引継ぎをし、1日目は無事に終了。3夜過ごす予定の宿屋はルミナス支部の目と鼻の先だ。街の雰囲気に合わせた瀟洒な雰囲気の隊舎を横目に、今晩の宿屋へと足を踏み入れ、ニーナは大きく体を伸ばした。


「つかれたぁ!」

「あんなに長い時間馬に乗ったの久しぶりだったな~」

「明日は筋肉痛になるかも」

「違いない」


 ディオと軽口を叩いている間、トナーが受付を済ませている。悪いな、と思いつつ、長い髪が流れる背中を見る。いつからか、3人でいる時こういうことはトナーの担当になってしまった。

 後でお酒の一杯でもおごらなければ。幸い、この宿の1階部分は酒場として営業しているようで、お礼には困らない。すでに、店の中はおいしそうな酒や食事を楽しむ客でいっぱいだ。


「……なあ」


 ディオが半歩こちらに近づき、少しだけ声のトーンを落とした。


「なんか、ニーナ、変じゃない」


 続いた言葉に、ニーナは思わず反応が少し遅れた。不自然なタイミングで返すことになった「え?」の声は裏返ってしまう。これではディオの言葉を肯定しているようなものだ。案の定、ディオの好奇心が見え隠れする視線が向けられた。


「なんかあった?」


 疑問形だが、確信めいていた。

 ニーナは「別に」となんでもないように返したが、ディオは引かない。今度は一歩分距離を縮め、肘で体をつついてくる。


「もっと“別に”っぽい顔しろよな~」

「うるさいな。別にって言ったら別になの」

「ふぅ~ん?」

「なに」

「べつにぃ」


 先ほどの言葉をからかうような言い方に、ニーナは片頬を膨らませた。「むかつく」投げやりな言葉に、ディオが勝ち誇ったような笑みを浮かべた。


「何年の付き合いだと思ってるんだよ。分かるぞ、分かるぞ~」

「しつこいな」

「ほらほら、大親友のディオ君に言ってごらん?」

「腐れ縁の間違いでしょ!」


 つついてくる肘を押し返し、おかえしだと言わんばかりに脇腹をグーで殴った。「ぎっ」と引きつった声が上がり、ディオが体を丸めた。「お、お前、もうちょっと手加減しろよ……」と非難の声が上がるが、ニーナは小さく舌を出した。


「は?」


 突然、先ほどまで冷静に受付の人間と話していたトナーが珍しく大きな声を上げた。「待て、なにかの間違いだろう」と続く声も動揺している。

 ニーナとディオは互いに顔を見合わせ、トナーの両隣から顔を出した。トナーも焦った顔をしているが、受付を担当している若い女性も困ったような顔をしていた。


「どうしました?」


 ニーナは受付の女性に尋ねた。

 女性はニーナを見ると、「あ」と何かに気が付いたような声を出し、すぐに焦ったような表情を浮かべた。


「も、申し訳ございません。手違いで一部屋しかとれておらず、本日は空きもないんです……その……騎士団の方々だと伺っておりましたので、てっきり皆さま男性だと思い込んでいて……」

「あー……なるほど」


 女性は今にも泣きだしそうだった。

 確かに、一人は女性だと言われないと、わざわざ2部屋取ったりしない。どこでその情報が途切れてしまったのかは分からないが、別に彼女のせいというわけでもないだろう。それに、こんなことはしょっちゅうで、男性と同室でも、別にいまさら気にすることじゃない。

 ニーナは女性を慰めるように言った。


「いえ、気にしないでください。別に一部屋でも構いません」

「おい!」


 声を荒げたのはトナーだった。

 振り返ったトナーと目が合う。夜を連想させるような深い紺色の瞳の中に、きょとんとした自分が映っている。

 ――ずっと好きだった。

 途端に、あの日のことを思い出した。つい視線を逸らしてしまう。気まずい。

 結局あの後、トナーはいたって普通だった。あのキスの前と変わらない態度で接してくる。動揺して、情けなく声を裏返したり、よそよそしい態度をとってしまうのはいつも自分だけだ。まるであの日のことなんて、なにもなかったみたいな。

 はたとニーナは気づいた。

 いや、その可能性もなくはない。むしろ珍しく熱を出した自分の見た夢の可能性も充分ある。そう考えればトナーの態度にも納得でき、


「いいじゃん、ニーナだっていいって言ってるんだから。なぁ?」

「え!」


 突然思考の海から引き揚げられて、ニーナは大げさなくらいの声を出した。トナーの向こう側から、ディオが体を乗り出すようにこちらを見ている。「またぼーっとしてる」不満そうに、ディオは口を尖らせた。


「ご、ごめん。でも、部屋は本当に気にしないでいいよ」

「ほらぁ、ニーナもそう言ってるじゃん。大体、今更3人で泊まるのにどうもこうもないだろ~。今までこんなこと何回もあったじゃん」

「うん。別に、私は気にならない……けど……」


 トナーの絶対零度の視線に刺され、つい言葉が尻すぼみになる。

 分からない。トナーはなぜ怒っているんだろうか。ニーナは身を縮め、半歩後ろに下がった。


「じゃあ、決まり。お姉さん、部屋案内してくださ~い」


 ディオの底抜けに明るい声よりも、トナーの怒り交じりにため息の方が、ニーナの耳にはよく聞こえた。



 案内された部屋は3階の角部屋だった。部屋は広く、ベッドは2台。どちらも2人で眠るに充分な広さがある。壁際に置かれたソファも、大人が3人並んでも充分な幅だ。

 我先にと部屋に飛び込んだディオが、大きな窓のカーテンを勢いよく引いた。夜に染まった街は、観光地らしく色とりどりのランプが浮かんで幻想的な雰囲気を醸し出している。「うひょー!」と、子供のように飛び跳ねるディオを横目に、ニーナは部屋の灯りを付けた。清潔で、3日間過ごすに不便はなさそうだ。


「最終日はみんなで飯食いに行こうぜ~」

「いいね。明日ルミナス支部の人たちにおすすめの店聞こうよ」

「酒がうまい店がいいな~!」


 荷物を降ろし、隊服の上着を脱いでソファに腰を下ろす。背中がソファに沈んだとたん、どっと疲れを感じた。そのまま天を仰ぎ、天井の木目をぼんやり見る。揺れる灯りで、睡魔に誘われる。ゆっくりと、瞼が落ちた。


「風呂行ってくる」

「あ、待てよ、トナー! 俺も行く!」


 ばたばたと足音を立ててディオが動き回り、荷物を漁る音が聞こえる。


「ニーナは、風呂どうする?」

「もうちょっと休んでから行く」

「部屋の鍵まかせていい?」

「ん……」

「じゃあ、行ってくるな!」

「はぁーい……」


 ドアが閉まり、部屋の中に静寂が落ちる。遠くからディオの馬鹿笑いが聞こえた。あの2人の会話は、ディオの剛速球をトナーが軽くいなすようなイメージだ。それは10年前からずっと変わらない。

 10年か……

 改めて意識すると、本当に長い時間、あの2人とは過ごしている。




***


 目が覚めて真っ先にニーナの頭に浮かんだのは、自分が脱落したかどうか、だった。訪ねてきた教官は、どこか申し訳なさそうに「大丈夫、きみは正式な見習いとして残れる」と言った。ほっとしたのと同時に、教官の後ろに見習いの少年が立っているのに気が付いた。

 赤茶のくせっ毛にそばかすの目立つ少年。ニーナは彼に見覚えがなかったが、彼はまるで昔からの友人と話すような調子で話しながら、教官と入れ違いになるようにベッド脇に椅子に腰を下ろした。


「なぁ、大丈夫か?」

「……誰?」

「あ、話すのは初めてか。俺、ディオ・グランツ。初日の試験でニーナちゃんの隣にいて、ニーナちゃんがトナー・ローレンに半殺しにされてるのを止めて、教官を呼んだ男だ!」


 力強く言い切って、ディオは胸を張った。

 なるほど。つまり、命の恩人だ! と言いたいらしい。


「……助けてくれてどうもありがとう」

「いいってことよ。でもさ、ニーナちゃんも、ああいう時は早く“まいった”って言った方がいいぜ。脱落したくないのは分かるけど、もう少し止めるのが遅れてたら死んでたかもしれないだろ。女の子なんだから、無理はしないほうがいい」

「……そうね」

「訓練に復帰したら、ああいう模擬戦闘みたいな時は、俺と組もうぜ! あいつとは違って女の子には優しいから。顔に傷とか作らないように、加減もできるし!」


 な? そう言って屈託のない笑みを浮かべたディオに、ニーナは笑顔を作り頷いた。頷いたけれど、腹の中ではちっとも笑えなかった。

 ――なめられてるなぁ。

 きっと彼には悪気なんてない。親切心でそう言っているだけだ。けれど、悪気がないからこそ腹立たしい。こんな風になめられていては、正式な隊員にはなれない。どこかで、名誉挽回しなければ。


 そう固く決意し、訓練に復帰して最初の模擬戦闘で、ニーナはディオに勝った。

 剣を落とし、地面に仰向けに倒れるディオの喉元に木製の剣の切っ先を押し付け、口の端をつり上げる。


「手加減してくれて、どうも」

「いや……はは……」


 トナーは驚きに満ちた目でこちらを見ていた。

 最初は本当に手加減されていた。けれど剣がぶつかり合う度に、ディオの手加減がなくなっていくのには気付いていた。最後、剣を弾き飛ばして腹に蹴りを入れ地面に倒した時には、もう手加減の手の字もない。

 ニーナは勝ち誇ったように言う。


「ほら、参ったって言って?」


 ムカついていた。彼はきっと優しいのだろう。けれどああいう場面での女の子扱いは、一番腹が立つ。

 最初にトナーに負けた自分が悪いのだが、あの一件で周囲が自分を弱い存在だと思い始めているのには気が付いていた。だから、早く払拭しなければいけない。私だってお前たちのライバルだと、認識させなければ。


「早く」


 ニーナはもう少しだけ剣を喉に押し付けた。ぐ、とディオの顔が苦し気に歪む。

 腹の底に、ほの暗い、喜びにも似た感情が生まれた。さあ、早く。早く、悔しさに顔を歪めて、参ったって言え。


「……す、すげぇな!」


 が、ニーナの予想に反して、ディオの口から出たのはやけに明るい声だった。


「……は?」

「すげぇ強いじゃん! 悪かった。俺、お前のこと正直ちょっと舐めてた。でも、感動した! ありがとう! 友達になろうぜ!」


 仰向けに転がったまま喉元に剣を突き立てられながら、太陽のような笑顔で握手を求めるそのちぐはぐさに、ついニーナは噴き出した。


「ちょっと抜けすぎじゃない?」

「なにが!? で、どうする、友達になるか?」


 ニーナは剣を引いた。代わりに手を指し伸ばす。握った手は春の日差しのように暖かく、さきほど生まれたほの暗い感情も、しゅるりと消えた。


「よろしく、ニーナ」

「よろしく、ディオ」


 ディオは今まで会った人物の中でも、底抜けに明るく、いい人だった。いつでも笑顔で、顔が広い。まだ見習いになったばかりだというのに、廊下をすれ違えば見習い隊員だけでなく正式な隊員達からも声をかけられている。ディオは人間関係を作ることにいたっては、天才的だ。


「いや、それは買いかぶりすぎ」


 訓練終わり、そんな話をしているとディオは困ったように笑った。


「おれだってムカつく相手とか、苦手だなーって思うやつくらいいるよ」

「例えば?」

「例えばって……」


 ディオは戸惑ったような表情で、少し前をぽつんと歩く男を指さした。長い紺色の髪が、歩幅に合わせて揺れている。


「トナー・ローレンとか」

「なんで?」

「なんでって……あいつはヤバいだろ」

「ヤバい?」


 ニーナが首を傾げると、ディオの戸惑いはますます濃くなった。


「お前、忘れたのかよ。殺されかけたんだぞ!」

「あー」

「あー、じゃないだろ。まじで、あの時の光景、おれちょっとトラウマなんだけど! あいつ、噂だと“特別枠”で見習いになったって話だし。絶対やばいって」

「“特別枠”?」

「知らないのかよ!」


 ディオは大げさなくらい驚いて、顔を覆って見せた。


「粗暴で手が付けられないような問題児とか、罪を犯したけどまだ歳が若いとか、とにかく、素行に問題はあるけど秀たものがあるやつを、騎士団の見習いにしてみるっていう試みがあるんだよ。蛇の道は蛇ってやつ」

「へー」


 ニーナはトナーに初めて会った時のことを思い出した。なるほど、あの危うげな雰囲気はそのせいだと言われれば、納得できる。

 少し前を歩くトナーを見た。

 見習いになってしばらく経つ。厳しい訓練についていけず脱落する者が出始めた一方、残った者の仲はどんどん深まってきた。仲のいい友人ができ、休憩中に話すことも、休日一緒に食事に行ったりすることもある。けれどトナーが誰かといるところは、まだ一度も見たことがなかった。

 同じ場所にいるのに、違う世界で生きているような寂しさを感じる。


「……私は、友達になりたいな」

「……はあ!?」


 一拍遅れて、ディオは世界が終わる音を聞いたかのように、目をまん丸に見開いてみせた。


「なななな何言ってんだよ!?」

「だめかな。なんか、意外と合う気がする」

「合わねー! だから何回も言ってるけど、お前、殺されかけたんだぞ!」

「いや、私じゃなくて、ディオとトナー・ローレン」

「もっと合わない!」


 どういう思考回路なんだよ、と憤慨するディオに体を揺さぶられながら、ニーナの脳裏にはある光景が浮かんだ。

 トナー・ローレンとディオが並んで歩いている。二人は笑顔で何かを話していて、そこに自分が駆け寄っていくところだ。3人とも、当たり前のような顔で騎士団の隊服を着ている。

 やけに現実味のある光景だった。希望的観測ではなく、もっと、予感めいた――


 2人がいてくれて、よかった。


 誰が言ったのかは分からないが、そう聞こえた。

 駆け寄ったニーナはそのままトナーの背中に抱きつき、見上げる。トナーは笑っていた。こんな風に邪気がない、朝を待つ夜のような穏やかな顔で笑えるんだと、嬉しくなる。トナーの顔が近づいた。

そして、そっと唇が触れ――





「うわぁーーー!?」


 がばり、とニーナは体を起こした。

 夢だ。すっかり寝てしまったようだ。疲れた時に見る夢は大抵ろくなものじゃない。ニーナは額に浮かんだ冷や汗を拭い、部屋の中を見渡し、また叫び声を上げた。


「うわぁ! トナー!」

「……お前、なにさっきから一人で騒いでんだよ」


 上半身裸で、タオルをかぶったトナーは、迷惑そうに顔を歪めた。どれくらい眠っていたのか、トナーはすでに風呂上がりだ。解かれた長い髪はしっとりと濡れ、鎖骨に垂れている。雫が一滴、胸元を流れた。細かな傷跡が浮かんだ体は、よく鍛えられている。

 ……いや、いや。どこ見てるんだ、自分。

 別に裸なんて見慣れているのに、やけに気まずい。誤魔化すように、ニーナは部屋の中を見渡した。


「……あれ? ディオは?」

「風呂場で会ったおっさんと意気投合して下で一杯飲んでる」

「へ、へぇー」


 二人きりじゃん!

 さっきまで見ていた夢が、まだ頭にこびりついている。なんでもないふりをして返事をしたが、心臓は早鐘を打つ。よりにもよってこんなときに! ディオの馬鹿野郎! 理不尽な八つ当たりをしつつ、ニーナはソファから立ち上がった。

 とりあえず二人きりは避けたい。私も風呂に行こう。

 荷物の中から乱暴に着替えを引き抜いて、ぐしゃぐしゃに丸めて抱える。「私も、お風呂、行きます!」と、誰に向けたか分からない宣言をしつつ、トナーの顔を見ないように見ないように、ドアに向かった。


「なあ」


 ドアノブに手が振れる直前、手首が誰かに掴まれた。

 誰かに、なんて、言うまでもなくトナーに決まってる。部屋には今、二人きりなのだから。ニーナは上げそうになった叫び声を必死に押し込めつつ、笑顔でトナーを見上げた。


「……お風呂に、行きたいん、です、けど」

「なんで、敬語?」

「な、なんで、でしょう?」


 無理だった。笑顔の端が引きつり、言葉は中途半端に途切れる。動揺してますと、全身で叫んでいるようなものだ。

 反して、トナーの表情は変わらない。そして、手首を握った手も、動かなかった。

 しばしの沈黙の後、呆れ交じりのため息が一つ。


「……俺はお前が、何考えてるかだいたい分かる」

「何言って、」

「……夢なんかじゃない」


 ぎくり、とニーナの表情がこわばった。


「あの日、俺はお前にキスした」


 改めて言葉にされると、またあの生々しい感触が甦った。頬に熱が集まる。見られないように、ニーナは慌てて顔を下げた。


「でもあの時、ちゃんと言葉にしなかったから、俺が悪い」


 この先の言葉を、ニーナはできれば聞きたくなかった。


「好きだ、ニーナ。隊長と付き合ってないなら、俺と付き合ってほしい」


 この熱量に答えうるだけの、どんな言葉も、ニーナは持ち合わせてはいなかった。

 体中の血液が沸騰するようで、けれど頭のどこか奥のほうで絶望にも似た冷たさが広がっていく。足元がぐらついて、一瞬呼吸を忘れかけた。

 沈黙は重く、体は自由にならない。ただ、掴まれた手首の感触だけが現実的だった。


「……ニーナ」


 ねだるような声が、降ってくる。けれど視線は上げられない。


「……ニ、」

「ルミナスの酒最っ高ー!」


 ばーん! と効果音が付きそうな勢いで、ドアが開いた。

 どーん! と効果音が聞こえてきそうな勢いで、ドアがニーナの頭に直撃した。

 吹き飛ばされるように倒れ、そのまま尻もちをつく。驚きが先行していたが、すぐに鈍い痛みが追いかけてきた。

 ほんのり頬を染め、上機嫌で部屋に入ってきたディオは、眼前に広がった光景を見てすぐに察した。顔が一瞬で真っ青になる。


「ごごごごごめん!」

「……~っ、だ、大丈夫」

「馬鹿! 部屋入る時はノックしろよ!」

「ごめん。まじでごめん」

「いや、ほんとに大丈夫……むしろ、ありがとう」


 差し出された手には縋らず、ニーナは壁伝いに部屋から出た。後ろから「ほんと悪かったよ! ごめんなぁ!」とディオが大きな声で叫ぶが、本当に大丈夫だ。むしろ助かった。もうあれ以上、1秒でもあの空気には耐えられなかった。


 夢じゃない。なにもかも。

 なにもかも、どんどん、遠ざかっていってしまう。


 このままじゃ、だめだ。



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